【トップページ】 |
|
|
【トップページ】 |
|
|
【た】
●大鵬 たいほう
[参照:納谷幸喜]
●大工哲弘 だいく てつひろ
1948年、沖縄県石垣市(八重山)に生まれる。八重山地方に伝承される多彩な島唄をこなす八重山民謡の第一人者。沖縄県無形文化財保持者。琉球民謡音楽協会会長。国内はもとより、世界各地で広くコンサート活動を行なっている。さらに世界の民族音楽家、ジャズやロックのミュージシャンなどとの共演活動も意欲的に行なっている。全国の八重山民謡教室の支部において、沖縄・八重山民謡の普及・育成にも力を注ぐ。
『道』175号 対談「八重山民謡に刻まれた「心の復興」への祈り―― 沖縄の歌と三線」
●高木善之 たかぎ よしゆき
1947年大阪生まれ。大阪大学物性物理学科卒業、パナソニック入社。
中央研究所、本社企画室。在職中は半導体、コンピュータの研究開発、フロン全廃、割り箸撤廃、環境憲章策定、森林保全など環境行政を推進。
本業以外では音楽分野で活躍。1981年、交通事故をきっかけに平和と環境問題に意識転換。1991年、『地球村』を設立。多数の国際会議に出席など国内外で活躍。
難民支援、人道支援、災害支援、環境保全などの国際活動を続けている。
平和、環境、生き方に関する著書多数。
『道』196号 会見「非対立でめざす みんなが幸せに生きる地球」
ネットワーク『地球村』 http://www.chikyumura.org
●高野誠鮮 たかの じょうせん
1955年石川県羽咋市生まれ。科学ジャーナリスト。東京でテレビの企画、構成作家として活動したあと、1984年に羽咋市に戻り、羽咋市の職員となって独創的な着想で様々な難関とされる役所の仕事をこなす。その桁違いな行動力から、「スーパー公務員」と呼ばれる。
羽咋市教育委員会 文化財室長 立正大学客員教授 日蓮宗 本證山 妙法寺 第41世 住職
著書に『ローマ法王に米を食べさせた男』(講談社)がある。
『道』183号 会見「『できない』とあきらめず、まず行動。そして成功するまでやり続ける!」
FaceBook http://www.facebook.com/johsen.takano
●鷹觜守彦 たかのはし もりひこ
1947年、岩手に生まれる。1972年、宮城教育大学を卒業後、岩手大学で修士課程修了。1974年から地熱開発事業に携わり1987年、東北大学より工学博士を授与される。1997年、技術士(応用理学)。宮城教育大学時代、合気道を始め、半沢義巳、斉藤守弘、岡崎聡、奥村繁信師範の指導を受ける。合気道6段。東北合気道連盟理事、合気会岩手県支部事務局長を経て、現在岩手県支部盛岡西道場顧問。また日本地熱学会評議員として地熱開発事業の開発促進に努める。東北地熱エネルギー株式会社 常務取締役。工学博士。
『合気ニュース』132号 会見「宇宙、地球、そして合気道」
●高村雪義 たかむら ゆきよし
1928年〜2000年。滋賀県大津近郊で生まれる。6歳頃より祖父の神道楊心流柔術免許皆伝小幡茂太の指導を受ける。16歳で神道楊心流免許皆伝。1945年、祖父および父の逝去後、茂太の弟子・波白松広より剣術も含む武術稽古を受ける。1959年、カリフルニア州に移住。1956年、同州サンノゼにて武術指導を始める。現地では“高村派新道楊心流”として教授した。1990年、引退の後はスウェーデンに住んだ。高村派新道楊心流柔術。
『合気ニュース』136号 「武道指導と守破離」
オンライン記事 高村雪義氏に聞く
●田口壮 たぐち そう
1969年、 兵庫県西宮市生まれ。1991年、オリックスブルーウェーブにドラフト1位で入団。1994年、内野手から外野手に転向。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞5回。
1995年〜1996年、シーズン連覇。
1996年には日本一になる。
