2024年 仙台 第4回(2024.9.21)

自分の身体が体現している無意識の領域を理屈抜きで信じること。そのことが、「信じることを真実のことにする」に通じていくのではないか

宮城 会社員 67歳 男性 HK

道塾は、塾生の息子さんが一人、前々回に引き続き参加していましたが、その彼への指導から始まりました。中学陸上の幅跳び選手である彼のその能力は、先生からの指導で飛躍的に伸びており、仙台市の大会で優勝する実力を出しています。それは彼が先生の指導を日常に素直に生かしている表れであると感じます。その人自身に気づかせるような言葉を使いながら、力の源泉としての身体の動かし方を指示するなど、今回もとても細やかな指導をされていました。先生は、アマだけではなく多くのプロのアスリートも指導されてきていますが、短いながらこのような実際の指導の場に立ち会い、先生の気の世界の普遍性、客観性、再現性を観ているような感覚を持ちました。

長机を数人で持ち上げる実技に参加しました。机は数人の力で軽々持ち上がります。しかし先生が気をかけると持ち上がらなくなります。それはなにか上から押し付けられているような、あるいはまるで重力がその領域だけ増加したことでそれに耐えるかのような感覚です。観ていることが多かった実技ですが、実際に体験してみるとそれは実に不思議な感覚です。しかしそれだけではありませんでした。まず机を数人で持ち上げたり下げたりと上下に揺らすようにします。
通常は簡単に行えます。何度も上下に揺らしているときに先生の気がかけられると、その揺らす行為が、自分たちの力ではなく、あたかも机が、持っているこちら側の腕ごと揺らしているような状態となります。
先生は「主導権を取られたようになっただろう」と言われましたが、まさに今や机を自分たちが動かしているのではない、机自体が自分たちを動かしている、感覚的にはそれ以上の正確な描写がないほどの事態となりました。いったいこの感覚は何と言ったらいいのか。一緒に参加した一人の塾生は「まるで机が生き物のよう」、別の塾生は「海の中で波に揺られているよう」と表現していました。どちらもとても感覚に素直に沿ったものでした。それらと同時に、自分にとっては、そのときの感覚の余韻を思い出しながらの言葉にすれば、自分も机も他の人も含めて一体になった感じ、命ある存在としての自我も他我もそして無機物としての机も、一切が統一体としてあるような、そんな感じでした。先生が、気の世界は量子の創り出す様々なエネルギーを基にしている、という表現を使っているのは、こういうことなのだろうかと思いました。また、先生は、机はお祭りのお神輿なのだ、とも言われました。子供のころ、地域のお祭りでお神輿を担いだ時の記憶がありますが、背負う担ぎ棒が何か大いなる力で動いている感覚が子供心にありました。その記憶が先生の言葉とこの実技で蘇るようにして繋がった気がします。暮らしのなかのハレの場でもあるお祭りの意味を身体で感じた実技でもありました。

二人一組。一人が両腕を前に出す。一人が脇からその腕を両手で押さえる。感謝の型の呼吸の仕方によって、その強さが変わる。また、腹痛でうずくまっている人に寄り添うことで、大人数で作ったスクラムを倒すことができる、しかし、見せかけだけの寄り添いでは倒すことができない。こういった実技では、呼吸そして心が創り出す力の大切さがとても分かりやすく可視化されます。呼吸は身体の働きそのもの、心は身体から生じてくる働き。それらの働きは日常の人間の生命としての活動そのものです。その中身は、無意識的、意識的の両面があります。先生は意識的なものはたった5%に過ぎず、ほとんどは無意識的なものが占めている、と。わたしたちは、頭由来の意識的な5%をあたかもすべてと思い込み、右往左往して日常を送ってしまっているのだな、と気づかされる実技でした。

道塾に参加して体験する様々な気づき。それらの気づきを、日常において試行錯誤ながらも活かして、自らの身体に気を通す努力を怠らずに暮らすこと、そのうえで道塾を一つのハレの場として同じように気を通して参加すること、それが大切なのだ、あとはその繰り返しの中で深さを求めていけばいい。そういう意識でいる自分がいます。しかし意識に巣くう横着さが邪魔をして、なかなかその域に自分を保ち続けることが難しい現実があります。先生はいつも変わらず、信じるべき真実の道があるよ、と示してくれています。そして、信じることを真実のことにするのだよ、とも。他ならぬ自分の身体が体現している無意識の領域を理屈抜きで信じること。そのことが、「信じることを真実のことにする」に通じていくのではないか、そしてそれは暮らしの中において常に問われてもいる。今回はそんなことを感じながらの道塾となりました。あとは、やることは一つ。日常の実践の場の隅々において、そのことを忘れずに過ごしていくことです。そして、そう思う自分を裏切らないようにしていきたいと思います。

