●30代 男性 京都 私立中学校・高等学校 SS
この度、ご縁があり、初めて宇城先生のお話を聞かせていただくことができました。まずは貴重なお話と体験をありがとうございました。会場に入ったときから緊張感が漂っており、厳粛な雰囲気で聞かせていただくお話はどれもそのとおりだと腑に落ちるものばかりでした。とくに、教えるべきである教師は生徒の何倍も学び続けるべき存在であるというお話はまさにそのとおりだと感銘を受けました。我々教員はどうしても日々の忙しさを言い訳に、自分の教科に関して情報をアップデートすることが少なく、今まで同じ知識で生徒たちに教えてしまいがちです。しかしそれでは、生徒の見本にもなれず、生徒たちが考え主体的に学び続けるような環境を生み出せないと思います。日々謙虚な気持ちで精進し、自分も学び続けるからこそ、学習者としての苦労を再発見し、生徒に寄り添うことができ、良い授業を作り上げていけるのだと改めて感じました。
また、気に関する体験ですが、百聞は一見にしかずとはこのことでした。理論的に考えるのではなく、見て体験したことをありのまま感じることができました。私はみなさんがされているのを見ていることが多かったのですが、それでも大の大人が簡単に移動したかと思えば、ぱたりと止まり、まだまだ自分は無知で知らないことが多いなと感じました。次は自分がもっと体験をし、もっと感じていきたいと感じました。
ぜひまた参加させていただき、たくさん学ばせていただければと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
●30代 男性 奈良 中学校 AK
第三回教師塾を参加させていただきました。第二回に参加できなかったので、半年以上時間が空いてしまっての参加となりました。
宇城先生のお話を聞かせていただいたり、ご指導を直接していただいた中で、自分の速度が圧倒的に遅くなっていたことを感じました。もう起こっていることを感じ取ることができず、遅れてやってくる感覚。感じた瞬間悔し、情けなく感じました。宇城先生に「子どもたちのSOSを見逃している。」とご指摘をうけた瞬間にある生徒の顔が浮かびました。この子のSOSを見逃しているんじゃないか?と感じました。
教師塾に行った次の日の朝は不思議と体が軽くエネルギーが蓄えられているように感じました。もう一度今日からやり直そうという気持ちで、思い浮かべた生徒と話をすると、彼女の現状の行き詰まり感と憤りを話してくれました。今まで感じ取れない自分の未熟さを痛感しました。そして、彼女の本心が聞けたことで、一緒に頑張ろうと改めて思うことができました。
本当の意味で実力をつけていくために、今の自分の現状を受け止めて。しっかりと学ぼうと思うことができました。
気づきを与えていただきありがとうございました。
●30代 男性 奈良 小中学校 KS
いつも貴重なお話、体験をさせていただきありがとうございます。感謝しております。さて、今回は「希望」という言葉について考えました。そのことについて、感想を述べたいと思います。
まず希望という言葉は、いつも絶望と隣り合わせにあると考えています。いつでも絶望に変わる可能性がある。だけれども、信じる気持ちがあれば、希望を持ち続けることが出来ます。職場でもそうですが、私はいつも周りに支えられ、助けられ、生活しています。このことに気づくことが出来るかどうかが大切だと感じます。
宇城先生の、ユーモアから学ぶことは多く、絶望の隣には、いつも希望があります。反対も然りです。しかしその希望に気づくことが出来なければ、絶望となるのではないかと感じました。 大地に立つ樹木と、樹木を切ったあと、家の建築に使用した木材では、宇城先生からの説明もあったとおり、一緒のようでやはり違うと感じました。その違いは、何か。樹木も一本のみで生きていることは少なく、多数で、生えていることが多いと感じます。当然、大地や空からのエネルギーをもらい、樹木は、成長します。一方、家は成長することなく、人為的に破壊されたり、無理やり何かを付け加えられたり、人間の勝手に左右されます。
では、自分はどのように行動するべきか。やはり、教師として教育に置き換え、何が出来るかを考えて、日々行動することが大事だと考えます。学級でも絶望を感じ、学校へ登校しなくなる生徒が増えています。また、最近の情勢でもあると思います。それは、生徒を孤立化させてしまっている現状があるのではないかと感じます。周りからエネルギーをもらい、「希望」さんから、エネルギーをもらえれば、そんなことにはならないのではないかと思うのです。
教師には、出来ることの限界がある場合があると理解した上で、私は、出逢う生徒たちの「希望」でありたいと感じます。だから、宇城先生のもとで学んでいるのだと感じます。傲ることなく、謙虚に子どもたちの希望になりたいと思います。そのためには、自分が変化することを恐れず、柔軟に様々なことに対応することも大切だと感じます。つい、例年とは違うことをしようとすると、保守的に今まで通りしておこうという思考になりやすいですが、そうならないように気をつけて、行動していきたいと思います。
私は、毎日学級の空気を良い空気に入れ替えるため、あいさつを欠かしません。ごみが落ちていれば、黙って拾い、あるべきところに戻します。日々の積み重ねが本当に大事だと考えるように自分自身も変化してきました。これからも宇城先生のもとで、学ばせていただきたいと考えています。
今後も、精進して参ります。いつもありがとうございます。
●40代 男性 京都 私立中学校・高等学校 HI
この度は、ご多忙の中、私たちのために第3回宇城教師塾にてご指導いただき、誠にありがとうございました。私自身の至らなさから、スケジュール調整が上手くいかず、前回までの教師塾に参加できていなかった事もあり、この度は久しぶりの参加となりました。そのような事情もあり、自分自身の劣化を痛いほどに思い知らされました。宇城先生の著書や道を日常的に読み返すことで、進化とまではいかなくとも、少なからず現状維持はできているのでは・・・。内心ではそのように思っていましたが、現実はそんなに甘いものではありませんでした。改めて「師を写すこと(写していただくこと=傍で学ばせていただくこと)」の大切さを、痛感した次第です。
「傍で学ばせていただくこと」に関して言えば、宇城先生はもちろんですが、共に学ばせていただく先生方にも、同じ事に気付かせていただきました。
現在、私の勤務する学校では、教員側の「抑えつけようとする態度・言葉」に起因するトラブルが増えつつあります。もちろん体罰の類ではなく、10年前なら、保護者も「先生の言う事は聞かないといけません。あなた自身が、ちゃんと出来ていないからいけないのよ」という具合いに、我が子の至らなさに焦点を当て、問題化(表面化)しない程度のものではあります。しかし、私が最近強く思うのは、「このようなクレーム(有り体に言えばパワハラに対する訴え)」は出ないようにしないといけない、という事です。これは、トラブルの収拾のため、保護者に迎合するという意味ではありません。宇城先生が常々仰る「地球が引力で万物を、磁石が磁力で鉄を引きつけるように、人は(教師は)魅力で人を惹きつける」の道理に適っていないから、生徒や保護者を得心させるに至らず、クレームという形で「人間の軽さ」が“見える化”された結果だと思うのです。この辺りの所を私自身、若手を中心にもっと周りを巻き込み、先生と呼ばれて胡坐をかいている態度・心に、皆が気付けるようにしなければ・・・そのように思いますし、責任を感じました。そのような意味で、前述の「共に学ばせていただく先生方」に対する気付きに繋がったのです。ならまちセンターの教師塾会場に入った瞬間に、自分自身の心が謙虚になっていくのを感じました。宇城先生の存在や発揮される気に依るところが多くを占めているのだとは思いますが、それだけではなく、謙虚に学び続けておられる先生方の普段の姿勢が、他者に影響を与えるレベルに達しているからこそだと、ハッキリと感じ取れました。そして同時に、私自身の普段の至らなさに気付かされました。私自身が、もう少し他者への影響力を発揮できるレベルに到達していれば、本校における保護者のクレームも減らせる筈なのです。
このような大切な事に気付けたのも、宇城教師塾に参加させていただけたからです。目指す道は遠く、そして険しくもありますが、謙虚さを忘れず、学び続けていきたいと存じます。そのような決意を新たにすることの出来た、今回の宇城教師塾でした。これからもご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
