2022年 仙台 第3回(2022.7.30)

人間のあるべき姿は調和であるという事実は希望です。このことを身体と実証を通じて学べる宇城道塾は希望そのもの

北海道 市職員 47歳 男性 TM

今の自分は自らが自分の可能性を封じ込めているということを痛感しました。「本質」というものは本来形がなく目に見えるものでなく5感で捉えることが出来ず、表面的に表れることの奥に本質が隠されているのに、表面だけに囚われて右往左往しているのが自分の現実です。5感で捉えられるのは三次元で言えば平面の部分だけなのに、習慣のために無意識にそれが全てと思い込んでいるため、本質からずれた行動や考え方をしてしまうのだと思います。人間はこの表面化や記号化する能力に優れている反面、本質の理解が不十分な人はその意図を誤解したり、その目に見えることそのものに価値を見出すという間違いを犯してしまいます。言葉で答えを求めたり、金儲けのために手段を選ばなかったり、目先の勝負に拘ったりとか、組織の維持果ては自分の権力や地位の維持のため周りを犠牲にするとか、全てがこの「本質」に対する理解不足が根底にあると思います。

同様に、宇城先生が「本棚は本でなく棚であり、人間は人でなく間である」と仰るこの人間の本質への無理解が周りの人たちを巻き込んで不幸にしていくという、恐るべき負の連鎖が日本を始め世界中で進行していることを感じざるを得ません。「自分さえ良ければ」という本質に背く生き方をしていると本質から外れて薄っぺらになったことを本能的に察知した身体や心は不調や不安を感じ、周りを攻撃したり引き籠ったりして怯えの中で自分を守ろうとするか、病気で身体を壊すということになるか、享楽で誤魔化すかで、せっかくの人生を有意義にする事ができずに終わってしまうということになり、特に欲や執着が極端に強いと、プーチンのように世界を危機に陥れるほどまでになるという事だと気づきました。

人間のあるべき姿は調和であるという事実は希望です。このことを身体と実証を通じて学べる宇城道塾は希望そのものです。
 2人1組で「1+1=」という質問に答えて正しい答えを答えて腕を上げて、もう一方がその腕を下げようとしても強くて下げられませんが、「1個+1個は?」に「2個」と答えると前者より弱くなっているのは、1個1個が全て同じではなくオンリーワンであることを身体が知っているということであり、また別な実証で、無心で複数人の列に相対して手を合わせて後退すると、列が自分に着いてくるというのは、人間が本質的には個々に存在するのではなく本質的には一つもしくは一つに調和しようとする性質があることを示す証拠であると考えます。

宇城先生は行動でも著書においても常に道を示されていることに今更ながら驚かされます。その道は自分で歩むしかなく、しかもその道を行くしか人間が今後繁栄するためにはないように感じます。我ながら自分が頼りなく感じますが、一歩一歩この道を歩んでいきたいと思います。

心に残ったのは「対立と調和」と「生きると健康」

岩手 教員 64歳 男性 MC

今回の先生のご指導で心に残ったのは「対立と調和」と「生きると健康」です。
ここ何年となく、身体に力が入らず思うように動けなかったり、痛みがあったりして悶々としていました。動かない身体を鍛えて前のような身体になろうともがき続けてきました。しかし、挫折の連続でした。身体を鍛えるのは出来ないものを叱咤激励して出来るようにするものだと思います。まさに自分の身体との対立です。今の状態を受け入れ、そのなかでよりよくしていくのが調和だと思います。いまできることをより精度を高めるよう積み上げていく。そのカギは呼吸にある。そう先生は教えて下さったように思います。それはこれまでの道塾で先生に何度も何度も言葉を変え、手順を変え教えて頂いてきたことでした。よし、今の自分でも「調和していこう」と考えれば前に進めると思いました。元気づけられました。

もう一つは「ただ生きるのではなく、健康でいることのほうがずっと大切だ」という先生の言葉でした。生きたい、生きていたいと思うのが自然ですが、どう生きるかが問題で、長生きすることが重要なのではないということだと思います。心と身体が健康であり、今を大切に生きることが重要で、どのくらい生きたかはその結果であり、それが目的ではありません。ハッとしました。

これからどうなっていくのか不安な気持ですが、今回先生からご指導頂いた「対立より調和」「生きるより健康であること」を肚に、先生の弟子の一人として、恥ずかしくない態度で過ごしていきたいと思っています。

一瞬ですべてを見抜き、調和できる在り方に修正くださる先生のご指導に感動

東京 不動産業 31歳 男性 SM

細胞のもつ100万分の1秒というスピードでの1分間は、通常の約2年間に相当するというお話が冒頭にありました。目盛りを細かくすることで今まで見えなかったものが見えてくる。とらえ方が変わってくるということは、同じものに接してもその奥深さや味わいが出てくるのだと思います。自身のスピードを上げること、そのためには「心あり」の行動をしていくこと。どこまで真剣になるか、ただそれだけ。

ニュートラルになり相手との境界をなくすこと。「自分の力で」「動かしてやろう」「押すぞ」何かを意識的にやろうとすることが、いかに役に立たないことか。何度も示し経験させてくださっているはずですが、いざ日常に戻ると、この意識の働きに任せて、相手と、また自分と衝突している自分。ニュートラルな状態を一度作ることができても、「無心」と意識することでそれはもう本質とは遠ざかっており、頭で作った動きになる。「知識として記憶を蓄える」いままでそういった学び方にどっぷり漬かってきており、身体に刻んでいく、一度で直す、ということが全然できません。悔しいです。1+1=2は強いが、1個+1個=2個は弱い。身体が先に答えを出している。身体、細胞に対してもっと心を開き、ゆだねることを心して取り組まなければなりません。

先生が実技検証のために道具をお使いになる際に、ぱっと動けない自分。誰かがやってくれるだろう、ではなく、自ら動く。先を見て先生が求めていらっしゃるものを見る。お客さんとして道塾に参加しているというお叱りをいただき、胸にとどめておかなくてはならないと感じました。道塾に来て先生からエネルギーをいただいている。宇城道塾ファミリーとしてこの輪を広げていく。おなかが痛くてうずくまっている人に「大丈夫ですか」と声をかける、声をかけたほうも声をかけられたほうも強くなる。素通りすると、自分も相手も変わらず、ただ時が流れるだけ。自ら働きかける、勇気をもって声をかける、そこから変化につながる。

複数名が肩を抑えて列になり、1名の方がその列に正対した際に、立ち方ひとつでなぜ調和して列を押せないか、先生はすべて瞬時にご指導くださいました。その内容は肩や腰の位置、体全体の向きなど各人さまざまでした。身体の在り方は、思考や意識、内面の癖を如実に表していることを感じるとともに、一瞬ですべてを見抜き、調和できる在り方に修正くださる先生のご指導に感動いたしました。理屈でなく、やってみせる。できなかったことが瞬時にできるようになる。この「変化」は当たり前ではなく、ものすごいこと。同時に、もともとはみんなができるはずの潜在能力だと示してくださっている。すべては自分の中にある。自分を侮らずに真剣に向き合う。同時に外に向けて発信、表現する。仲間を増やすことが自分を助けることになる。一歩一歩前進したいと思います。何卒よろしくお願い申し上げます。