2002年、セントルイス・カージナルスに入団、32歳でメジャーに挑戦。
2004年、ワールドシリーズに進出、先発出場し安打を打つが、ボストンレッドソックスに敗れる。
2006年、 ワールドシリーズに日本人初となる二度目の出場。
プレーオフではメッツの守護神からホームランを放って流れを引き寄せ、シリーズでは100パーセントの確率で期待されたバントを見事成功させた。大技小技でカージナルスの世界制覇を支えた。
世界一が決まった瞬間にフィールドに立っていた初めての日本人。
『道』152号 対談「世界の頂点に立つ メジャーリーグから見た野球と『道』」
対談集 『大河にコップ一杯の水 第2集』
●竹下勇 たけした いさむ
1860年頃〜1949年。海軍大将で1925年頃植芝盛平に入門。1920年代後期から1930年代初期にかけて植芝の指導の模様を綴った詳しいメモを数百枚記録した。竹下は1935年、日本古武道振興会主催の第1回演武会で合気柔術を演武した。これは皇武館道場を代表したものである。1941年、竹下大将を通じて斉寧館道場で植芝による天覧演武会が行なわれた。天竜の会見によると竹下は相撲協会の会長にもなったという。
●武田惣角 たけだ そうかく
1859年10月10日〜1943(昭和18)年。会津(福島県)河沼郡広瀬村大字御池田63番地に武田惣吉の次男として生まれる。2度結婚し先妻・こんとの間に2人もうけた。長男の名は宗清という。後妻・すえとの間には、武宗、たえ、時宗(惣角を継ぐ)、榮子、宗光、しずか・宗吉をもうけた。明治、大正、昭和の三代にわたり日本で大東流合気柔術を広める。日本全国を回りながら陸海軍や警察関係、また家庭の裕福な者に指導した。長い武道人生の中で、約3万人の門人に指導したと言われる。植芝盛平には1915年、北海道遠軽で初めて教授した。著名な弟子に吉田幸太郎、佐川幸義、堀川幸道、久琢磨などがいる。
※詳しくは大東流の年譜参照。
改訂版 『武田惣角と大東流合気柔術』 (弟子の会見集)
オンライン記事【特集】武田惣角の人間像
●武田時宗 たけだ ときむね
1916年〜1993年12月。北海道紋別郡に武田惣角の三男として生まれる。1943年、惣角の死亡により家督相続、大東流宗家を名乗る。1946年、北海道巡査刑事課程を修了、警察勤務となる。1953年、大東館館長となる。1985年、古武道振興会より古武道振興発展功労により表彰。1987年、古武道協会より伝統古武道伝承により表彰、網走市文化賞受賞。
改訂版 『武田惣角と大東流合気柔術』 (1985年、1986年の会見を掲載)
●多田宏 ただ ひろし
1929(昭和4)年12月14日〜。早稲田大学法学部学生の時、植芝道場に入門。1952年大学卒業後は、就職をせず合気道と日本武道の歴史の研究を専門とする。合気会合気道本部道場師範、防衛庁、学習院大学、慶応大学、早稲田大学の合気道会師範となる。1964年、合気道普及のため渡欧、ヨーロッパ各地で稽古と指導を行なう。とくにイタリアでは、イタリア政府公認の財団法人日本伝統文化の会=イタリア合気会を創設し、会長主席師範となる。1970年帰国。以後日本とヨーロッパを往復して、指導にあたっている。合気道9段。合気会本部道場師範。早稲田大学合気道会、東京大学合気道気練会師範。イタリア合気会主任教授。合気道多田塾を主宰。国際合気道連盟委員。
『合気ニュース』101号 会見「日本文化のエッセンス 合気道を21世紀へ」
『合気ニュース』132号 第14回国際武道文化セミナー レポート「武道の生き方を現代に活かす心身統一法」
『道』153号 講演録「合気道は、命の力の高め方、保ち方、使い方を身につける道」
会見集『植芝盛平と合気道 第2巻』 (1994年の会見を掲載)
合気道多田塾 http://www.asahi-net.or.jp/~yp7h-td/index.html
●辰巳芳子 たつみ よしこ
