季刊『道』 175号(2013年冬)
『道』175号 [詳細・購入ページ]
巻頭の対談では、一見何の関連もないような民謡と空手の型の間に、共通点が多いというところに驚きました。あらゆる分野での「道」を真正面から貫き極める生き方をする人は、分野は違えど同じような悟りに辿り突くのではないでしょうか。また、民謡と空手の型は無形遺産であって、その伝統を継承するための伝達者としての役割をお二人は担っているがゆえに、対話が尽きることがないほど波長が合うのではないでしょうか。本来は、一般的なサラリーマンのなどの仕事においても、歴史を伝承するという程の使命感や気迫を持って取り組めることがあるべき姿なのであって、それが単なるお金を稼ぐ手段になり果ててしまえば個人としての生きる活力も失われ、ゆくゆくは社会全体にマイナスに作用してしまうのでしょう。社会に出たらお二人のような「道」としての生き方を生業の中で実践できたなら、これほど素晴らしいことはないと思いました。ある種の憧れに近い感情も芽生えてきました。
カデロさんのお話は、日本をひっきりなしに称える一方で、アメリカのやり方をためらうことなく非難する様子が痛快でした。おっしゃる通りで、自分の国の歴史もろくに知らずに海外への憧憬をひたすらに抱く若者のなんと多いことか、と思います。当の僕も、つい最近までは詳しく日本のことを知ろうとも思いませんでしたし、今でもまだまだ学びが足りないです。外国の方からの日本への尊敬を知ることができれば、日本国民であることに誇りが生まれ、同時に誇りを汚さないような生き方を目指すための緊張感も生まれます。という意味ではやはり今の公教育のあり方や、若者の更なる海外との交流機会促進が求められることでしょう。
学びのきっかけや原動力として、また日々暮らしていく活力を与えてくれる源として、今後も『道』の刊行を心待ちにしています。
宇城先生と大工さんの対談では、座波先生の「泥棒がなぜ入るか知っているか」「鍵をかけるからや」というお話が印象に残りました。心を閉じれば、それだけ周囲と摩擦が生まれ対立が起きる。逆に心を開けば摩擦はなくなり、対立は起きない。大工さんは沖縄の基地問題も同じだとおっしゃっておられましたが、まさにその通りだと感じました。強烈な敗戦を経験した日本がこれから世界に示す姿勢は、中途半端な軍備などではなく、かつての沖縄がそうであったように、軍隊や武器を持たない非武装で、心を開いた平和外交です。最近は何かにつけて、グローバル化が叫ばれていますが、いくらものや人が行き来しても、自己中心的な利益や、己の保身が根底にある行動では、世の中をより良くしていくことはおろか、現状を悪化させていくばかりです。そのことは、これまで宇城先生から何度もご教示していただきました。
では、世の中をより良くしていくためにはどうすればよいのか。それは対談の中にも紹介されていましたが、かつての吉田松陰や幕末の日本人がそうであったように、「身体は私でも心は公」という誇り高い日本人の心を取り戻すことです。そのような思いは、宇城先生の下で学び、またそれを元に様々なところで学びを重ねれば重ねるほど、確信に変わりつつあります。そして、私がそのような「日本人の心とは何か」を深く学ばせていただけるのが、宇城先生の「道塾」です。何も隠さず、心を開いた状態でも、肚の据わった立ち居振る舞いで、相手といつでも調和融合できる。そのような日本人らしい境地が、今の混沌とした世界から必要とされているのだと思います。
金澤さんの連載には特に心動かされます。翔子さんの心の純真さ、優しさに人は本来そういう存在なのだと希望をもつことが出来ます。そしてお母様の子を思う気持ちの大きさに胸があつくなります。大きな葛藤を乗り越えて今があるという率直なお話にとても励まされます。
大工氏や八重山の地震のこと、天野博物館のこと、ダルクのことなど『道』を読んでいなければ知り得なかった貴重なお話ばかりです。サンマリノの戦わずして平和と自由を守ってきた話も、これからの日本の理想の在り方ではと考えさせられました。また伝統文化をよく学び活かしていくことの大切さも教えて頂きました。
今号も、掲載された皆様の「生きざま」から、『道』のテーマである「時空を超えて届けられる想い」がひしひしと伝わる内容でした。その中でも、ページを捲っていくうちに一枚の写真に釘つけになりました。
「翔子が教える 宇宙の真理」の中の揮毫する金澤小蘭(翔子)さんの1枚の写真に目が止まり、釘つけになってしまいました。
揮毫している姿が、一言でいえば、「神々しい姿だ!」と感じました。立ち姿は自然体でありながら、しっかりと大地に根を生やしたように足でつかんで立っているし、筆を持った姿勢は、氣が満ち溢れた姿勢そのものに感じ、「統一体」と言っても過言ではない揮毫の姿勢で、この写真に思わず引きつけられて、見入ってしまいました。この「統一体」とも言える姿勢に、心には「愛」を満たして、揮毫した「字」は氣が溢れていて、人の心を打たないはずはないと思いました。
