2024年 仙台 第1回(2024.1.25)

今回参加の塾生が多様なそれぞれの感度で男の子の中に自らの内面にある同様の何かを感じ取ったのではないか

宮城 会社員 67歳 男性 HK

今回はいつもと違う雰囲気の中で始まりました。塾生の職場での同僚の方がご家族(ご主人と子供)共々体験参加されました。お子さんは一番上が小学校5年生、そして2年生、4歳の男の子たちでしたが、始まる前から彼らの元気でにぎやかな声が塾の会場に響きます。子供が参加する道塾は初めてだったのである意味新鮮な気分を持ちました。

早速子供を中心としての講義と実技で進行していきます。子供にはできて、大人にはできない。その実技が目の前に繰り広げられる・・、そんな景色を思い描きながらいました。しかし、今回の道塾。気づきを与える場としての、新たな意味を垣間見させてくれるものとなりました。5年生の彼は、実技で「子供にはできて」の力を出すことができません。塾生数人がスクラムを組んで作った壁を倒そうとするのですが、ちょっと押して倒れそうもないと知るとすぐ手を引っ込めて、できないという顔をして下がってしまいます。そして言葉でそのことを自分なりに一生懸命説明しようとします。今度は寝てしまった4歳の子を抱いたお母さんがやってみます。力のある塾生の一人が倒そうとしても倒れないスクラムの壁をお母さんが押すと倒れます。その姿をみて、また5年生の彼が押しますがやはりできません。いろいろと言い訳のような、説明のような、彼なりの一生懸命さで、言葉を並べつつやるのですがうまくできません。少し想定とは違う展開となっていきました。この子がなぜできないか、その元には親側の問題が関わっている、子供には責任がないという、すこしきついとも思える言葉で説明しながら、先生は実技を進めます。

当初の子供中心の予定としていた時間はとうに過ぎ、筋書のないドラマをみるように、このままどのように実技指導の場が進んでいくのだろうと思い始めたころ、塾生の縦に並んだ列に対して正面から手で押す実技が始まります。2年生の子はいろいろ試すうち押すことができました。しかしやはり5年生の彼はなかなかうまく押せません。どうしてもすぐにあきらめたり、つつくような押す動作を繰り返し、集中がつづきません。そして先生が、お願いしますと言って、お辞儀の礼をしてから押してみなさい、と。大きな声で彼は言い、礼をしてやりました。しかし、彼の独特の少し茶化すような言動が伴うためか、まだうまく押せません。先生から、礼をするときはまじめにしてやりなさいと言われます。そして、こんどはきちんと礼をして押すことでようやくうまくいきました。皆で拍手です。ここで先生の指摘がありました。もう一度礼をしてみて、と。彼はお辞儀を改めてします。それを観てすぐ先生はこの礼の姿は素晴らしい。松下幸之助のお辞儀の姿だ、と。確かに彼は深々と直角に腰を曲げた礼をしていました。そこからです。塾生の列の前からだけでなく場所を変えて礼をしても、それだけで列を押すことができるようになりました。それは今まで全くうまくいかなかったことがウソのように。それは魔法のような変化の現れのように見えました。そしてその様子を観ていた私の心にも一緒に変化したかのような気付きが生まれました。あの深々としたお辞儀の姿勢は彼自身のもの、自然の彼の姿なのだ、と。そしてそれは先生があらゆる角度から彼の持っている本来の姿を引き出すために行った気配りの結果なのだ、ということを。最後に彼は、「よろしくお願いします!」と礼をします。「お、『よろしく』という言葉までこの子は付け加えたぞ」、と先生。“筋書のないドラマ”がこのようにして幕を閉じました。

子供のお辞儀の姿や言葉の使い方を指摘するときの、先生のその呼吸を合わせるかのような頃合いの見事さ、そして彼の身体から滲みでてきた自然な姿勢の変化、それらは見ている塾生にとって、いつもの実技からの気づきとはまた少し違った、しかしだからこそインパクトのある気づきの景色として広がった気がします。私にとっては先生の近刊のご著書を読んだ後に感じたものと似ているようにも思えました。今回はまだ純真な「一生懸命さ」を持つ子供の変化、それは彼が先生の指導を自らの身体に素直に映しだした結果なのだろうと思います。大人にありがちな邪心のようなものが無いゆえの、とてもストレートに心に迫ってくるものがありました。先生のご指導が、自分ではない他人を通してさえも強く響いてくること、それは、おそらく先生の気が紡ぎだすエネルギーの波のような変化を身体が知らずに感じ取っているからではないか、そしてそのエネルギーを自分は素直に映せているのだろうか、そういう気付きのなかにいることを感じました。