1924年、東京生まれ。料理家、随筆家。聖心女子学院卒。戦後まもなく重い結核にかかり25歳から15年間、療養生活を送る。この時期に料理研究家の草分け的存在だった母・浜子について日本の家庭料理を体得。後にイタリアで料理を学び、欧風料理は加藤正之に13年間師事。72年、父親が脳血栓で倒れ、母と共に嚥下困難な父の介護をする中で、ひと椀の中に魚貝、野菜、穀類、豆を組み合わせた独自のスープ料理を考案。後に鎌倉で、訪問介護スープサービスを始める。
96年、鎌倉の自宅で「スープの会」を主宰。「確かな味を造る会」最高顧問、「良い食材を伝える会」会長。
2004年からは、学童に大豆を播き育ててもらう「大豆100粒運動」を発足。
著書に『手しおにかけた私の料理』(婦人之友社)、『辰巳芳子の旬を味わう』(日本放送出版協会)、『家庭料理のすがた』『あなたのために』(文化出版局)など多数。
『道』148号 対談「“食”は、先人が守り残した、生き抜くための道筋です」前編
『道』149号 対談「食は、生命という視点ではすべてなのです」後編
『道』151号〜165号 連載「生き抜くための稽古」
対談集 『大河にコップ一杯の水 第1集』
辰巳芳子オフィシャルサイトhttp://www.tatsumiyoshiko.com/
●龍村仁 たつむら じん
1940年兵庫県宝塚市生まれ。映画監督。
京都大学文学部美学科卒業後、NHKに入局。主にフィルム・ドキュメンタリーを演出する。
同局退社後、インディペンデント・ディレクターとしてドキュメンタリー、ドラマ、コマーシャル等の数多くの作品を手がける。1992年よりドキュメンタリー映画『地球交響曲』シリーズを公開。2000年春、龍村仁事務所を設立。2006年までに『地球交響曲 第一番』から『第七番』まで完成させている。
『道』159号 対談「時空を超える出会い(前編)」
『道』160号 対談「時空を超える出会い(後編)」
対談集 『大河にコップ一杯の水 第2集』
地球交響曲 龍村仁事務所 http://gaiasymphony.com/
●田中茂穂 たなか しげほ
1928(昭和3)年3月28日〜。東京出身。合気道9段。1949年、拓殖大学卒業。年少の頃より柔剣道を修行。戦後、合気道開祖植芝盛平翁、植芝吉祥丸道主より合気道を、鹿島神流第18世宗家国井道之師範より鹿島神流を学ぶ。1954年、東京大学合気道部を創設し、師範となるほか、中央大学、専修大学、富山大学、金沢大学、日本国有鉄道本社、ならびに中央鉄道学園にて合気道の師範となる。
1973年、合気道8段位。明治神宮至誠館に奉職。毎年海外の指導、遠征は数多く、韓国、カナダ、ドイツ、イングランド、東南アジアそのほかに招請されている。
1993年、体育功労者文部大臣祥表彰受賞、秋の叙勲で木杯賜与。至誠館館長退任、名誉館長に就任、現在にいたる。
『合気ニュース』116号 会見「明治天皇を祀る大社の森深く、武士道を伝える憂国の士」
●田中万川 たなか ばんせん
大阪府出身。1936年、大阪に滞在中の植芝盛平の技に感嘆し、合気武道を始める。植芝の命により、60畳ほどの道場を作り井上鑑昭による指導を実現。1951年、1ヵ月程岩間の合気修練道場に滞在し、開祖より個人指導を受ける。1952年、合気会大阪支部道場を設立、1971年、財団法人大阪合気会となる。『合気道神髄』を著す。
『合気ニュース』68号
会見集『植芝盛平と合気道 第1巻』 (1985年の会見を掲載)
●谷口稜曄 たにぐち すみてる
1929年生まれ。16歳で本博多郵便局に勤務。集配中に路上で被爆し後、全身に大火傷をおったが、奇跡的に一命をとりとめる。国内外で被爆者の実態と核兵器廃絶を訴える。長崎原爆被災者協議会会長。83歳。
『道』173号 会見「原爆を背負い続け67年」
●田原弘徳 たはら ひろのり