宇城先生と大工哲弘さんの対談を読んで、2人は互いに全く別の分野で活躍する人同士であるのに、2人の中には共通するものがあるように感じました。
2人の対談の中で、鍵を掛けない家には泥棒が入らないという話がありましたが、まさにその通りだと思います。今の世の中では、その場かぎりの社交的な交流のみでそれ以上は足を踏み入れないという付き合いをする人が多い気がします。残念ながら自分もそういう付き合いをしてしまっています。しかし、テレビで見る東北に住む人々は、心で動いているように私には思えます。彼らを見ていると、今の自分がどれだけちっぽけなことにこだわっているのかと恥ずかしいばかりです。地球がとてつもない力を用いて震災という形で、我々がどれだけ甘ったれた人生を送っているのかを気づかせてくれたのに、私は何も変われていません。関東に住んでいたために、たまたま大きな被害を受けていないということがとてもありがたいのに、生きているありがたさを行動で表すことができていません。しかし、いつまでも泣き言を言っていては何も始まりません。変わることが大切だということに今また気づくことができました。せっかくの機会を台無しにしないよう、今自分にできることをひとつひとつきちんとこなしていって、行動する自分へと変わっていこうと思います。
『道』を読んで学んだことは普段の生活の中でふと思い出され、今の自分のままではいけないのだと深く考えさせられます。その度に、よりよい自分へと変わっていくためのエネルギーを得ることができます。
宇城先生と大工哲弘さんとの対談で「相手の心に入るから響く。入ろうと思ったら、先に自分の心を開かないとならない」という箇所がありましたが、最近それを痛感しております。相手は自分の写し鏡で、結局は自分が閉じているから相手の心に入れないのだと思います。自分を開ききるというのはとても難しいことです。しかし、宇城先生から教わっていることで、いかに開ききれていないということは少しずつですがわかるようになってきました。毎日一枚一枚自分の殻を取るように心を開く道を、先生から教わった事を実践しながら模索しております。
大工さんのことはこの誌上で初めて知りました。八重山民謡の歌い手として、250年近くも前の明和の大津波のことや、重い年貢を課されていた時代の歴史を時代を超えて今も継承し、これらの過酷な体験を自らの体験としておられる方がいるということに驚きました。民謡を受け継ぐということの中には、歌や技術だけではなく、歴史そのものを理解し、継承していくということが含まれているということであり、何人もの人を経て250年も歌が引き継がれてきたというのはとてもすごいことのように思います。
大工さんは、ご自身が津波の体験をされたわけではないと思いますが、八重山の歴史を背負っておられ、この度の大震災に対しては、「同じ」苦しみを味わった者として支援活動を続けておられます。そのような心の持ち方をされているところに、大きく学ぶところがありました。
今回の誌上では、福島浪江高校生によるボランティア活動の報告もありましたが、同じふるさとを失った者同士の共通する体験、思いが、その場にいる人みんなの心を一つにし、ゆさぶった様子が感じられました。
「同じ者同士」だからこそ通じるものがある、「同じ者同士」としてできることがあるということを教えられている気がします。
カデロさんのお話、阪根さんのお話は、日本のことをもっと知る、ということを考えさせられました。 とりわけ、阪根さんのお話の中の、日本の文化の理解を深めることが、チャンカイ文化(他の文化)を理解することにつながっているという内容が興味深く思いました。自己の理解を深めることが他者への理解につながるのと同じことが、文化のレベルでもあるのだということが新しい発見でした。天野さんが、色々と知って分かった後に、最後に、「よくわからん」というところに行き着いたのは、いったいどういう境地だったろうと思います。今は見当もつきません。
天野さんの波瀾万丈の人生は、世の中にはすごい人がいる、ということを改めて思い知らされました。 生き方にすごみを感じます。
岩井さんの、「今日一日を生きる」という言葉は、今を生きることを実践してこられた深みのある言葉だと感じます。自分は、もっと真剣に生きることができる、もっと真剣に生きようと思いました。
宇城先生と大工哲弘さんの対談を読み、日本の伝統、文化の持つ意味と重みが胸に響きました。八重山の人々は1771年の大津波の被害にあってから長い間苦しい生活を強いられてきて、そこから生まれた三線と歌は過酷な状況に耐えながらだったからこそエネルギーを持つものとなり、今日に歌い継がれているということでした。また、大工さんは「三線」とは「三心」であり、それは自然と、祖先や親を思う心と、平和を意味するのだと言われています。一方、宇城先生のお話の中で、空手の「三戦」は自分、家族、周りを守り、平和を守るものであり、このような伝統、文化には良い祈りが込められていて、双方とも幸せにつながるものであるということです。