今期も熱いご指導ありがとうございました。来期もどうぞよろしくお願いいたします。

「実力がなくても行動せよ」「変われないのは勇気がないから」という先生の著書の言葉が重く響きます。まさにそのことに尽きるのだと思います

北海道 地方公務員 49歳 男性 TM

冒頭、塾生の中学生であるご子息(走り幅跳びで県大会優勝)が立ち幅跳びの実証を行い、統一体となる所作と、一般的なストレッチなどの動作を行った後に記録がどうなるかの比較がありました。
以前にも目にはしていますが、「百発百中」と言える結果で、統一体の所作を行った方が20cmほど記録が良くなりました。
我々だとすぐ調子に乗り自然の理ではなく「過去に出来た」という記憶と知識を頼りに行動してしまうという、悪い癖に戻ってしまうのですが、中学生であるご子息にはそういうところはなく、ただ自然の理に素直に従っているように見えました。
こうした事実を目の当たりにすることにより、我々がなぜ「出来ない」のか、また、出来てもなぜまたすぐ出来なくなるかということのヒントがあり、我々は自分の心にそれぞれ問い、「出来る」道を選び、進まなければならないと思います。
また、フランクルの言葉の紹介がありました。「この世の中には2種類の人間がいて、それは「品格がある人間」と「ない人間」である」という旨でありました。その言葉からは、人種や民族による差はなく、心ある人間と心ない人間の2種に分けられるということが読み取れます。
生きるということは、目先の利益を追求することが目的ではなく、人格・人間性の向上こそ目的であるということが思い起こされます。
実際に極限の状況を生き延びたフランクルの言葉だからこそ、言葉に力があります。
フランクルは著書の中で、どのような状況でも人間が取る「態度」には自由が残されていると述べていますが、悲惨で過酷な状況では、自分も含め自分勝手な本性が表れるものと思います。最後まで人間らしくあるためには、宇城先生の教え、道塾の学びが必須であります。
逃げたい自分を覚悟ある人間とするため、どう生きれば良いのか。これを学んでいく場であると思います。「人を殺す力は、人を活かす力となる」とのお言葉がありました。逆に言うと、いくら平和が大切であるとか、戦争反対と言っても、力がなければ、ただの綺麗事でしかなく、かえって、自分を騙しているだけタチが悪いと思います。
「実力がなくても行動せよ」「変われないのは勇気がないから」という先生の著書の言葉が重く響きます。まさにそのことに尽きるのだと思います。
行動するためにはエネルギーが必要ですが、自然の理に従うところから自然に力が出ること、また呼吸法によって、身体に掴まれた相手を投げられる程の変化が現れることを学びました。
自らの体験よりも頭で考えたことや根拠のない「常識」や習慣に従うことが、いかに愚かなで横着なことか、心の戒めとします。

余計なことを考える前に、まずはやる。そして、そこにちゃんと心を伴わせることをしていきたい

埼玉 教員 女性 YO

この度も道塾でのご指導、本当にありがとうございました。

今回一番強く印象に残っているのは、心は伝わる、ということです。具合が悪そうな塾生に心から心配して「大丈夫ですか?」と声をかけると体が強くなるのに、心では思わず動きだけ行っても強くならない、むしろ弱くなってしまいました。やるかやらないか迷っていて行動しないのはよくない。けれども、心の伴わない行動をしても意味がない。宇城先生は「実践の場は日常生活に溢れている。」とおっしゃっていました。たしかに目を外に向ければ、人を気遣う行動ができる場面はいくらでもあると思います。私はまだ、人目を気にしてしまったり、恥ずかしいと思ってしまったりして行動をためらってしまうことが多くあります。余計なことを考える前に、まずはやる、ということ。そして、そこにちゃんと心を伴わせることをしていきたいと思います。

もう一つ印象に残っているのが、人が人間になる「間」がある、ということです。塾生がもう一人の塾生から少しずつ離れていくと、ピタッと合う間がある。その間を取った時はそれぞれが一人ではなく一つになるから手を握らなくても相手を引ける、という実践です。単純に、私もその間を感じられるようになりたい、と思いました。道塾の中で、宇城先生が気を通したときに肌にふれる空気の感覚のようなものが変わるのは感じられるようになってきました。日常生活の中では、まだなかなか感じられないのですが教えていただいたことを日常の中でも実践して、この「間」を感じられるようにしていきたいです。

この度も、ご指導ありがとうございました。