昭和15年、熊本県八代生まれ。東京都町田市在住。剣道範士 八段。宮本武蔵顕彰 武蔵武道館 名誉館長。三井住友火災海上 剣道師範。警視庁警察学校・警察大学校術科指導者義成科 修了。警視庁剣道副主席師範を経て、関東管区警察学校術科教官室長(教授)。関東管区警察学校名誉師範。日本各地はもとより、スペイン(バスク地方、ビルバオ)、ボストン(ハーバード大学)、イタリア、ベルギー等海外でも、指導、大会審判等多数。
『道』171号 会見「人間形成の道 真の日本人を育てる、剣道の心」
●田村信喜 たむら のぶよし
1933(昭和8)3月2日〜2010年7月。大阪出身。1953(昭和28)年頃から1964(昭和39)年まで合気会本部で内弟子として修業。植芝盛平の資料映画では受身として多く登場している。1964(昭和39)年フランス・マルセイユに発つ。数々な政治的段階を経て現在はフランスで2番目に大きい合気道組織・FFAB(Federation Francaise d'Aikido et de Budo)の中心的人物。合気道に関するフランス語の本を2冊執筆している。合気道8段。
『道』155号 会見「伝えたい、日本人の誇りと感性」
会見集『植芝盛平と合気道 第2巻』 (1984年の会見を掲載)
【ち】
●千田務 ちだ つとむ
昭和25年10月4日東京に生まれる。昭和44年、養神館に入門。養神館本部道場長。養神館合気道8段。
『合気ニュース』135号 会見「基本を自分で厳しくチェックし、技の完成を目指す」
●千葉和雄 ちば かずお
1940年2月5日東京に生まれる。合気会8段。1958年合気会本部道場に内弟子として入門。3段修得後、名古屋合気会の責任者として本部より派遣され指導。内弟子時代植芝盛平の伴をして関西、九州方面などを指導。1966年英国の柔道審議会内における合気道セクションの師範として招かれて渡英、10年ほど滞在。1976年国際合気道連盟(IAF)創設に際して秘書官を3年間務める。1981年、米国合気道連盟の招きにより渡米、現在サンディエゴ(カリフォルニア)合気会師範。
『合気ニュース』102号 会見「武道としての合気道を考える」
【つ】
●坪井直 つぼい すなお
大正14年(1925)生まれ。旧制官立広島工業専門学校(現広島大学工学部)の学生だった20歳の時に被爆。元教諭で、昭和61年(1986)に広島市立城南中学校長を退任後、被爆者運動に加わり国内外で被爆体験講話等を通じて核兵器廃絶と世界平和を訴えている。日本原水爆被害者団体協議会 代表委員。広島原爆被害者団体協議会 理事長。広島平和文化センター 評議員。平成23年(2011)谷本清平和賞を受賞
『道』172号 会見「ネバーギブアップ! 『命が一番!』の祈りがかなうまで」
【て】
●出口王仁三郎 でぐち おにさぶろう
1871(明治4)年8月22日〜1948(昭和23)年1月19日。旧名上田喜三郎。京都府亀岡近郊の貧しい農家に生まれる。僅か12才で村の小学校の代用教員を務めた。1898年10月、大本教開祖・出口なおに会い、翌年大本に入った。
1900年元旦、なおの五女・すみ(後の二代教主)と結婚し名前を出口王仁三郎とした。
1918年11月6日のなおの死去後、大本教の道統はすみが継承し二代教主となった。王仁三郎は大本教の中心人物として急速に教勢拡張を計った。
1919年12月、王仁三郎は合気道開祖植芝盛平と綾部で初会している。この時盛平は父・与六の危篤の知らせを受け北海道から紀州田辺に向かう途中であった。王仁三郎は盛平に対し「あなたのお父さんはあれでよいのや」と言い、「天寿」の死を心穏やかに受けとめる態度こそ最善の供養であることを諭している。この時より盛平は大本教への関心を深め、1920年に綾部に移住。
1921年第一次大本事件、1935年第二次大本事件の際、王仁三郎は当局の弾圧を受け、幾度か投獄された。太平洋戦争末期の1944年暮れ保釈中の王仁三郎は翌々年3月までに約3千点に上る「燿わん」と呼ばれる焼きものを残した。