日本の伝統、文化には平和につながる祈りが込められていて、なおかつものすごいエネルギーを秘めているのだということを現代の私達日本人は見過ごしているように思います。何百年と受け継がれてきた物に一旦触れてみると、そのすばらしさに圧倒されます。確かに沖縄に行ったときに聞いた三線は魂に響く音でした。そして宇城先生の三戦にも驚くばかりのエネルギーを体感させていただいています。日本の魂に触れることができ、良い祈りが込められている伝統文化をしっかり受け継いでいける日本人でありたいと強く思います。
マンリオ・カデロさんの記事は目から鱗でした。
私は子供のころの遊び場といえば近所の神社でしたので、今でも神社には愛着を持っています。神道には八百万の神がいるという世界に類を見ない宗教は日本の誇りだと思っています。しかしその歴史をよくわかっていない自分が恥ずかしく思いました。
また、「日本人は考えすぎ、人生はシンプルで難しくないのになんでも難しくしてしまう」は、自分のことを言われているようでした。まさに宇城先生がいわれるように頭脳主義の弊害だと思いました。たしかに日本はアメリカナイズし過ぎだと思います。国の根幹である憲法がそもそもアメリカナイズですから仕方がないかもしれません。日本は自国でしっかりとした憲法を創り、本当の意味で日本はアメリカから独立するべきではないでしょうか。
カデロさんが言うように「戦争に勝つ」ことではなく「戦争を回避する」ことが成功であると私も思います。ただ問題は「戦争を回避する」ためには日本に武器は必要かどうかがいつも議論が分かれるところです。ダライ・ラマ法王との写真がありましたが、たいした武器を持っていなかったチベットが中国に侵略され、非武装を貫くチベット僧侶たちが迫害されている現状を見ても、私は日本に武器は必要だと思います。悲しいことですが、力なき愛は無力だと思ってしまいます。日本はアジアのリーダーになると言うと中国や韓国が反発しますが、アジアの国々の大多数は日本はリーダーになってほしいと思われていることに自信を持たなければいけないと思いました。
宇城師範と大工氏との巻頭対談で、音楽をはじめとする芸能の持つ力が、戦わずして勝つという武術の根本に似ていることに触れられており、その点に深く共感しました。ある種の音楽が、演奏者の技術の高さや聴き手の興味関心の有無ではない次元で、時空を超えて心を揺さぶることを体験するたびに、宇城道塾で体験する、先をとられる体験と似ているとぼんやりと感じていました。このたびのお二人の対談によって、音楽と武術との両者に共通する事理一致と不易流行の大切さを改めて実感させていただきました。
大工氏の、もともと歌は自分の精神を浄化するための祈りであり、真の音楽家は己に向かって立つことが必要であり、日々惰性に流れることなく苦しくとも稽古をやりぬくことが生きる活力につながるとのお話は、宇城師範が普段からおっしゃられているサンチンの型稽古への取り組み姿勢にも通じるものであり、音楽の中に秘められた厳しさやエネルギーの奥深さを感じずにはおれませんでした。サンチンの稽古と同様、素晴らしい演奏を聴くことによっても、その豊かさの中に秘められた厳しさを思い巡らせることによって、日々の惰性を排除できる可能性を感じ、人間にとっての音楽の持つ意味を改めて考えさせられました。
ふだん仕事において滅入ってしまうことも少なからずありますが、そんな時こそ宇城師範の言葉にあるように、サンチンの稽古や素晴らしい芸術に触れ、その背後にある背景を思い起こすことによって、脳の海馬を活性化させ、ポジティブなエネルギーを再現することが「身体は私、心は公」になることにつながると信じ、日々の仕事や生活で実践していこうと思いました。
宇城先生と大工さんとの巻頭対談を拝見しました。空手と民謡とはかなり離れた世界のように思っていましたが、「心」という点で共通の世界があるということが理解できました。大工さんの民謡に、時代を超えて歌い継がれてきた心や魂があり、未来への希望やエネルギーを創出する力があることに感銘を受けました。
いつも『道』を楽しみに拝見しています。今号の中で特に印象に残ったのは、サンマリノ共和国日本大使 マンリオカデロさんのお話でした。自分が日本人として恥ずかしいというか、日本人以上に日本を尊敬されており、その情熱にびっくりしました。自分は日本に生まれてはいるが日本人ではない、とも思ってしまいました。自国の文化や歴史をこんなにも知らない国民は他にはないのではないでしょうか。
カデロさんは昔の日本人のようです。そしてサンマリノを本当に愛しているのだと思います。自分を自国を知り愛することができてこそ人を思いやれるのだと思います。日本に生まれた意味は深いと思いますが、自分はそれを知りません。これからまだまだ勉強が必要と感じました。