最後になりましたが、いつも教師塾の段取り、取りまとめを務めてくださる先生方に、心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
●50代 男性 奈良 中学校長 KY
宇城先生、大変ご多忙の中、第3回教師塾でのご指導誠にありがとうございました。
今回ご指導いただいて私自身まず先生の大きなエネルギーをいただいたと感じております。先生のお言葉一言一言と共に実技の指導をいただき自身が体験する中で自分の中のエネルギーを感じることができました。先生の太陽のようなエネルギーをいただいて私の中の何かが活性化したのだと思います。私は日頃より,自分と出会った方が元気になっていただいたらと思い生活しております。学校においても生徒や教職員が元気でいきいきと活力を持ってもらいたいそう願って共に働いております。指導の中で先生がおっしゃっていた分断化ではなく全体化をしていかなければならない。そうでないとエネルギーが出てこないと言うことかと思いました。先生のお話の中でひとつの細胞には体全体を作るだけのものが含まれていると。人間も含めた生物はすべてたったひとつの細胞からできてくる。部分ではなくすべての可能性をもった全体がそこにあるということだと思いました。先生のおっしゃる気というエネルギーはその可能性を引き出してくれるすべてに通じるものである思います。先生には人間社会の小さな価値観ではなく自然や宇宙とつながる手立てを指導いただいているのだと気づかせていただきました。ご指導の中で「寄り添う」ことが大事と。実技指導の中で肩を横からポンポンとたたいて持ち上げる実技をしていただきました。実際にやってみると寄り添う気持ちで肩をポンポンとたたいてから持ち上げるのと,相手に対してぞんざいな気持ちで肩をたたくのと明らかに重さがちがいました。先生は大地から見放されるとおっしゃいましたがまさにその通りだと思いました。寄り添う心とそれにともなう身体の動きでこれほどまでにちがうのかと改めて気づかせていただきました。
これに関して実は、この日教師塾に向かう直前に学校の方に卒業生が来校しました。私が現任校で4年前に野球部で指導していた教え子で、その後私は転勤しこの春から再び戻ってきたのですが、教え子は高校3年生で進路が決定したとのことで報告に来てくれました。彼は、体育系の学科がある大学に進学し「先生大学決まりました」と。学科の話をすると「将来、体育の先生になりたいです」とのことでした。話の中で彼が「先生、ぼく体育の先生になりたのですが、なれますか?」と不安げに尋ねてきました。私は、「自分次第や本気で頑張ったら大丈夫や、がんばれ!」といました。その子は,不安げな表情が一変笑顔になり「はい、頑張ります」と言ってくれました。帰り際に「がんばれよ!」と肩をポンポンとたきながら声をかけました。すると教え子がとってもいい笑顔で「はい,がんばります」と答えてくれました。そのときの表情がとても印象的でうれしく心に残りました。その出来事があったすぐ後に、先生のご指導を受け、肩でポンポンとたたいてと言う体験を初めてしていただいたことに、不思議さと必然性を感じより強い気づきと学びをいただきました。これからも寄り添う心や全体化など今回ご指導をいただいた多くの気づきを大切に日々の実践の中で少しでも自分のエネルギーを高めていけるよう努力して参りたいと思います。
宇城先生、お忙しい中、奈良までお越しいただき教師塾でのご指導、誠にありがとうございました。ご指導いただきましたことを糧として今後も精進し日々の生き方に繋げて参ります。今後ともご指導の程、どうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
●50代 男性 奈良 高等学校 NM
「棒を持ってきて。」「タオルは持ってきてるのかな。」
棒を持って行く時にタオルが必要となることを知らないわけではない。が、次の展開が読めていない。いや、読めていないのではなく感じとれていない。いらなければいらないでいいのだ。準備が大事。先をとる、3つの先。結果が出る出ない以上に大事なことは心があるかないか。学校の先生の癖、自分の身体のレベルの低さ。
忘れていた、ではなく身体の集中力が全く無い、切れているということ。宇城先生がおっしゃる断片も身体がそのような状態であるということ。頭でついていけるようなことならしれている。絶対に無理。スピードは頭からでは生まれない。痛感、いや痛快でした。
世間、人間、時間、空間の分断化、断片を捉える癖だらけ。全て自身の身体がそうであるということ。よって、理屈ではなく、身体を練っていけば。究極が先生の気です。まさに先生の身体は1本の樹、樹木です。俺の名前は森島だ。森島伸晃。名前負けしています。「もりし のぶあ」実像は間抜け、気抜けです。
ありがとうございます。
隙がある・・・。虚とは体勢に隙が現れること (柳生兵庫助)。
虚・・・。むなしい。中身がない。から。うつろ。うわべだけの。実がない。うそ。
要するあの場における自分には「心がない」ということ。死に体。電気がついたり消えたり。姿勢・・・。
繋がっている(いた)ことと、よみが「あたる外れる」ということは同じようにもとれるが、実は、真実は、心ありかなしか、身体か頭か、全体か部分(断片)かというくらい真逆、大違いであることを今回も思いしらされました。初めての経験ではありません。何度も何度もたたき込んで、身体に刻んでいただいています。自分では気付かなくても。ず~っと。先生に気をかけていただいていることを。
生かされていること、活かされていることは何時、何処で、どのような時に感じる、感じられる、感じさせていただけるのか。いや、何故、何故、何故感じられるのか・・・。顕在化、言葉、気付いた瞬間にはもう・・・。
このようなこと、類似するようなことは自分では気付かないだけで、私の日常において茶飯事であることは容易に推測できます。自分のものに出来ているかどうか。身についているかどうか。自身を護れているかどうか。自衛とは何か。
間抜けでスルーしまくっている。本当に自分次第です。先生はいつも、そして間違いなく「気付こうがなかろうがどちらでもいい。全てはあなた次第ですよ」という高く広く大きな視座です。本物。先生の愛情、慈悲。
寄り添う、包み込むということの深さを感じさせていただくと同時に真意を読み取るのではなく、感じられる、感じた、となるような身体の形成が急務です。そこに向けて精進いたします。
ああして、こうして、次にこれして、それから、えーっと・・・。いつまでも笑って頭で誤魔化していられません。また、焦りは何もやっていないということの証です。無理は、出来ていないという証拠です。
この度の教師塾におけるご指導、誠に有り難うございました。
●中学校 京都 40代 男性 HA
宇城先生教師塾開催ありがとうございます。本日の先生の資料の量、この日のこの時間に込めた思いが今日の講義の中で伝わりました。その思いは、教育の世界に対してどれだけ重要か、そのことを表していたように思います。全体をとらえようとしていない教育、バラバラにしてあたかも正解にしている教育。初めから一つ。今までも宇城先生からそのことを教わってきていましたが、本日の講義でより何がいけないのか、何故こうなってしまったのか。そしてこれからどうあるべきか、何が大切なのか、何を捨てなければいけないか、そのこととどう戦うべきか。また間違ってきたのか。本当に中身の濃いあっという間の時間でした。様々な話、そしてそれを実証する検証の数々。答えがわかる人でないとあのような時間や構成にはならないし、我々もあの時間であれだけのことを納得できないそう思いました。1+1=2 しか教えてこなかった日本の教育。その結果の今の日本。先生が写真で見せてもらった、価値のないと思われている深海魚の価値の生み出し方。日本の小さい世界しか教えない教育では誕生しない。あの人が日本を離れて海外でサバイバルを経験して、体験の中で身につけた、知恵から生まれた発想です。今の日本の何が悪いかそれは間違いなく教育。そしてその仕組みです。しかし、馬鹿な私はまた、制度のせいにしています。制度のせいにする、狭い考え、部分的な思考。これも教育で培ったものです。大切なのは、大局であったり、全体を観る力です。その引っかかる部分にだけ目を向けて何とかするは答えではないです。その根源は先生が仰っていた生きているか、生きるか、それとも生かされているか。この出発点が違うと永遠に辿り着けない。宇城先生が教えられているのは改めてそこだと今日痛感しました。地球に見放されている。母なる地球を忘れてしまっては、当然生かされているという真理は真理でなくなります。教育者として、そして人としてどう在らねばならないか、謙虚に、自分にそして周りに寄り添う。今日の話にあった言葉に意味は無い。私の行動、仕草そこにエネルギーは存在することを今日また改めて痛感しました。先生の思いを我々が浴びたように、目の前にいる生徒も感じるはずです。1に勉強2に勉強3に勉強、、、。本気で本当にそれをされている本物の方を師として学べる私は本当に幸せです。同じく私の生徒もです。本来そうなります。そのためにも自分をもっと根本的に変えて学び続けて行きます。ご指導ありがとうございました。