ご家族は近々海外に移住をするとのこと。おそらく彼はやはりここで見せた彼なりの明るい個性をもってことに当たっていくでしょう。先生は、海外は日本よりもっときつい、と言われました。それでも今回の彼への指導が塾生一人ひとりにそれぞれの気づきの種を蒔いたこと、それは、彼にとって、彼のご家族にとっての海外での生活を守り得ることの事前の証であったように思えます。

ガムテープを用いた実技がありました。テープをある長さに切って机に貼ります。それを少しずつ剥がすときの抵抗力を感じる実技で、何もしなければ問題なく剥がれますが、先生が気をかけると剥がれなくなる。これはテープ/机という物に対して分子、原子レベルで気が作用しているからだと。気は、人間などの生命に対しては、細胞に働きかけますが、物質に対してはその単位としての分子、原子に働きかけるのだと。このような実技を見ていると、心に自然と湧いてくるものがあります。先生の中では物も心も統一されている。そして道塾という場の参加者が示すように老若男女もない。いわゆる一本の矢印で表すような未来も過去もない。人間が勝手に作りだしたような境界がない、今という気の時空がそのまま無限に広がっている。そのようなイメージです。現状の科学では語ることが難しい実技ですが、人間の未来にとっては大事なことを物語っている実技なのだと思います。

テープの実技を5年生の彼が興味深そうに、なんでだろう?と言いながら見ていました。そのなんでだろうの素直な気持ちが彼の身体とともに気を土台にして培われていくことが、未来の一隅を照らす力となっていく、そんな気がします。ご家族は子供のことを心配し海外移住を決めたとのこと。そのことは日本の学校教育にとって、この道塾のような現場がもっと必要になってきていることを示しているとも感じました。今回の道塾会場にも置かれていましたが、先生が監修し、先生に学ぶ教師塾の方々による「宇城教師塾事務局編『教師が気づけば生徒が変わる!』どう出版(2023)」という本の意味が持つ重さがわかります。

道塾後、「5年生の彼が最初見せていた姿、行動は昔の自分と同じだ!」と吐露されている塾生がおられました。その気持ちは全くそのまま私自身のそれと重なります。おそらく今回参加の塾生が多様なそれぞれの感度で男の子の中に自らの内面にある同様の何かを感じ取ったのではないか、そしてその男の子の変化の様子は自らの未来への希望の姿として映ったのではないか、そんな思いが自分の中の気づきとともに浮かんできました。

どのような状況下においても先生はそれを気づきの指導の一環としての意味の場にしていきます。それは企業においてたゆまぬ先端技術開発の現場で見せてきた本質を求める若かりし日の先生のすがたであり、さらにまた、それは一貫した気の世界に生を預けているともいえる先生の、未来も過去も統一した今を塾生に示し続ける姿勢であり至誠の現れなのだとも思いました。

今回も熱いご指導ありがとうございました。今期もよろしくお願い申し上げます。

自分には見えない世界を見える形でお示ししていただきありがとうございました

北海道 市職員 49歳 男性 TM

今回は体験参加の親子の方がいて、普段目にしたことがない子どもへの指導を目の当りにでき、非常に刺激を受けました。

大人の列を押すことができなかった子ども達が、真剣になって礼をすることによりより、押すことができるようになり、その変化の早さに驚くともに、自分の遅さを反省しました。
頭で考えたり知識に頼るということは、自然の理を身体で感じることを妨げることであり、従ってそれは閉じているということだと改めて理解しました。
自然の理に適った生き方を常に身体で感じることができる者が真に自立した人間ということなのだと思います。そのためにも正しい姿勢・所作を普段から心掛けることが重要だということが腑に落ちました。怖れや怯えも自然の理から離れていることに対する、正当な心の反応であるのしれません。
本当に自分には見えない世界を見える形でお示ししていただきありがとうございました。今年も何卒ご指導よろしくお願い致します。

子どもができたことを感じ、どんどん変わっていく

埼玉 教員 女性 YO

今回の道塾で、体験に来たお子さんがだんだん変わっていく様子を見て、学校で本来やらなくてはいけないことは、こういうことなのだ、ということを強く感じました。宇城先生は「こうしなさい」と強くいうわけではありませんが、やり方を端的に伝え、体験の子は「できた」と感じられると、どんどんそれを行うようになっていく…子どもができたことを感じ、どんどん変わっていく。それが学校の中でできたら良いのに、と強く感じました。