以前、『道』を差し上げた高齢の女性の方が「あの本は自分が読んだ後息子に渡しました。これは孫の代まで残しておくような本だからね。」と言われていました。とても喜ばれていました。これからも勉強をさせていただきますのでがんばってください。
175号の記事の中でサンマリノ共和国のマンリオ・カデロ氏のインタビューが印象に残りました。日本を良く知り、日本の文化を愛しているからこその一言一言が心に沁みます。特に「戦争に勝つ」ことが成功なのではなくて、「戦争を回避する」ことが成功であるという発言は、いたずらに右傾向化する今の社会の中、日本人皆が心して耳を傾ける必要があると思いました。
大工氏と宇城先生による巻頭対談は、伝統の中にある歴史の重さを後進に伝え、人という存在の根源である心を創るということを日本人の中に取り戻そうと精力的に活動されているお二人にしか実現できない得難いものでした。虚飾も何もないお二人の心から発せられた言葉の一つ一つが、紙面からダイレクトに私の心に響きました。
大工氏が演奏される際、場の空気、雰囲気に応じて、お客さんと会話するように、間を取り音を入れていくことを常とされていることに、宇城先生がお話しされている相手の中に入り相手と調和し、先を取るということに共通の理があることがわかりました。『心』を重視され、道を究められてこられたお二人だからこそ、認め合い分かり合える境地だと思います。
島の大半の人々が津波の犠牲になった明和津波や、250年間に渡り島の人々に課せられた琉球王国への人頭税などの過酷な歴史の中で、八重山の人々に歌い繋がれている『ユバナヲレ』、世よ直れという言葉には、心が折れそうな状況でも歌うことで自らを励まし立ち上がってきた先人の魂が込められているという大江氏のお話から、沖縄、八重山の人々の明るさの根底にある逞しさを感じ、困難な状況に立ち向かう勇気をいただきました。
このように伝統、文化に学ぶとは、単に表面を触れるだけではなく、その背景にある歴史の重さを知り、その中を生き抜いてきた先人の魂を感じることが大切だということを、『道』の内容は示しており、大変ありがたく思っております。過去の歴史には程遠いほど甘い環境ではありますが、自分の顔に日常や内面が『いい顔』として映し出されるように精進して参りたいと考えます。
大工哲弘さんとの対談では、音楽も空手も日常もすべてに共通していることは「心」なんだと改めて感じました。音楽が心に響くのはごく当たり前のように思っていましたが、今を癒してくれるだけでなく、明日への活力になる力があることを学びました。それは決して簡単にできることではなく、毎日の積み重ね、そしてその連続が伝統となり、本物だけが受け継がれていく目に見えない力なのだと思いました。心の力をもっともっと日々の生活に生かしていきたいと感じた対談でした。
宇城先生と大工氏の巻頭対談に惹きこまれました。空手と三線の共通する本質が共鳴しているように感じました。
大工氏の「『和』ですからどんな楽器でも和するんですよ。決して攻撃的でない。どんな楽器でも包んであげられる。対抗しない、ぶつからない」とういうお話が強く印象に残りました。自分自身も三線のように和して包み込めるような人間を目指していきたいと思いました。
これからも『道』を楽しみに拝読させていただきます。
八重山民謡の大工哲弘さんとの対談で、三線=三心 自然を愛する気持ち、先輩・祖先・親を思う気持ち、平和の心という言葉がとても印象的でした。全ては調和の心。「和」はどんな楽器でも包み込む抵抗しない、ぶつからないという点では宇城先生の教えと一緒だと。伝統文化を極めた方の形には、内包した力が宿っているのだと記事を読んでいて改めて感じました。
沖縄には、何回か仕事で訪れた事がありましたが、八重山の明和津波のことは知りませんでした。恥ずかしい限りです。八重山の人達を襲った自然災害、重い年貢、そのような環境から生まれた八重山民謡(芸能)。歌には、人に希望や勇気を与えてくれる力があり、人にとって必要不可欠であることに気付かされました。沖縄の人達の明るさ、大らかさは、厳しい環境だからこそ育まれてきたのかなと思いました。
三線と三戦の本質が似ているところには、驚かされました。「歌でも、謙虚さが歌にないと、それは単なる罵声」という言葉を聞き、やはり全ての本質は、心だということを再認識できました。
毎号の対談楽しみです。
人間力を開花させる統一体でもご教示いただいたミラーニューロンや、科学が後追いをする宇城先生の一貫した理論の中に深い感銘を受けます。一歩未来から今を捉え、起こりうる事象を予測され、次々と現実となることにまさに“科学”が後追いするという世界をしばしば目の当たりにします。それは、頭脳に頼る私たちの価値観にあらゆるアプローチから「気づき」と「変化」をいただきます。宇宙に存在する地球の中の一つの生命体(産物)としての人類の使命を学ばせていただき、新しい価値観から生きる希望と覚悟を見出させていただきます。
サンマリノ共和国 日本大使マンリオ・カデロ氏の記事はとても興味深かったです。