1948年1月19日朝、亀岡天恩郷で76年の生涯を閉じ、2月、綾部天王平の奥都城に埋葬された。
●出口京太郎 でぐち きょうたろう
1931(昭和6)年〜。大本教教主・出口直日と大本教教主補・出口日出麿の息子で現在は京都府中部の亀岡在住。出口王仁三郎とすみ子の直孫。出口王仁三郎の生涯を綴った「巨人出口王仁三郎」の著者。この本は英・仏語にも翻訳された。学生時代井上鑑昭の下で合気道の修行をした。
●出口なお でぐち なお
1836(天保7)年12月16日〜1918(大正7)年11月6日。大本教開祖。丹波(京都府)の福知山に生まれる。10歳で父を失い奉公に出る。17才の時、綾部に住む伯母・出口ゆりに望まれて養女となり、出口政五郎を婿に迎えた。幕末から明治初年にかけ11人の子を産み、貧しい生活の中三男五女を育てた。数々の苦労を重ね1892年57才の時、激しい神懸りに陥るようになる。なおは神懸りの中「この神は三千世界(現界・幽界・神界)を立替え、立て直す神である」と宣言した。なおはこの1892年から27年間に帰神の状態において御筆先を書いた。この教えをもとに大本教が始まる。1900年、後の大本聖師・出口王仁三郎(旧名上田喜三郎)がなおの五女・すみ(後の二代教主)と結婚し、独自の大本教教義が整えられていった。大本教は王仁三郎によって急速に教勢拡張されたが、後に1921年、1935年の大本教事件で神殿や施設が破壊されるなど政府からの弾圧を受けた。
●出口和明 でぐち やすあき
1930(昭和5)年8月15日〜2002年。出口王仁三郎の孫として生まれる。1952年、早稲田大学入学。その後多くの職業を経験。1963年『兇徒』で第2回オール読物推理小説新人賞を受賞。愛善苑責任役員。霊界物語刊行会会長。
主な著作に、『大地の母』(毎日新聞社)、『神の活哲学』(お茶の水書房)、『予言と神話』(八幡書店)、『出口直・王仁三郎の予言・確信』(光書房)、『出口王仁三郎の入蒙秘話』(いづとみづ社)など多数がある。
『合気ニュース』142号〜146号 連載「出口王仁三郎の宇宙観」
●デーケン,アルフォンス Deeken,Alfons
1932年8月3日ドイツ生まれ。1959年来日。1973年フォーダム大学大学院(ニューヨーク)で哲学博士の学位(PhD)を取得。以後30年にわたり、上智大学で「死の哲学」などの講義を担当。現在、上智大学名誉教授。「東京・生と死を考える会」名誉会長。「生と死を考える会全国協議会」名誉会長。1991年全米死生学財団賞、第39回菊池寛賞、1998年ドイツ功労十字勲章、1999年第15回東京都文化賞などを受賞。主要著作:『よく生き よく笑い よき死と出会う』(新潮社)、『死とどう向き合うか』(NHKブックライブラリー)、『ユーモアは老いと死の妙薬』(講談社)、『生と死の教育』(岩波書店)、他多数。
『道』157号 会見「潜在能力を開発し、よりよく生きる」
対談集『大河にコップ一杯の水 第2集』
●寺田精之 てらだ きよゆき
1922(大正11)年〜2009年。 長崎県に生まれる。昭和21年、拓殖大学卒業。昭和26年、合気会道場に入門。現在、(財)合気道養神会最高師範。現在(財)合気道養神会最高顧問。養神館合気道精晟会会長。
『合気ニュース』128号 特集「戦後の合気道復興の推進役 養神館」――養神館設立に奔走した頃」
●天竜 てんりゅう (本名:和久田三郎)
1903(明治36)年11月1日〜1989年。静岡県浜松市大久保町出身。1920〜30年代に活躍した著名な相撲力士で、1932(昭和7)年相撲界を衝動させた新興力士団改革運動(相撲道の改革を叫んで出羽一門の幕内、十両力士らを誘って、東京・大井の料理屋春秋園に立てこもり、協会に十ヵ条の要求書を突きつけた)の中心人物である。その後満州国に渡り満州国武道界常務理事の要職に就いた。1939(昭和14)年に植芝盛平の技を見、手合せをしてその技に感服、植芝を追って上京、東京牛込若松町の皇武館に入門し約70日、集中的に稽古をする。1969(昭和44)年に植芝が他界するまで親交は続いた。