●高等学校 奈良 40代 男性 TS
先日は、第3回宇城教師塾にて御指導いただき誠にありがとうございました。先日の教師塾では「子どもに希望を与えているか」という宇城先生の言葉がとても心に響きました。また、途中塾生が御指導いただいた「無意識に関節をたたくというのは、心がない」ということも自分事として受け止めていました。
宇城先生の講義を受けると、「我々は無力である」ということをつくづくと実感させていただくことができ、膨大な資料を前にし、自分ももっと勉強しなければという思いになります。
先日の講習においても、常に宇城先生から教えていただくことは、日常が非日常であり、この世の中、既存の教育では子どもたちの能力を引き出すことは出来ないということです。しかしながら、我々教員は勉強することなく、その事実に眼を向けず見えるものが絶対的に正しいと思い込み、子どもたちと接しています。それがどれだけ罪深いことなのか自覚もありません。私自身も頭での理解であり、身体では理解出来ていません。その事実に対する怒りと我々に対する期待を宇城先生から感じることが出来ました。
変わることのない組織、そのなかで自分自身がどのように変化していくか。宇城先生はそれを言葉だけでなく、実践を通じて私たちに伝えていただきます。私たちは、言葉(部分)でしか生徒達に伝えることができません。宇城先生の教えを日常に落とし込み、自分がどう行動していくべきかはまだまだ浅い部分でしか理解することができていませんが、それをもっとしっかり自分に落とし込んでいき、行動を変えていきたいと思いました。
御指導いただいた次の日、学校がありました。文化祭でした。遅刻して、学校という枠組みでは違反した様相の生徒が数人集団で登校してきました。いつもなら力み、生徒と衝突していましたが、なぜか昨日は力みがなく、自然体で生徒と接することが出来ました。なぜかは分かりませんが、そのヒントであり答えが宇城教師塾にあります。
教えて頂いたように講義の2時間だけでなく、準備、懇親会、感想文、そして日常のなかでいろいろなことがつながっていけるように行動していかなければならないと感じました。今後とも、ご指導よろしくお願い致します。
●中学校 奈良 30代 女性 UK
お忙しい中、ご指導いただきありがとうございます。
現場で仕事をしていて、宇城先生に学びにいかせていただいているのに、いまいち上滑りしている、上手くいっていない不安や焦りがありました。調和が大切にしているつもりだったのですが、それは頭で理解しているだけで、断片だったのだと思います。なので、その場だけの調和もどきであって、別の場所に行けばそこに合わせるということをしていました。ですので、軸がぶれて、何が自分の中心にあるのか分からなくなっていましたし、わからないことも気づかない状態でした。生きていく上で、子供たちと過ごす上で、何が大切かを見失っていて、全体が分からなくなっていたのだと思います。とても小さい部分で物事を考えていて、大きな全体で物事を捉えていませんでした。なので、子供達に話をしても上滑りをしているように感じていたのだと宇城先生がおっしゃっていた全体化と断片化のお話を聞いて感じました。
今、少し病気を患ってしまったのですが、病になって、愛情がある、ないをとてもよく感じます。受ける立場にならなければ分からないのは情けないですが、自分が受ける立場になればよくわかります。心配の言葉をかけてくれるけれど、愛情がない人もいれば、ささやかだけれど優しさや愛情を持って接してくださる方もいます。子供たちは、私たち大人のことを、こんな風に見えているのかなと思います。優しい愛情のある言葉や行動を受けると、とても元気になります。また会いたいなや、よし頑張ろうというエネルギーが湧いてきます。自分の中の密度が増して、生きるエネルギーが湧いてくる、まさに宇城先生に実践していただいている通りです。子供たちとすごす時間の長い私たちの役割は、とても大きいと改めて思いました。そして、大きいからこそ、学び、愛情あふれた人になっていかないといけないと思いました。
全体化は、希望や夢や目標を持って、愛情や絆や素直な心で向かっていくことなのかなと思います。子供たちが希望や夢を持つことができるような自分になれるように、日々学ばなければいけないと思います。そうすることで、子供たちがこれからの人生で、周りに愛情を持って過ごすことのできる人になるきっかけになればいいと思います。
たくさん学ばせていただき、ありがとうございました。また、今日から頑張っていこうと思います。
●県立学院 奈良 20代 男性 MI
今回もお忙しい中、教師塾を開催していただきありがとうございました。前回の教師塾は新型コロナウイルス感染により参加できませんでしたので、今回の教師塾を楽しみに過ごしていました。そんな中、宇城先生の話の中で、不安になるから感染する、マスクの意味のなさの話を聞いた際、大事な試験前で私自身がコロナに感染しないようにと不安であったことが思い出されました。感染したのも私自身が断片化していたのだと感じます。全体性と断片化、これは宇城先生が普段からおっしゃっている「統一体と部分体」なのだとも感じました。本来人間は統一体であるのにそれをスポーツ等で部分体に変えてしまう教育の在り方はとても危険であるとも改めて感じました。未来のある子どもたちに接する人間として一層精進していきたいと思います。
特に今回の教師塾の中で印象に残っているのは、最後にスポーツの語源を話されていたことです。スポーツの語源はラテン語の「デポルターレ」意味は遊び・気晴らしからきていると。しかし、なぜそれが勝利を目指したものになっているのか、勝つことを重要視するのか、人が嫌がることをしてまで勝とうとするのか、これは目先の結果にとらわれて出る結果で、教師としてとても安易なことだと感じました。そして、教師塾の中で宇城先生が仰っていた、「打って勝つは下の勝ちなり、勝って打つは中の勝ちなり、戦わずして勝つは状の勝ちなり」とスポーツは真逆だと。相手と調和し、寄り添うことで人間本来の力(統一体の力)が発揮され目に見えない力(気)が働く、それを今回の実践でも強く感じました。まず、私自身にできることを子どもたちに伝えられるよう学び、実践していきたいと思いました。
今回もお忙しいなか本当にありがとうございました。一人革命、深さを知ること、先を取ること、寄り添うこと等まだまだ私自身足りない部分は多いですが、これからも日々精進していきたいと思います。これから寒い日が続きますがお体ご自愛下さい。今回も本当にありがとうございました。次回の教師塾もよろしくお願い致します。
●高等学校 奈良 30代 男性 SY
今回も貴重な時間を作っていただきありがとうございました。今まで実践講演会や野球塾で学ばせていただいていましたが、今回より教師塾にも参加させていただきました。
私は1年半程前から先生の本を読ませていただいたり、話を聞かせていただく機会があってから、自分の中でも変化があり、夫婦関係、職場など、身の回りのことで自分に関わる対立(トラブル)がなくなっているような気がしており、それだけでも先生と出会うことができてうれしく思います。今回のように学び場があることに感謝し、日々成長してきたいと思います。