道塾の中で、宇城先生が「ダウン症であることも、自閉症であることも変えられないけれども、補正はしなくてはいけない」とおっしゃっていたことが強く残っています。私が日々関わっている子たちは、知的な発達に遅れがあるとされ、ダウン症や自閉症を併せ有している子たちです。「障害」なんて、人が作った基準だし、この子達は何も悪いわけではない、と思っていたのですが、それはそのままで良い、補正をしなくても良い、ということではないのだということに気付かされました。そのままで良い、というのは、自分自身への甘えだと感じました。もっともっと、道塾の中で学んでいきたいと強く感じました。

この度も、たくさんの学びをありがとうございました。

私たち大人が固く閉じず、開き始め受け入れなければ

千葉 映画製作 51歳 男性 HS

今回も大変貴重な実践の場に立ち会わせていただきました。

大人にできなくて子供にできる。先生に今まで何度もお話いただき、実際に見せていただきましたが、子どもでもできないという場面を実際に目の前で見たのはこれが初めてでした。

その時に感じました。「これは私たち自身の姿だ」と。
他人事ではない、まさに自分のこととして見入ってしまいました。

もし、自分の子供だったら自分には何ができるのか。
もし、自分が指導的立場の人間だったら何ができるのか。

本当の自信が無ければ何もできないどころか、誤った影響を与えてしまう。

「他尊自信」の言葉が頭をよぎりました。

今の自分では何も言えずできず、ただ立ち往生してしまいます。でも、世間社会は許してはくれません。板挟みになり苦しみだけが残ってしまいます。

しかし、90度に深く礼をする姿とその後熱中してホワイトボードに絵を描いている姿に思わず感動してしまいました。

そしてその子供たち3人が人目を気にせず、ずっと絵を描いているのを先生はそのまま続けさせている光景にも、なにかグッとくるものがありました。

ご両親に向かい時折厳しくお話されても、お子さんが変わっていく様を見てからご両親がそれを受け入れ始め、どんどん雰囲気が変わっていく様子がとても印象的でした。

厳しいお話をされながらも未来につながるものを探しその場で変えるエネルギー。

その場を直接見ることができ、そして同じ場で感じさせていただいたことがなんとも言葉にできない気持ちでした。

子どもが悪いのではなく、すべては大人の影響。

家族の影響が一番大きいですが、私たち大人のひとりひとりが発しているものが知らず知らず大人同士でも影響し合い、それが子どもたちへもつながってしまう。

他人ではなくすべては自分の責任。

子どもではなく私たち大人の責任。彼らの足を引っ張る大人であることは避けたいです。

サンチンのご指導もいただきましたが、自ら何かを発し、人を引きつけ受け入れる。そういう器のようなものを育てていきたい。

日常生活の中で、言い訳が多い人、些細なことに執着しがちな人、余計な言葉が多い人につい目がいくようになってしまいました。時に不快に感じます。

しかし、これは他人の形を借りて自分を映した姿です。

それらを容れるような器になれたら。向かって近づいていけるなら。

先生が見せてくださる、私たちにとって未知の力、高次元の力はまさに目の前にあるのだから。それを受け入れる器を広げたい。

私たち大人が固く閉じず、開き始め受け入れなければ。そう感じました。

私たち大人が固く閉じず、開き始め受け入れなければ

千葉 映画製作 51歳 男性 HS

今回も大変貴重な実践の場に立ち会わせていただきました。

大人にできなくて子供にできる。先生に今まで何度もお話いただき、実際に見せていただきましたが、子どもでもできないという場面を実際に目の前で見たのはこれが初めてでした。