日本人以上に日本の神道に通じているということがとても驚かされ、そして何も知らない自分に嫌悪感を覚えました。日本人であるにも関わらず、日本のことを知らなすぎる。恥ずかしく思いました。そのうえアメリカナイズされた若者、これは本当にそうだと思います。自分は今ではあんまりアメリカに興味がありませんが、十代の頃は絶対に渡米してやると思っていました。周りにはまだそういった友人がたくさんいます。日本の文化がこんなにも素晴らしいのにそれがきっと古臭い、堅っ苦しい。そんな風に思っているのではないでしょうか?本当の日本の素晴らしさを知った時、きっとそんな風には思はないと思います。
信頼が一番だということ=愛=愛手(相手)を想うことにつながる。そうすれば武器を持たずにすむ、それが本当の平和になると。
以前テレビ番組で現役の議員が中国や韓国、北朝鮮に対してもっと武力的圧力を掛けるべきだ、強化をしていかないと平和にはなれないといっていましたが、それこそ本当に対立が強くなり、両国間の溝が深くなるしかなくなってしまうと感じました。
武力の強化ではなく、人間力の強化を一秒でも早くしていかないといけないと強く思いました。
『道』を通じて、一人でも一秒でも早く、腹の座った日本人になっていけるようにしていきたいです。
今号の巻頭対談、「沖縄の歌と三線」の八重山民謡第1人者の大工哲弘氏の記事からは、沖縄に伝わる民謡を通して伝統的な音楽の持つ力を感じさせてくれました。まだ私は沖縄に行ったことがないのですが、民謡の伝わる八重山諸島は沖縄本島のさらに南に離れた島々で、東北の地から見るとほんとに遥か離れた場所に思えます。そのような処で240年前、明和津波と言う、当時の人口の半分の1万人弱の人が溺死するほどの大きな災害が起きていたこと、そして明治の半ば以降まで時の政府の重税に民が苦しんでいたこと、そういう時代背景の中で生まれた音楽としての民謡。その持つ力は、記事では言葉のみの情報ですが、それでも十分伝わってくる気がしました。あの2011年3月11日の翌日に沖縄で計画されていたイベントが次々に自粛で中止される中で、八重山の人たちはこんな時こそという祈りを込めた黙祷を東北に奉げながら実行したといいます。もちろん自粛も一つの祈りの形ではありますが、八重山では過去に同じような苦しみを分かち合ったことがあるからこそできたことだと。そういうことがあの震災の時期に遠く離れた沖縄で、しかし同じ日本という時空の中で行われていたことは、東北に住む日本のひとりとしてとても嬉しく感じました。
大工氏の「やはり『本体があるから影がある』ということなんですよ。・・・そういう矛盾した本体があるから、テロが起きて世界に混乱を引き起こすのだと思います」という言葉にハッとしました。「光があれば影がある」とは、ひとつ対の現象を表わしたもので比喩的に使われますが、本体という存在のあり方によってその影の中身も変わる。矛盾した本体からは矛盾した影しかできない。このことに気づかされました。矛盾した本体がなければ光は遍く注がれるものでしょう。今、沖縄と東北という地域にはいろいろな意味で矛盾した影が落ちているのが現状と思います。
伝統だけでなく、最近はジャズやロックとのコラボなど新しい要素も取り入れているとのことですが、沖縄の民謡を奏でる三線を、三心(自然を愛する心、祖先や親を思う心、そして平和の心)と書く大工氏の思いは、八重山民謡としての音楽が、まさに宇城師範が言うようにこれからの日本にとっての希望の光に繋がっているのだと思いました。
沖縄にはまず一度行って見たいという気持が強くなりました。本誌に連載の金澤小蘭こと翔子さんの書はいつも見るだけで感動するのですが、今回「いのち」という字はいつも以上に訴えるものがありました。伝統的な音楽という光はこの「いのち」という真の本体を照らし出す人間の持っている力の一つではないか、そう思える気がしています。
先生と大工氏の対談が心に残りました。以前、沖縄に住んでおり、民謡を聴く機会が多かったのですが、何故か古典の民謡にとても興味をひかれました。今思うと、歴史を経ている分、その重みを知らず知らずに感じていたのかもしれません。民謡歌手は、三線と歌で歌詞の文字が意味する以上のことを伝え、聴衆は、歌声や三線のリズムに身をゆだね、それを素直に感じる。その戦わない二者間に武術の極意と通底するものを感じます。大工氏も対談で「心と技が一つにならないと、歌っても相手に伝わらないし、見ていても心に響かない」と述べられ、それが音楽と武術のゆるぎない共通項ではないかと指摘されていました。まさに事理一致について、民謡で説明されていると感じました。
大工哲弘さんの、自然の声を体で聴きながら愉しく音を奏でられる姿に、古くて新しい自然調和型の文化の在り方のヒントを教わった気がします。
いい音、いい響きでないものが溢れているから 、世の中がおかしくなっているのか。ならば自分は、愉しい響きの言葉遣い、美しいリズムの所作などを育んでいきながら、自分の周りの人たちに良い影響を与えられるようにしていきたいと思いました。