今回は、断片的に捉えるのではなく全体で捉えることを講義、実践を通じて教えていただきました。戦争が起こる理由や、外交、政治、教育現場など、いろいろな場面で全て断片的に物事を捉えているからうまくいかなかったり世界から遅れていく。マスクをしているのも日本だけ。それに日本は中高生の自殺が多い。このままではただただ数年後の日本、そして自分たちはどうなっているのか、考えると怖くなりました。その自殺が多い中高生の目の前にいるのが我々教員で、我々が子どもたちに希望を与えないといけないという責務はかなり重いものだと感じました。先生が実践・講義の中で伝えてくださった、「理屈ではなく姿(実証)で示す」この姿を子どもに見せるだけでいいということと、気が通り統一体になった状態(世界)を知っているだけでも全然違うという言葉に私は希望をいただいたように思います。
実証体験では今回も驚きばかりでした。先生が気を入れると瞬時に変化が起こり、同じ時空にいる人が引っ張られずに強くなる。寄り添う声をかけながら触れると体が重くなるなど、できる自分とできない自分があることに気づき、そして、できなくしているのも自分であることに気づく、また、心の大事さもあわせて確認することができました。思えば実際の現場では、生徒のためというより自分のために理屈を並べ、生徒に言い聞かせている自分がいます。こんなことをしていては、講義の中でお話していただいた、日本を飛び出して無人島生活などを経験し、深海魚で新事業を立ち上げた女性のような強い人間を育てることができません。理屈、知識ではなく、姿を見せるということ、生徒に蓋をせずに、希望を与えることができるようにしっかりと自分を見つめ直し生徒たちに接したいと思います。そのためには自分が生き生きとエネルギーにあふれていないといけません。今回の教師塾の場でエネルギーをいただきました。生き生きした姿を生徒に映すことはすぐにでもできると思うので、明日から取り組みたいと思います。
いただいた希望とエネルギーを財産に目の前の生徒のために前を向いてしっかり成長したいと思います。本当にありがとうございました。
●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性 TN
一昨日は、教師塾大変お忙しい中ご指導いただき誠にありがとうございました。
2学期も残すところ2か月。少しずつではあるもののコロナ前の生活に戻りつつあり、ワクチンやマスク生活による弊害が明らかになってき始めたのも事実で、特に高齢者の帯状疱疹や子どもの脳や心の成長、知能低下の状況が既に出始めてきている現状に対応していかなくてはいけないのに、政府は手を打てない。実際宇城先生がこの間海外でのヨーロッパセミナーでマスクをしているところなどないと。一方日本はというと、不安や恐れ、周りからの目を気にするあまりにマスクをとれない。誰かに言われないと自分で判断できない。まさに奴隷国民の今の日本にがっかりという言葉出てきません。今の日本の大人から学ぶ、育てられている子どもは、悲しいかなマスクを外すことが出来ず、どんどんダメな方に動いている事実がある。海外はどんどん未来に向けてスピードを上げて動いていることを日本は気づいていないままに、取り残されていることもわからず、振り返ると後ろには誰もいないことになり、世界で一番取り残されてから気づくのかもしれません。
「空気」がなければ生きていくことが出来ないと今一度地球に活かされていることへの感謝が出てこなくてはいけないと心から思います。数年前からコロナウィルスが流行し、結果マスクをすることに。マスクをすることで酸素不足による健康被害。ここまで「空気、酸素がなければ」ということを地球が教えてくれているのにも関わらず気づいていないのかわかっていない状況にこのあり様・・・。北朝鮮がどんどんミサイル実験をしているのにJアラートの誤作動。平和ボケの極みを感じます。
この地球に活かされているという大きな枠組みで考える「全体性」の視点を持てれば、見えてくるものも多く出てくるが、「分断化」で小さい視点でみると重箱の隅をつつくような議論にしかならず、解決の糸口がみつかるどころか余計ダメな方に進むことに気づかせていただきました。実際先週から職場での将来構想についての議論をする中において、私自身が分断化したような議論に対して、全体性の議論に出来なかった自分の視野の狭さを痛感しました。
それを含めて多く思考の癖が抜けない。今自分がもっている知識や常識が非常識であるということを素直に受け入れることからスタートしなければならないと思います。先生からも「力の概念が変わる」ということ。実際壁に手をかけて、帯で後ろから引っ張ってもらう検証では、気を通してもらうと何人に引っ張られても逆に引っ張り返すことができる。今の常識では考えられない。しかし事実としてあるということから思考を変えていく必要があるのだと思います。
人間には、素晴らしい力がある。それを発揮するためにも身体も思考も素直になることで自分が変化し、希望が出てくることを教えていただけることに感謝し、引き続き学びを深められるように行動していきます。
●大学 大阪 60代 男性 TM
今回の教師塾では、ご指導をいただき誠にありがとうございました。
今回改めて「教育は師からの慈愛と、弟子からの尊敬によって成り立つ」ということを強く感じました。本当にありがたい機会をいただき、それはその場で学ぶという次元ではなく、自身を大切なところへ立ち返らせ、そして「希望」への一歩を、師を通して学ばせていただける、こんなありがたい機会はありません。
今回の中で、『断片化』『全体』というキーワードがすごく心に響きました。響くということは、自身がまだどこかで分け隔てをしている、どちらかというと全体を見ずに断片的な見方をしている。それは自身の生き方そのものだと気づかせていただきました。分かったような気になっている、これ自体が断片的である。全体を通して見る、全体を通して感じる。「断片的」では、自分だけ、孤立、心なし、となり止まってしまうが、「全体」となると、包み込む、思いやる、生かす、とどこまでも繋がっていく。そして更にどんどん深まっていく。それが愛情の根源である。愛情は数字では表すことができない、だから深い、尊い。昨今、子供が犠牲になる事件や事故が非常に増えている。今年の夏には、バスの中に幼児が置き去りにされ熱中症で命を落とすという件があった。先日もまったく同じような事態が発生した。こういった事に対し、宇城先生は「愛情がない」ということを言われた。この一言にすべての本質があると感じます。日常を通してすべてがそこに繋がる。愛情とは断片ではなく全体であり、人間だけではなく、物にも命があり愛情がある。寄り添う、包み込む、大切に思う、そこに分け隔てもない、只々、目に見えない心と心を寄り添わせる。宇城先生に気を通していただくと、愛情を注いでいただいていると感じる。だから強い弱いも、勝ち負けも、できたかできないかという評価もない、全員がそうなっていく、もっと言うと本来あるべき自分に立ち返らせていただいている。希望が持てる、そしてどんどん膨らむ、それらの繋がりを通して心が豊かになっていく。それを実践(実証)を通して時空を通して示していただける。『進歩成長とは変化すること、変化するとは深さを知ること、深さを知るとは謙虚になること』。人間は謙虚になることで心が豊かになり、エネルギーが高まる。そこから人間が形成され、希望に繋がり、人の心をも豊かにする。時代が便利になればなるほど、孤立化が進み、自分中心になり「謙虚」さが失われ、スポーツ界では勝ち負けだけの競争社会になっているように感じる。対立、争いからは何も生まれない。そういったことを理屈だけではなく、気を通して(実践を通して)、瞬時に変化する自分と向き合うことができる機会は他ではない。いくら頭でやろうと考えてもできない、当然である。それは思考を止めているだけに他ならず、自惚れ、驕り、マンネリ、甘えという病に陥る。頭で考える癖がついているために自己抑制が出来なくなっている。それが身体に正直に出る。そういう点でも子供と大人の違い、身体の大きさ、生きてきた年数ではなく、まずエネルギーが違う。そして子供は何よりも「素直」である。素直さがエネルギーを高めていく。素直、謙虚さがないと本来のエネルギーはどんどん下がっていく。様々な断片化、偏りに繋がる。大人は頭で考え、思うようにやろうとすればするほど横着になり、誤魔化し、中心から離れていく。中心から離れるとは「謙虚」さが失われる。スポーツ界のレベルの低さ、それは勝敗だけの世界、強い弱いだけの評価に偏っている。真の強さとは、勝ち負けではなく、心豊かに生きることにある。「生きている」「生きる」「生かされる」、非常に腑に落ちた。生きているという思い上がり、生きるという自分中心、生かされているという謙虚さ。人間は、人を生かしながら生きている。人は人によって生かされている。今回、宇城先生から気を通していただいての実証では「どちらかが…」ということがない、お互いが、全体が、地球全体、宇宙根源へと繋がっている。だから世界に出ていかれる、そしてどのような国へ行かれても、どういった方々が集まってこられても、全員が師の教え、生き様を通して熱心に学ぶことができる。捉われを捨て去り、全体から見ることが重要であり、「断片的」でいくと、怯え、怖れ、不安、捉われ、自己中心、「全体」で行くと、包み込む、受け容れる、深い愛情へと繋がり、全体から見て、今をどのように見るか、捉えるかが重要であるということを改めて気づかせていただく機会をいただきました。「気づく」「気づかせる」。まだまだ勉強が足らない、勉強が足らないということは愛情が足らないということ。宇城先生の言われる勉強するとは、何に生命を燃焼させるかにあると気づかせていただきました。どこまでいっても止まることなく、終わることなく精進して参ります。