会見集『植芝盛平と合気道 第1巻』 (1987年の会見を掲載)
【と】
●東城百合子 とうじょう ゆりこ
大正14(1925)年岩手県生まれ。昭和17年、当時日本の栄養学の草分けだった佐伯矩博士に師事、栄養士となる。
昭和24年重症の肺結核を患い、一時は死を覚悟する状態となるが、玄米自然食と自然療法によって病気を克服。以来病に苦しむ人を一人でも多く救いたいと、自然の食べ物、自然の力を主とした健康運動を始める。
当時世界的な大豆博士と言われた国際栄養研究所所長、国際保健機構理事、WH.ミラー博士に師事し、その縁で、終戦後の混乱のさめやらぬ沖縄にわたり、3年間、沖縄全島に健康改革の光をともす。昭和48年、月刊誌「あなたと健康」を創刊。出版活動、健康食料理教室、栄養教室、講演活動と、自分を育てるために啓蒙運動に力をそそぎ現在に至る。
東城先生の著書は多数あるが、なかでも昭和53(1978)年に発刊した『家庭でできる自然療法』は、広告、宣伝を一切することなく、今年100万部達成の大ベストセラーとなった。東城先生はそのあとがきに、「書いたのは自分であるが、本当の著者は自然である」と綴り、数々の苦難を救ってくれた自然の力への感謝を伝えている。
また、活動の母体である、あなたと健康社は、「商売ではなく、健康で一家団欒を目指し、自然を師として生きようとする教育が目標である」と断言し、その揺るがぬ信念を貫いている。
東城先生の苦難に満ちた人生はその著書に詳しいが、自然を師とし、人生の師に巡りあうことで希望を失わず逃げずに歩んでこられた先生の生き抜く力に触れていただければと思う。
著書/『家庭でできる自然療法』『食卓から人生を変える』『健康料理』『マイナスもプラスに生きる』など多数。
『道』188号 会見「お天道さまがくれた力」
●藤平光一 とうへい こういち
1920(大正9)年1月20日〜2011年5月19日。東京下谷に生まれる。幼少の頃、体が弱く、心配した父親の手ほどきで柔道を始める。15歳で黒帯を許される。1年後、慶応大学予科に入学。柔道の練習過多のため肋膜炎になり、1年間休学。静養中、みそぎ呼吸法、禅などを熱心に修行した。19歳の時、合気道開祖植芝盛平に出会い、入門。23歳で陸軍に応召。銃弾の行き交う下で鎮める秘訣を会得した。
1953年より71年まで15回渡米し、全米に合気道ならびに氣の原理を指導、普及。1969年、合氣道10段を受ける。1974年(財)合気会を離れるまで同会師範部長、理事を務める。戦後の合気道の発展に主要な役割を果たした一人。
1971年、氣の研究会を設立。77年、財団法人となる。同会宗主。
会見集『植芝盛平と合気道 第2巻』 (1995年、1996年、1997年の会見を掲載)
●富木謙治 とみき けんじ
1900(明治33)年〜1979(昭和54)年。秋田県角館に生まれる。1923(大正13)年、早稲田大学政治経済学部入学、柔道部に所属。講道館にも通い、柔道の創始者嘉納治五郎の教育理念に接し多大な影響を受ける。1926(大正15)年頃、植芝盛平に出会い入門。1936(昭和11)年、満州に渡り大同学院の講師、1938(昭和13)年、建国大学助教授、1941年同教授を務める。1954年、早稲田大学教授、同大学体育局教務主任。1970(昭和45)年、早大退職。翌年、講道館柔道8段。1974(昭和49)年、日本合気道協会発足、会長に就任。1975(昭和50)年、日本武道学会副会長に就任。
『合気ニュース』128号 特集「競技理論の原点を探る 富木謙治が目指したもの」
『合気ニュース』129号 「制御する技術 富木理論に基づく合気道の原理とは」
『合気ニュース』131号 「第四回 国際合気道競技大会」
会見集『植芝盛平と合気道 第1巻』 (1974年の会見を掲載)