私自身、知的障害のある方の入所施設に勤めているのですが、いつも大変楽しみに拝読させて頂いております。そして今年1月、念願だった金澤翔子さんの個展に伺いました。また幸運なことに、揮毫・トークショーにも途中までですが参加させて頂くことができました。最初に行なわれた揮毫では、翔子さんが登場した瞬間に和やかな歓声が起こりました。写真撮影が許されていましたが、翔子さんが手を合わせた瞬間、その場の空気が静まりかえり、少なくとも前の方に居た人たちは誰一人写真を撮りませんでした。その後、お二人のトークショーでは、翔子さんの自然体な姿、愉快な姿、まっすぐに応える姿がとても心に残りました。同時に、お母様が自身の葛藤からお気づきになったという、知的障害のある翔子さんの存在についての話を聞いていて、社会の中ではいかに真理が見えにくいのか、またそれに気づかなければならなくなった時の葛藤の苦しみが伝わってきました。今回の連載にも書かれていたように、“翔子はいつだって間違っていない”ということをサラッとおっしゃっていましたが、葛藤があったからこそ確信を持つようになり、今では当然のこととしておっしゃっているような印象を受けました。お二人の絆を感じさせて頂く言葉だと思いました。
お二人を拝見させて頂く機会を得たことで、今回はお母様の連載をより一層リアリティを持って読ませて頂きました。真実を生きる方であり、真実を示して下さる方の一人として金澤翔子さんの存在は心強く、また言葉で説明して下さるのがお母様の存在です。私の仕事においても、お二人のような親子関係には及ばずとも、同様に“支援者”“利用者”という関係だけではないものを築けるような支援者になりたいと思いました。その具体的な道しるべとして、お母様の連載をこれからも拝読させて頂きたいと思います。
大工さんとの対談の中で宇城先生が、歌い継がれている歌には心や魂があり、 すべてを超えて生きるエネルギーとなる、という意味のことをおっしゃっています。また、浪江高校生がボランティア活動のコンサートで、震災にあった方々とともに力を高め合えた、ということは先生がいつもおっしゃっておられる「気」が作用したのではないかと思いました。優れた音楽にはエネルギーがある、と確信します。私も時々ボランティア活動でフルートを合奏しますが、優れた歌の持つエネルギーを感じます。その時に「気」に触れていると思うと大変嬉しいです。
金澤翔子さんのお母様が書かれておられる連載で、翔子さんがすべての「いのち」あるものに対して愛を持って接せられるお話で、自分の狭量を感じました。頭で平等とか人間の尊厳とか考えて行動するのではなく、何も考えずに体全体で愛を発することのできる翔子さんを尊敬します。
サンマリノ共和国のカデロ氏の二つの言葉がとても印象に残りました。
一つは「日本の本質は神社にある」という言葉、そしてもう一つは、「日本人は考えすぎる。人生はシンプルで難しくないのになんでも難しくしてしまうところがある」という言葉です。この二つは、今の日本人が忘れてしまった大切なことが詰まっている気がしました。自然に感謝し、人に感謝して代々生きてきて、必要以上は求めず、足るを知ることを美徳としてきたのに対して、今の世の中は「自分が」とか「もっと」という感覚が強くなってきてしまっていることに改めて気付かされました。日本人としてのDNAが教えてくれるもの、そうしたものに耳を傾けていこうと思いました。
福島浪江高校生によるボランティア活動の記事を拝読させていただき、ピュアで真っ直ぐな高校生の行動、言葉に日々の自分の日常生活を改めて見直さなくてはいけないことを感じました。
自分の周りで苦しんでいる人がいたら、ポジティブな言葉やカッコいい言葉をかけてやるのではなく、相手の心境、気持ちになって考えてあげる。「寄り添う心」というものが何よりも大事なのだという事を教えていただきました。
お母様を通して見た金澤翔子さんの話にはいつも深い感動を覚えます。
「喧騒や対立を見ると哀しくてしようがない様子・・・ 愛をもって平和を求める翔子の不思議な強い意志を傍らで見ていると、この世はきっと愛だけなのだ、と感じる。」
まさしく、この翔子さんの心は人間が本来持つ天使の性質なのだと思います。対比して、自分の心に日々浮かび移ろう想念を考えると、いかに悪魔に侵されてしまっているかということがよく分かります。ダウン症という“障害”を持つといわれる翔子さんが純粋な天使で、“正常”と言われる我々が半分悪魔ということは、現代社会の常識が異常であるとしか言いようが無いです。
サンマリノ共和国のマンリオ・カデロ氏が現在の日本に対して言われている事は、本当にその通りだと感心させられました。平和ボケ、幼稚化、堕落したマスメディアなど、日本人以上に日本の事を知り、そして日本を愛されているカデロ氏の心の痛みを感じました。
そしてこれから日本がどの方向に向かって行かなければならないか?