●中学校 山口 30代 男性 SA
「全体」と「断片化」というお話がありました。先生はそれを一本の木(全体)と、木材で組み立てられた家(断片化)のようなものであると例を示してくださいました。水の入ったペットボトル(キャップの方)を両手にそれぞれ持ち、下の部分を別の人が指で動かす検証がありました。気を通すと動かなくなり、ペットボトルを持っていた人は簡単に複数の連なった列の人達を投げることができました。また、その気が通されたペットボトルを別の人に渡すと、エネルギーが瞬時に、脚から地面へと抜けるように伝わり、それを複数人で腰をもって支えても、一気に崩されていきました。
このような事実を目の当たりにしたとき、首をかしげたり、素直にその事実を受け入れない姿勢を、先生は「それが断片化しているということ。」と仰っていました。検証時、先生から「話を聞いていない」「無意識のところで思いやりがない。」とご指摘いただきました。自分では聞いているつもりでも、聞いていない。相手を思いやっているつもりで、そのような行動ができていない。このような素晴らしい体験をさせていただいている中でも、気付かないところで、その膨大な情報量と素晴らしいエネルギーを、自分自身が劣化しているゆえにそれらを感じる力が乏しくなっている、これは自分では絶対に気付くことができなかったことであり、先生にこの度ご指摘いただいて、自分の現状を知ることができたのは、本当にありがく幸せなことでした。まさに断片化している自分を感じた瞬間でした。
懇親会の席で塾生の方のご挨拶の中に「ベルリン空手セミナーでの13歳の感想が印象に残っています」とのお話がありました。その後早速自分でも読み返してみました。読んでみてその少年は、先生が示された事実をそのまま全身で受け取っている様子が伝わってきました。この雰囲気の違いが、先生が仰った「全体」と「断片化」、「統一体」と「部分体」そのものであると感じました。普段から学校という場で子どもと接しております。子ども達は本来、先生がご教示されている通り、1本の木のように、生命とエネルギーに満ちあふれているはずですが、実際はそのような姿を引き出すことができておりません。制度やしがらみ、欲や虚構にまみれ、自分自身を見失い、劣化の一途をたどっている大人によって知らず知らずの内にその悪影響を受けているからであり、自分自身もその一人となってしまっています。その中で、教師という仕事をさせていただいている。先生の元で、教師塾で学び続けさせていただいている意味、そして自分が何をしなければならないのかを考え、実行しなければと塾後感じました。高校生の自殺が増え続けていることは、本当に異常な事態だと思います。生徒と接していても、エネルギーや元気が無く、心配な子がいつもどこかにいます。そんな状況の中、子どもを守り、育てることができるのか。今の仕事のレベルは、ただやらなければならないことを少しでも早くこなすことばかりでした。それではいけません。それはただやっているだけでスピードも何もなく、ただただ時間のみが過ぎていく在り方だと気付かせていただきました。
ご講義の中で、深海魚のビジネスをこれまで誰も発想だにしなかった方法で成立させた女性のお話を先生がご紹介くださいました。「今の学校教育ではこのような人材は出ない」と先生は合わせて仰られました。その通りだと思いました。ですが、ここにヒントがあるのではとも感じました。ただ生徒を指導し、言われた形のみで授業をするのではなく、このような在り方を目指していくことが大切であると今考えています。
具体的にどのようにすれば良いのか、まだ何も分かりません。しかし、先生が「全体は全てを包み込んでいるから、断片化しているのを相手にしても問題がない」そして「この体験を身体が覚えているから」と仰られたとき、大きな希望をいただいているのだと痛感致しました。劣化している自分の能力には限界があり、非常に低いレベルであること、それをまだまだ全てはありませんが、少しずつそして確実に受け入れられるようになってきました。しかし、それは先生が示して下さっている先生ご自身の実践とそのお背中、そして「気」による体験や人間の潜在力を感じさせていただているからこそであり、だからこそ今の自分にとどまろうとするのではなく、少しでも前進することが大切であると思っております。自分の頭は分からなくても、この身体は分かっている。この身体が全ての答えをもっている。身体の声に、そして子ども達の声に気付ける自分に少しでも変化していきたいと思います。
宇城先生、この度も貴重なご指導を賜り、誠にありがとうございました。また、教師塾の先生方、この度も本当にありがとうございました。これからも何卒ご指導、ご鞭撻の程、何卒お願い申し上げます。
●私立高等学校 兵庫 40代 男性 TO
宇城先生、ご指導誠にありがとうございました。
全体性、断片化のお話しが、あの講義の後から私の中にずっと残っています。現在高校三年生の担任をしています。大学進学に向けて様々な生徒がいます。本校は一貫校なので大半の生徒は、そのまま付属の大学へ進学します。が、その一方で他大学へチャレンジする生徒もいます。ちょうど現在推薦入試でぽつぽつと合格者が出てきている所です。他クラスでは、その推薦入試の準備の為に学校を欠席する生徒や、合格発表を確認してから学校に遅刻して来る生徒がいます。自クラスでも、合格者が授業に集中していなかったりすることもあります。内部進学希望者で成績的に厳しく、今現在必死に授業を受けて成績を向上させようと努力している生徒、共通テストを受けて一般入試で他大学を目指している生徒もクラスの中にいる中でです。なぜそのようなことが起こっているのか?教員生徒のせいだと思っていましたが、すべての原因は私でした。まさに断片化の私が教員をやっているのですからそうなってしまいます。生徒に申し訳ないとしか言えません。先生が仰るように「教員が誰よりも勉強しないといけない」このことができていない証拠です。頭で考えて答えばかりを求め、身体で示していくことができていない。学年、クラスをこれからどのように導いていくのか?また、どのように気付く気付かせることが大切なのかがはっきりわかりました。生徒に寄り添い、アドバイス一つにしても希望を与えてあげられるような言葉。「進路が決まり、何で集中して授業を受けないといけないんですか?」「受験教科にない教科なのに何で授業中に内職してはいけないんですか?」と言う生徒がいる中で光が見えました。自分は本当に横着で力もありません。自然体にも慣れていませんし魅力もありません。気付いたら忙しい忙しいと思って口にも出してしまっていますし逃げている自分がいます。時間軸が一つの自分。自分には力がありませんと言ってしまっている自分。断片化で物事を考えてしまっている自分。宇城先生に出会わなければこの様なことにも気づくことができませんでした。感謝しかありません。これまでに先生に教えていただいたことを1から振り返り、勉強していきます。ありがとうございました。
●高等学校 奈良 20代 男性 YM
「希望をもてるような学校にしなければならない。」