その時に感じました。「これは私たち自身の姿だ」と。
他人事ではない、まさに自分のこととして見入ってしまいました。

もし、自分の子供だったら自分には何ができるのか。
もし、自分が指導的立場の人間だったら何ができるのか。

本当の自信が無ければ何もできないどころか、誤った影響を与えてしまう。

「他尊自信」の言葉が頭をよぎりました。

今の自分では何も言えずできず、ただ立ち往生してしまいます。でも、世間社会は許してはくれません。板挟みになり苦しみだけが残ってしまいます。

しかし、90度に深く礼をする姿とその後熱中してホワイトボードに絵を描いている姿に思わず感動してしまいました。

そしてその子供たち3人が人目を気にせず、ずっと絵を描いているのを先生はそのまま続けさせている光景にも、なにかグッとくるものがありました。

ご両親に向かい時折厳しくお話されても、お子さんが変わっていく様を見てからご両親がそれを受け入れ始め、どんどん雰囲気が変わっていく様子がとても印象的でした。

厳しいお話をされながらも未来につながるものを探しその場で変えるエネルギー。

その場を直接見ることができ、そして同じ場で感じさせていただいたことがなんとも言葉にできない気持ちでした。

子どもが悪いのではなく、すべては大人の影響。

家族の影響が一番大きいですが、私たち大人のひとりひとりが発しているものが知らず知らず大人同士でも影響し合い、それが子どもたちへもつながってしまう。

他人ではなくすべては自分の責任。

子どもではなく私たち大人の責任。彼らの足を引っ張る大人であることは避けたいです。

サンチンのご指導もいただきましたが、自ら何かを発し、人を引きつけ受け入れる。そういう器のようなものを育てていきたい。

日常生活の中で、言い訳が多い人、些細なことに執着しがちな人、余計な言葉が多い人につい目がいくようになってしまいました。時に不快に感じます。

しかし、これは他人の形を借りて自分を映した姿です。

それらを容れるような器になれたら。向かって近づいていけるなら。

先生が見せてくださる、私たちにとって未知の力、高次元の力はまさに目の前にあるのだから。それを受け入れる器を広げたい。

私たち大人が固く閉じず、開き始め受け入れなければ。そう感じました。

年を経るごとにパワーアップされていく先生のお姿を拝見できて本当に幸せです

宮城 医師 76歳 男性 TU

今年の仙台道塾はニュージーランドに移住されるご家族が参加して始まりました。
いつもと違って子どもたちの声が響く会場。

その中で「子供にできて大人にできないことがある」という事実は本来持っていたヒトとしての能力を成長過程で失うような教育を受けてきたことにあるとのこと。
10歳の男の子が既に本来の能力を失いつつあるという事実にはびっくり、驚きました。

その子が先生のご指導のもと、姿勢を正す(きちんと正座する)や丁寧に挨拶をすることで、その場の間が一瞬にして変わり押せなかった数人の大人の列を押せるようになり、自信を持って将来への希望に向かえることを示されていました。同時に、私達大人が親が躾けや伝統や文化といった日本古来の日本人としてのあり方を受け継ぎ伝えることをしてこなかったことが今の日本の社会的経済的政治的凋落の根底にあることも学ばせていただきました。
そこからの回復は先生が自在にされている気の世界、気のエネルギーと波動を日々の実践の中で稽古して自得していく、その思いを一層強くしました。

実践検証で机に貼られたビニールテープが気によって剥がれにくくなったり、ビニールテープの巻かれた変形した輪が一瞬にして元の丸い輪になったりと気の持つエネルギー、第五のエネルギーの凄さを見せていただいたばかりでなく、年を経るごとにパワーアップされていく先生のお姿を拝見できて本当に幸せです。

喜寿にならんとする私もそう在りたい、いくつになっても前を向いて歩んでいきたいと思いました。

道塾終了後は身体がエネルギーに満ち溢れて暖かく冬の寒さも心地よい爽快さに感じるほどでした。
「時間が流れ、周囲との繋がりができて調和が生まれる」調和した統一体の身体が持つ大きなエネルギーの素晴らしさをより一層理解できました。

思いやりや感謝、寄り添う、見守るなどの心のありよう・・・調和の心による行動こそが身体細胞にエネルギーを与え、自分の潜在意識の中のブレない核となるのだとはっきり理解ができました。

先生はじめ塾生の皆さん、スタッフの方々、今年一年宜しくお願いいたします。

一人革命の実践が自分や自分の未来だけでなく家族や仲間、次の世代にも伝わっていくことを改めて痛感いたしました

神奈川 映像制作 37歳 男性 YT

今回改めて、素直さや自立性、瞬発力、実践(日常)のなかでの一人革命の重要さなどを学ばせていただきました。

今回、10歳以下の子どもも参加し、はじめ大人の列を押してもビクともしなかった子が、先生が礼の指導をするだけで雰囲気が一気に変わり簡単に押し倒せるようになったり、受け答え方に瞬発力がでたりと、子どもが一瞬で変わる様を間近に観て、改めて先生の指導の凄さを感じるとともに、子どもの姿を見て素直さや瞬発力など今の自分に足りない部分を気づかさせていただきました。

また、がっちりと組んだ大人の列を触れずに倒したり、足を払われるだけで身体が真横になって宙を舞い床に大人の列が崩れ落ちるなど、今までの常識では絶対にありえない、人の持つエネルギーの凄さを体感させていただき、今の自分のモノの見方や考え方、行動がいかに小さい世界かということ、日常という実践の場を通じていかに真心をもって相手に寄り添えるか・今までの自分の行動をどれだけ変えられるか、まさに一人革命の実践が自分や自分の未来だけでなく家族や仲間、次の世代にも伝わっていくことを改めて痛感いたしました。

戦争や災害、政治不信や不景気など、先行きの見えない未来への不安に負けない、突き進んでいける自分を作れるように日々積み重ねて参ります。

改めまして、今回もご指導いただきありがとうございました。