サンマリノ共和国の国のあり方に、今の日本人は学ばなければならないと思います。
私は、『道』、どう出版から出ている書籍を国でバックアップするべきだと思っています。それは多くの方に知ってほしいというレベルではなく、そうしないと日本は間に合わなくなると感じています。
私は昨年、宇城先生の書籍や『道』をお配りさせていただく機会が多かったのですが、「志の高い」人ほど衝撃を受ける人が多いです。その人方は熱く志も高いだけに、多くのセミナーや研修に行かれて学ばれています。しかし、どこかで物足りなさや違和感を感じています。それを宇城先生の書籍を読むと今までのが全部吹っ飛んでもの凄いエネルギーが湧いてくるという感想を受けます。逆に「偏差値の高い」人ほどただ単に「言葉、文字」としてとらえて「いい本でした」という感想で終わりでした。ただ、確実に宇城先生の書籍や『道』を読まれてエネルギーが沸く人間、生き方を変えようとする人は少しづつですが増えてきています。求めている人も多くいます。私自身も『道』に掲載されている諸先生方のように「一人革命」を起こし「生き方」で「志」、「思い」を伝えていきたいと思います。
福島浪江高校生によるボランティア活動の記事を読み、改めて震災そして原発事故の今も変わらぬ深刻さを感じました。一方、ボランティア活動をする高校生たちの言葉の深さに驚きました。
人々への感謝、そして人々の役に立ちたいという思いが伝わってきました。時の経過、そして被災地からの距離が事態の切迫さを忘れがちにしてしまいますが、この悲劇は現在進行形であり、ひとりひとりが何をすべきか真剣に考えなければならないと、思いを新たにさせられました。
マンリオ・カデロ氏の記事を拝見したとき、いつも思うのですが、私達日本人は日本のよさをまったく理解しておらず、また勉強すらしていないと感じました。
ナショナリズムや愛国心を刺激するのではなく、客観的に見た母国のよさを特に海外と接する機会の多い私は、もっと勉強しなければいけないと思いました。
季刊『道』は、やってきた人達の本物の話が聞けます。そこには「人類の英知」が書かれています。iPadを生み出したスティーブ・ジョブズと同様「人間にやさしく、誰をも幸せにしたい」という強い気持ちが根底にあるからこそ、他に類を見ない素晴らしい雑誌が作られるのだと思います。
175号で印象に残ったのは、大工哲弘さんと宇城憲治先生の対談の中にある「鍵をかけないところに泥棒は入ってこない」という1文です。個人の生き方にも国家の在り方にも共通して言えることだと思います。自ら心を開き任せることができれば、そこには対立などありえません。日本は自ら武器を放棄し、積極的に心を開いて友好関係を作っていくべきであると感じました。
また、サンマリノ共和国日本大使のマンリオ・カデロさんの記事からは、日本人は自国の素晴らしい文化や自然を知る必要があることを感じました。また、サンマリノ共和国の「野望を持たず平和を求めるという伝統の姿勢」から本来の日本が在るべき姿を教えられました。
どの記事も読み応えがありましたが、一番印象に残っているのはサンマリノ共和国大使の方のインタビューでした。
現地に神社を作る話などは初めて聞き、目からうろこが落ちる思いでしたが、日本の文化に対して深い造詣と誇りを持ってくださっていることは大変自信になると同時に、自分たちが持っているものに対してもっと深く知り、誇りを持て、と叱咤激励される想いがしました。
日本のテレビ番組についても「タレントではなくタリント(足りん人)を見て面白がっておらず、大人になれ!」との言葉は、今までテレビ番組(アニメの世界ですが)を仕事としてきた私にとっても耳の痛いお言葉でしたが、シッカリと受け止めたいと思います。
今まで、サンマリノ共和国の存在自体、ほとんど知りませんでしたが、戦争時でも戦火を交えず他国民を守ってきた歴史の深さと強さの理由を調べてみようと思いました。
『道』はいつもあまり書店や図書館で目にしない方や事象を取り上げているので先入観を外すキッカケになっています。
巻頭、大工哲弘氏と宇城憲治師範の対談では、伝統文化が持つエネルギーを現代に再現し、困難にあえぐ現代の日本に貴重な発信をしている両氏の考え方に、多くの共通点があることを学びました。
240年前に大地震と津波を経験した八重山だからこそ生まれた、魂を揺さぶり、人間力を復活させる民謡。音楽が、ヒットやセールスといった商業的な文脈で語られることが多くなった今日、「人に聴かせるのではなく、自分に聴かせる。」祈りの歌の精神をもう一度取り戻すことが大事だと思いました。そこには両氏が語る「その時代だからこそ生まれた、時代の背景を持ったエネルギー」が眠っており、それが不易流行という形で再現されることで、現代の困難を生き抜くための力につながっていく。今の日本にとって本当に必要な芸術の力が、ここにあると感じました。