この言葉がとても印象に残っています。学校に通っている生徒たちが不安をもたず、未来に希望をもって過ごせる場所にすべきだと、気づかされました。しかし私は、生徒のやる気をどのように引き出すか考えた結果、生徒の不安を煽るようなことを話していることが多くあります。前回の教師塾で、宇城先生は「やる気をどのようにして引き出すかが先生の力の見せ所」とおっしゃられていましたが、私がとった手段は逆効果でした。
それではどのようにして生徒のやる気を引き出せばよいか。ずっと考えていましたが、宇城先生からヒントをいただきました。それは、実践の最後にあった「手をかけて」声をかけることです。それだけで声をかけた方は重くなり、持ち上げられません。つまり相手と調和したということです。そのため、同じように手をかけて声をかけられた方も強くなるのではないでしょうか。教師が生徒に手をかけて「最近がんばっているな。」と声をかける、そんな小さな事でも大きな力を引き出すことができるのではないかと思っています。
あれから実際に、生徒に手をかけて声をかけてみました。小テストをいつも白紙で答えていた生徒でしたが、何かしらの答えを書いていました。これだと実感できました。
全体性と断片性、キーワードの一つでした。もともと一つのものを分解して見ることは、今までの学校教育の中で私にも癖づけられてしまったことです。しかし、機械やものは、バラバラに分解しても元に戻る。しかし人間などの生き物は、バラバラに分解すると、二度と元に戻りません。それはなぜか、生き物には心があるからだと思います。心と身体が繋がっていることは今までの実践等でも体験してきたことです。腕だけ、足だけ、身体を分けることは心を分けること。心を一つにしないと人間の力が出せないことと同じです。
そのように分けて考える癖をとらなければなりません。今まで20年近くの生活で染みついたものを削ぎ落とし、子どもの頃のような素直な心をもつこと。その心をもって生徒に接することで、生徒が希望をもって生きていけるのではないかと思います。
この度は、教師塾でのご指導ありがとうございました。教師塾で学んだことをすぐ教室で実践していきたいと思います。
●中学校 奈良 30代 男性 HY
私はこの4月から教師塾にて宇城憲治先生や他の塾生の皆様から学ばせていただくようになりました。4月から今日までの期間に自分の中で起こっている劇的とも言える変化にただただ驚くばかりです。
昨日のご指導の中で「子供たちに将来への希望を与えてあげなければいけない」というお話がありました。4月から9月頃にかけて自分自身、希望を見失い苦しい期間がありました。目の前で接している生徒たちが「元気がない」「イライラしている」「追い込まれている」「苦しそう」「だらだらしている」「姿勢が崩れて聞けない」「自分勝手」そんな事実がありました。自分の学級・部活動の生徒だけでなく学校全体から負のエネルギー・空気を感じていました。今思えば宇城憲治先生に学ばせていただくことによって、空気を感じる・観えるようにしていただいているのだと感じます。そういった空気を感じながらも子供たちにエネルギーを与えたり、導いたり、正したりすることができない自分自身の実力のなさを突き付けられました。何かいいようのない孤独感を感じていました。以前の私であれば「元気がない」「だらだらしている」「自分勝手」そんな目に見える様子ばかり目につき、腹を立て・叱ることばかりだったと思います。それだけでなく子供を否定し「あいつはアカンわ」と文句を言っていたかもしれません。まさに今回のご指導にあった「断片的」だったと思います。
しかし、「調和融合」「愛情が基盤」「寄り添う」「思いやる」ことを実証を持ってご指導いただけたことにより、寄り添い続ける、決して否定しないという覚悟を持つことができました。そうやって日々向き合っていると今度は生徒たちが抱えている「しんどさ」がどこから来ているのかがなんとなく感じられるようになってきました。受験や成績などの数字で競争をあおられている子、勝利至上主義や競技技能重視、トップダウンによる管理体制の部活動に希望を持てていない子、家庭や友人関係でのしんどさを自分の中にため込んでしまう、相談してはならない・良い子でなければならない・人に迷惑をかけてはならないと大人によって早く大人にされてしまっている子などそれぞれが抱えているものがありました。大人不信になってしまっている子も少なくありません。そういったことが観えるようになると自然と生徒達とのかかわり方も変わり始めました。「上から目線で子供たちを引き上げてやる」ではなく「同じ目線から一緒に進んでいく」言葉にすればこのような感覚です。「進化は深化」だとご指導いただきましたが、こういうことなのかなと感じています。そのような考えにさせていただけたこと本当に感謝しかありません。ふと気付くと私のところに悩みを相談しに来る生徒・しんどさを話しに来る生徒・とりあえずちょっかいをかけてくる生徒が増えていました。まだまだしんどい顔をしている場面や生徒もいますが、徐々に笑顔・元気・エネルギーが沸いてきているのかなと思います。そういえば私自身の表情も笑顔が増えエネルギーが沸いてきています。教師にとっては生徒の笑顔は何よりのガソリンだなと本当にそう思います。
このように4月から歩んできていましたので、今回の宇城憲治先生のお話は本当に心にしみました。教育とは何なのか、教師には何が求められているのかを改めて考えさせていただきました。その道がぼんやりと見えて来たことにより私自身に希望が湧いてまいりました。そして目の前の子供たちに希望を与えられる大人になりたいと強く思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
●私立中学校・高等学校 京都 30代 女性 AT
宇城先生、教師塾でのご指導ありがとうございました。教育は子ども達に希望を与えるものでなければならない。宇城先生がいつもおっしゃっているお言葉が、いつも以上に胸に刺さりました。
今、学校教育は断片化され、教育の本質とかけ離れた方向に向かっている気がしてなりません。全体を見渡すことができず、狭い範囲の中で物事を決め続けてきた結果、先を取ることが全くできない現状が生まれています。働き方改革という名の改革により、生徒中心ではなく教員の我欲を先行した改革が行われ、教育者は教育者ではなくなりつつあります。実際に、教師に言われたことをやるだけで自分では考えられない生徒を増やしていることも事実です。観点別評価が始まり、3観点に分けての評価をしなければならなくなったことで、必要以上の課題が生徒に課されるようになりました。評価のために授業をする。評価のために課題を出す。まさに学校教育の断片化が生んだ課題です。その結果、生徒も与えられるのを待ち思考停止となる原因を作ってしまっています。宇城先生が紹介してくださったオーストラリアの無人島で半年過ごした女性のように、自分で仕組みを考えられる生徒を育てるためには、今のような断片的なカリキュラムでは不可能です。テストの点数のためだけに勉強をする生徒、勉強をする意味を自ら考えられない生徒を育てているという違和感に気づけないくらい、私たち教師がアトム化していることに恐怖を感じます。学びに深さを求めるためには、細切れのカリキュラムでは難しいです。広く深く学べるカリキュラムを学校で考え直さなければ手遅れになってしまう。改めてその危機感を持つことができました。
3人組で相手に寄り添うことで強くなるという実践の中で、相手の肩に手をかけることでより強くなりました。ただ声をかけるだけではなく、本当に心から寄り添えば自然とそのような行動になる。まさにこれこそが全体性であり、「手をかける」という言葉の意味を実践で理解できました。困っている人がいれば助ける。とてもシンプルなことなのに、なぜできなくなってしまうのか。寄り添うためには手をかける必要があるにも関わらず、上部だけで寄り添おうとしているからです。困っていることに気づけない、無関心、自分勝手、思いやりがない・・・。断片的にしか物事を捉えられないようになると、不平不満が出始めてしまいます。全体性でいかに物事を捉えるのか。その次元に私たち教育者が辿り着かなければ不幸な子ども達を増やしてしまうと再認識しました。
一人革命。この言葉が私の背中を押してくれています。同じ次元にいるからイライラする。同じ次元にいるから不平不満を口にしたくなる。結局は自分に実力がないということです。組織や仕組みを理由にやらない選択を選んでいる時点で、断片化されています。日本の教育界が変わらなければならない時が来ている。そう思えてなりません。宇城先生に気を通してもらった人はみんな笑顔になり、心の奥底からエネルギーが湧いてくることを体感できます。自分の中に眠っているエネルギーに気づき、自分に自信を持つことができるようになる。そうなることで、自分以外の周りに対する思いやりや気遣い、尊重といったプラスの波動が生まれ、全体が調和されていく。そんな世界の実現のためには教育を変えなければなりません。
