民族間の対立から大虐殺が起こったルワンダで、
手足を奪われた人たちのために20年以上義足を作り続けている日本人義肢装具士がいる。
ルダシングワ真美さんだ。
障害者として育ち、数々の民族対立で
死と隣り合わせの中を生き延びてきた夫ガテラ・ルダシングワ氏との出会いが、
OLの経験しかなかった真美さんに、
義肢装具士として技術習得の修業に向かわせたという。
97年に夫婦で設立したルワンダの工房で、
これまで1万人以上の人に義足や義手を無償で提供してきた。
しかし今年2月、周辺が洪水で浸水する危険があるとの理由で、
ルワンダ政府によりすべての施設が強制撤去された。
今回の真美さんの来日は、一からの出発のための資金集めが主な目的だったが、
コロナ禍で予定されていた講演がほとんど中止。
しかし真美さんは、めげず、くじけず、前向きで、明るかった。
真美さんの活動の原動力を聞いた。
(英語の専門学校を出たのち、当初会社勤めを
されていたそうですが、ケニアに向かわれますね。
なぜケニアに行きたいと思ったのでしょうか)
私の中では日本から出られれば
どこでもいいという思いがありました。
当時出会うのは会社の人だけというような状態だったので、
全然出会いが広がっていかなかったのです。
それと当時バブル期で、みんな浮かれていました。
私はなかなかそういう波に乗っていけず、
とにかく日本を出たいと思っていて、
たまたま手にしたガイドブックに
「ケニアでスワヒリ語を勉強してみないか」
と書いてあって、費用もそれほどかからないというので、
じゃあケニアに行こうかなと。
その学校はスワヒリ語を学ぶというよりは
見聞を広めようという学校だったので、
授業は午前中のみ、午後からは自由でした。
自分の動き方でどうにでもなる滞在でした。
(その頃に、のちにご主人となるガテラさんと
出会われるのですね?)
そうです。会った当初はそんなに会話を
したわけではないのですが、自分の中で
気になる存在というか、この人のことを
もうちょっと知りたい、話がしたいという感じの人でした。
当時ルワンダの紛争が悪化し始めていて、
ケニアに住んでいるルワンダ人が、反政府軍として
ルワンダに侵攻していくという時期だったのです。
彼は子供の頃から足が悪いので、自分が前線に
立てるわけではないのですが、多くの友人が行っていたので、
ルワンダの紛争にたいへんに関心を持っていました。
ちょうどその時期に彼はドイツ人の友人に誘われて
ケニアの民芸品を持ってドイツに行商に行き、
同じタイミングで私は日本へ帰国しました。
日本に戻ってから、ガテラと
文通をするようになりました。
(文通はスワヒリ語で?)
そうです。当時はインターネットもないので
手紙を書くしかありませんでした。
自分の中では、今の時代に出会わなくて
良かったなと思います。
今は遠方でも顔を見ながら話ができてしまいますが、
自分が使ったことがない言葉で、自分の気持ちや
状況を説明するというのはおもしろかったのです。
たまの電話も公衆電話でした。
公衆電話だと気持ちを募らせることが
できるじゃないですか。
つながらなかったら、どうしようとか。
いろいろなことを考えながら、電話をかけられるというのは、
やはりあの時代ならではと思います。
(ガテラさんからの最初の手紙には、
ガテラさんが拷問を受けたことが書かれていたと。
それは1994年のルワンダ大虐殺より前のことですよね)
そうなんです。1990年でした。
彼は滞在していたドイツからケニアに戻る途中のルワンダで、
ツチ族出身ということを理由に、捕えられ
、髪の毛を引きちぎられるなどの拷問を受けたのです。
そのことが書かれていました。とても驚きました。
* *
真美さんはガテラさんを通して
大虐殺の状況を知り、
メディア報道の偏りを感じたと言います。
【206号】 2020秋
http://www.dou-shuppan.com/dou206-lp/
ルダシングワ 真美(ルダシングワ マミ)
1963年神奈川県生まれ。89年にケニア留学。
92年から5年間平井義肢製作所で修業し義肢装具士となり、97年にルワンダでNGO「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を開設。2000年のシドニーパラリンピックにルワンダ初の選手団として参加。07年隣国ブルンジでも義肢製作を始める。13年シチズンオブザイヤー賞、17年外務大臣表彰、18年読売国際協力賞を受賞。