毎号、率直な表現で薬物の恐ろしさ、それと戦うことの重みを伝えてくださる岩井喜代仁氏。今号で紹介して下さった田中氏(茨城ダルク)の手記からは、一度染まったら自分ではどうすることもできない、薬物依存の恐ろしさがまざまざと伝わってきました。
サンマリノ共和国日本大使マンリオ・カデロ氏は、我々日本人が、いかに自国の伝統文化の素晴らしさに気づいておらず、伝統を大事にせず、歴史・伝統に学びそれを現代に再現する、という姿勢に欠けているかを指摘してくださっています。私事ですが、数年前イタリアを訪れた際、日本の都心は雑多で一過性の事物で溢れているのに対し、ヨーロッパは伝統的・歴史的な街並み、景観をとても大事にしており、文化都市としての魅力に溢れていると感じたことがあります。ヨーロッパは現代も多くの芸術家・デザイナーを輩出していますが、日本人がその理由を尋ねたところ「俺たちは子供のころから街中でダヴィンチやミケランジェロを見て育っているんだ」という答えが返ってきたという話を聞いたことがあります。街がその地域の歴史、伝統文化と地続きになっていることが、現代の創造にとってもいかに貴重な財産となりえるかを物語るエピソードだと思いました。
本号を通して、我々の世代が率先して伝統文化や自然に学び親しみ、人間の幸福に根ざした都市の在りかた、教育のありかた、社会、地域のありかたを構想してくことが大事だと感じさせられました。
今号も素晴らしい前向きなエネルギーに満ちた『道』でした。読み終えて私自身の心にエネルギーが満ちているのをはっきりと感じました。目と心を閉ざしたまま止まっていてはいけない、前向きに行動して行きたいという気持ちになれました。
大工哲弘氏のお話は、まさに福島、東北、そして日本再生への心からのメッセージであり、本当に勇気づけられました。震災の翌日、沖縄で予定されていた数々のイベントが自粛中止された中、八重山の方々が復興への祈りを込めイベントを断行したというエピソードは、八重山の歴史と思いが歌として受け継がれ、人々の心の中に生きているからこそ出来たことなのだと感じました。この出来事を今号の紙面で知り、福島に住む者として感激と感謝、そして、こんなままで申し訳ないという情けない気持ちになり涙が出ました。震災に関する報道も減り、もう忘れたい、聞きたくないという雰囲気は全国に蔓延し、被災地復興は政治ショーの手段に貶められているように感じます。現にこの地に住む自分自身も諦めの気持ちが影のように心を覆ってきます。しかし、こんな八重山の人々がいてくれる、いつまでも被災地を忘れずに見守ってくれている人がいるという事実が、私の心の闇を祓い一条の光を射してくれます。本当にありがたい。心からそう思います。
自ら被災し避難していながらも、仮設住宅を回り、同じ境遇の被災者の方々に温かな心を配っている浪江高校生徒の方々は、震災と原子力災害という想像を絶する苦しみの中から立ち上がり力強い活動を行っておられます。その姿は美しく、とても頼もしく感じます。今号中でも紹介された中野信子氏の『脳科学からみた「祈り」』の中で、人の脳には助け合うという「利他の行動」がプログラムされており、その助け合いが人間としての種を保存したとありましたが、浪江高校生徒の方々の活動は震災という苦しみを経験したことによって人の心に「利他の行動」がよみがえった素晴らしい事例だと思います。私も浪江高校生徒の方々のように成長、行動できる人間になりたいと思いました。
震災直後、日本のみならず、世界中の人々が被災地のために祈り、自らの身を削りながら様々な支援をしてくださいました。しかし、今は当事者であるはずの日本人が震災と原子力災害から目を逸らし無関心になりつつあります。「いつまでも復興できない国、日本」「いつまでも原発事故を収束できない国、日本」こんなイメージで国際社会から日本が見られてしまっているのが悔しく悲しいです。本来日本人が持っていた気高く謙虚で優しい精神性を取り戻し、ひとりひとりが変わらなければ、この震災をきっかけに日本はどんどん駄目になってしまう気がします。日本人としての精神性を取り戻すためには、言葉ではなく、正しい歴史や文化、そして実践者の方々に学ぶしかないと思います。季刊『道』は私に貴重な学びと気づきを与えてくれる素晴らしい本です。これからも『道』に学ばせていただきます。そして、日本は震災を契機によみがえったと言われるような国にしていけるよう、自分の足元からしっかり行動して参りたいと思います。
このような本に出会えた奇跡に心から感謝します。本当にありがとうございます。