宇城先生に学ばせていただいているからこそ、今いる場所を未来の希望を生み出す場所に変えていく責任があります。自分が学んで満足しているだけでは、私利私欲でしかありません。地球に生かされている。だからこそ、全てのものと一体になれる力が本来は全ての人の中にある。宇城先生が与えてくださる希望をもっと周りに繋いでいくためには、自分が変わるしかありません。自分に厳しく、自分の人生を真剣に生きる自分になれるよう、日々精進してまいります。強い意志と軸がなければ、周りと調和できる自分にはなれません。周りで苦しんでいる人がいるのに、何もできない自分の不甲斐なさに、悔しさしかない日々が続いています。たくさんの人の苦しみに気づき、それらを変えられる仕組みを生み出せるように、私にできることは全てやる。そう覚悟を決めて取り組みます。宇城先生のように、たくさんの人を笑顔に変えられる自分になれるように。
いつも本当にありがとうございます。孤独にならず、前を向いて進めるのは宇城先生がいてくださるからです。前を向けば先生が照らしてくださる光が見える。宇城先生の愛にいつも救われています。貴重な学びの機会をいつも本当にありがとうございます。今後ともご指導よろしくお願い致します。
●高等学校 奈良 30代 女性 RM
木は1本からなり全体である。家は資材を寄せ集めて作られ断片的である。断片化を進めることばかりの現代社会。人間は一つの受精卵(細胞)から分裂しすべてをつくりあげる。その事実こそが人間にエネルギーが備わっている最大の実証だと感じました。それなのに、目に見えないものや科学的に説明のつかない=脳で理解できないことは受け入れられない人間を量産している学校教育。頑張れば頑張るほど切り離され(教育)、孤立し(競争)、不安になり(受験勉強)、怯える身体(スポーツ)になっている。教員としての危機感が深まるばかりです。
今回、宇城先生の「生きている」から「生きる」になり、そして「生かされている」ことに気づくことが大切。という言葉がスゥっと染み渡りました。全体を捉える視点がないと、「生かされている」感覚は生まれません。段階を経てその感覚にたどり着くはずなのに、学校教育で断片化を加速させている。自分自身で当てはめてみても、「生きる」の段階だとハッとしました。まだまだ多くのことを見落とし、謙虚さに欠け、自分勝手だと気づきました。この気づきも宇城先生に学ばなければ得られません。宇城先生に気を通されると身体が持ち上がらなくなったり、大勢を動かせたり、手がくっついて離れなかったりします。しかし、やはり自分だけではできないのです。宇城先生に体験させていただいている。決して勘違いしてはならない部分です。だから、学び続ける姿勢が必要です。教師塾の時間は毎回、多くの事柄が次々と湧いてきますが、そんな時間を生徒に渡せているのだろうかと、自身の実践力・説得力の乏しさを痛感しました。
進学校に転勤して半年が過ぎました。教師塾の先生方とも離れ、一人で実践を重ねていく日々の中で、呼吸法をする度に宇城先生に「護られている」と感じます。これまでに学ばせていただいたあの時既に「今」を護っていただいていたのだと感じます。宇城先生の深い愛情と熱意は、過去・現在・未来に広がっていること実感しています。そのように感じ始められたのは、統一された「身体」を実践や実証を通して伝えてくださったからだと、一つ一つ整理している毎日です。目の前の生徒は学校教育・受験勉強・スポーツ、それからマスクの被害者です。周囲の人間関係や順番・順位に過敏に反応し、引きこもり、定期考査が近づく度に精神科に通う。毎日が不安で堪らないという表情で別室へ入っていきます。コップに入った水が机の端にあると持ち上げられないという実証のまさにその状況が目の前にあります。不安があると行動ができない。今回も相手を叩くと体は軽いけれど、相手に手を当てて声をかけると重たくなるという実証がありました。生徒に愛情を持って接することは自分を強くすることになる証明です。私がこの学校に着任したことが腑に落ちました。できること、やらないといけないこと、やめたいことが山積みです。こうして、「よし、やろう!」という希望が生まれます。まずは一人から。「教師塾の先生方は他の先生と差がでないといけない」激励のお言葉に恥じないよう、日々実践を重ねていきます。
宇城先生、この度もご指導いただき有り難うございました。引き続き、よろしくお願い申し上げます。
●中学校 奈良 40代 男性 MI
今日は、貴重なお話を聞かせて頂き、誠に有難うございます。学校の校務とはいえ、遅れて参加させて頂きまして、申し訳ありませんでした。
先生のお話で、「全体と断片」というお話を聞かせて頂きました。今年の春から勤務先が変わり、「断片的」に考えていることが多いように感じています。私自身もまだまだ断片的に見てしまっているのだと思いますが、全体を見る大事さを感じていました。断片的に見てしまうと、本当に次につながらないですし、今が良ければ良いという気持ちになってしまっています。先生から「先を取る」ことが先につながっていくと教えて頂き、その大事さを理解しているつもりでしたが、まだまだ自分に実力がないんだと毎日痛感しています。どうすればいいのだろうかと日々考え、「道」を読ませていただき、いつもヒントをもらいながら、何とかしていますが、先生に触れさせていただいて、子どもに寄り添う心が本当に大切だと思いました。全体でものを見ることは、子どもたちにも先生方にも希望を与えていくんだと先生のお話を聞かせて頂いて、感じました。私の学校は昔からしんどさを持っている地域で、断片的な見方をしてしまうので、先生も子どもたちも保護者の方もみんな苦しんでしまっているような気がします。全体で見ることが出来れば、仲間意識や連帯感、絆が生まれ、みんなで助け合って生きていくことが出来るのではないかと思いました。
私は学校の中で一人の教員です。何ができるか分かりませんが、私自身が変わり、成長することがこの地域を救うことになればと思っています。この学校では本当に希望が持てないような気がします。子どもたちの希望の光になれるように日々精進していかないといけないと思っています。時間は待ってくれません。危機感を感じていることも事実です。大きな愛情を持つことが子どもたちを守ることになるのではないかと思います。宇城先生にお会いして、大きな愛情で包まれているんだと感じました。先生の教えが少しですが、体の中に残っているので、愛情に気付いたのではないかと思いました。自分にまだまだ実力がないのも子どもたちに接していくことで気付かせてもらえたような気がします。宇城先生は本当に希望を与えて下さるように思います。私自身も希望を与えていけるように努力していきたいと思います。本日は誠に有難うございます。これからもご指導のほど、何卒宜しくお願い致します。
●高等学校 奈良 30代 男性 TN
大変なご多忙の中、水曜日は教師塾でのご指導有難うございました。
現在高校3年生の担任をしており、11/2に高校生として最後の人権HRとして、宇城先生から学ばせて頂いた実践をクラスで体験しました。いくつかの実践を行った中で、嘘の答えを言った時と正しい答えを言った時の強さの変化について、女子生徒の数人が大きな違いを感じることができたようでしたが、ほとんどの生徒が感じ取ることができない様子でした。普段から宇城先生が仰る、教師塾で先生に気を通して頂いた時だけできて、自分では何もできないという事を強く実感しました。一番大切なことを伝えきれないようでは、生徒に申し訳ないと改めて感じた中での教師塾でした。
教師塾での先生のお話を聴かせて頂いている中でも、普段の授業やホームルーム展開の中で、どうしても断片だけを伝えるようになってしまい、言葉を選びながら生徒と向き合っている自分を思い返し、まだまだ学びが必要だと感じました。
日々の忙しさに言い訳をしないように自分に言い聞かせているつもりであっても、教師塾に参加させていただく度に、まだまだどこかで自分に言い訳があり、今以上にできることはあると気付くことができます。また、教師塾で伝えていただいたエネルギーを自分だけではなく、生徒や職場にうつしていけるようにしていきたいと思います。
近頃、教員にエネルギーがないと生徒にも大きな影響を与えてしまうということに、日々実感させられており、危機感を感じております。これからも先生にご教授いただき、生徒によい刺激を与えていけるよう学び続けていただきたいと思います。
今回も教師塾でのご指導有難うございました。
●高等学校教頭 兵庫 50代 男性 MS
宇城先生、教師塾でのご指導ありがとうございました。
先生には、いつも教師として生きていくための指針をいただきます。今回の、現在の教育は断片化しているという話は大いにうなずけるところでした。現実に、部分を大事にしようとすることは、いいことのように見えて、生徒一人ひとりを大切にするようにはなってはいません。先生がよくおっしゃっている、いじめをなくすために、「いじめはいけない」と言うのではなく、「いじめをしない心」を育てるというような発想が国・文科省にはなく、教師が気を付けるべきことが増え、どんどん細分化されていっています。教育委員会からの毎日のたくさんのメールをさばく立場になり、よりそれを感じるようになりました。生徒と触れ合う時間を奪うような仕事を教員にまわさなけらばならないことが多々あり、教員の邪魔をしているように感じることもしばしばです。
今の公教育を、組織を変えないままで何ができるのか。そのヒントをいただけました。「断片を全体で包み込む」という言葉を聞いて、これだ、と思いました。自分のような立場の者こそ、一番生かさないといけないと思います。
懇親会で、勝ってから勝負しないと、という話があり、大いに反省しました。「勝ちは、打って勝つは下の勝ちなり、勝って打つは中の勝ちなり、戦わずして勝つは上の勝ちなり。」何度も何度も先生の口から聞かされた言葉ですが、現実の世界に生かすことも考えられず、一か八かのような交渉事をしてしまっていました。先生のお言葉を生かすにも勉強が必要なことを改めて感じました。
今後ともご指導のほど、よろしくお願い致します。
●高等学校 兵庫 40代 男性 KI
先日の教師塾でのご指導、ありがとうございました。
始まる前から会場に緊張感があり、日常とは違う空気に、自然と背筋が伸びる思いがしました。冒頭のお話から、いかに自分が狭い世界の中で生きているか、そしてその狭い中の常識に捉われているかを感じました。
今、私が担当している学年では、欠席する生徒が多く、登校しても保健室に行きたがる生徒が非常に多い状況です。また、ちょっとした人間関係でつまずいてしまうことも多々あります。このような現状に対し、学年団で話をしてもなかなか答えが見つからず、「エネルギーをつくるにはどうしたらいいか…」というところでストップしてしまいます。行き詰っていた中での今回の教師塾でした。学校の中の常識、学校でしか通用しない常識でいくら考えたところで解決策はみつからないことに気づかせていただきました。「断片と全体」、学習にしても部活動にしても、その世界でしか通用しないことをいくらやっても意味がないにも関わらず、それをずっと繰り返している学校や教師。本質からどんどん離れていってしまっていることをいつもご指摘いただいていますが、今回はいつも以上に強くそのことを感じました。まずは自分が変わることです。忙しい、時間がないという言い訳はせず、全体的な視点をもって学んでいきます。ベクトルを自分に向け、生涯にわたって通用するものを教えられる存在になりたいと思います。
お忙しい中、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。引き続き、ご指導よろしくお願いします。
●私立中学校・高等学校 兵庫 30代 男性 YK
私自身がエネルギー不足に陥っていると感じます。今年1年、すでになんとなく「生きている」状態が続いています。目の前の生徒がいるはずであるのにも関わらず、自身がその流れにただ乗っている。その流れに自ら抗おうとしていない状況となっています。お話にもありましたが、今の自分は「断片」しか見ておらず、「断片」のみの行動に終始してしまっている。何のために、自分は「生かされている」のか、という部分にすらいたっていない状況です。それではいけない。ということについては、なんとなく気づいていたつもりではおりましたが、見て見ぬふりをしていたかもしれません。手当てを打つことなくここまできてしまっておりましたが、宇城先生のお話を受けて、今の自分自身に蓋をしている状況からは脱却しなければと思いました。
また、再三マスクの話もございましたが、まさに今自分自身の「不安」「恐れ」という部分に支配されている状況になっており、宇城先生のお話から、またさらに自分自身の人間の密度の薄さを痛感していた次第であります。
今の自分自身は、人間的にかなり収縮状態にあり、2022年は特にそう感じております。しかしながら、教員が魅力で生徒を引き付ける。そのために、自分自身が、学ばなければならない。今、ただ単に生きている状態ではいけないのだと、自分自身を突き動かす。そんな心を動かすきっかけをいただきました。
今回も、お時間を頂戴し、貴重なお話を誠にありがとうございました。感謝申し上げます。
●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性 KF
今回の教師塾では、「全体性」と「断片化」をキーワードとして実施されました。統一体と部分体とは異なるアプローチにしてもらえたことで、これまでよりもその深さを追求できたような気がしました。科学的のアプローチとして、分析、分類、分解などがありますが、それらはまさに「分けて」考えることで「分かる」につなげる、理解を深めるものです。私はそのアプローチが全体につながる、全体を理解できると信じて疑うことがなかったので、まさに全ての常識がひっくり返ったような衝撃を受けました。断片化されたもの、部分では、それらを集めても、そこに協調関係や相関、調和はなく、統一体、生命体にはならないということがわかりました。そして、部品が一つの物になることはできても、生命体、生物はそこに気の存在があることが大事なのではないかと思いました。また一方で、気がない状態では、断片化されたものが集まった集合体でしかないとも思いました。
検証においても「全体性」「断片化」を踏まえて、いつもよりも自分の感じ方、考え方がどうなっているのかということを思いながら受けていました。改めて、自分自身が断片的に物事を捉えてしまう癖があることを知ると共に、自分の視野、考え方、意識、身体において、統一体になりたいと思いました。
自分も含めて、今の学校全体、あるいは日本全体も、断片的な物事の捉え方を無意識にして、いかにも全体に繋がる、全体を意識しているというポーズをとっているのではないかと思いました。次元の違いもあり、自分自身がなかなか部分、そして部分の集合から抜け出せないかもしれませんが、その部分の集合を超越した全体性というものを目指し、自分磨きをしていきたいと思いました。今回も貴重な学びの機会をいただきました。ありがとうございました。
●高等学校 三重 30代 男性 HT
この度もたくさんの気づきをいただけるご指導、誠にありがとうございました。2時間という時間があっという間に過ぎ去っていく感覚、時間の伸び縮み、空気の流れが変化する様子、時空や重力との調和・融合、身体で細胞で感じさせていただきました。宇城先生から発せられるお言葉には、愛があり心の細胞にまで響きわたります。毎日身の回りで起こることが、本当にちっぽけなことで、悩んでも仕方がないことだということにあらためて気が付かせていただけます。この教師塾で本当の生き方を教えていただいておりますこと感謝申し上げます。
生徒にかける温かい心ある言葉はかけられた人、かけた人を強くします。逆に心ない言葉やこころない仕草は弱くします。これらは目の前で実証していただきました。子どもたちに関心を持てる、心からの言葉を発する事ができる身体に気が付いたらなっていたと言えるように頭優先の自分から脱皮し、学び続けなくてはいけません。私は言葉先行、知識先行の教育をしています。子ども達が無意識で出来る事をよかれと思って具体的な言葉がけで意識をさせてしまいます。意識をした瞬間に出来ることが出来なくなる。「教えて育てる」詰め込み教育です。心のない教育です。教えて愛情を持って育んでいく。心から寄り添うことが、自分でやってみたいという意欲と自主性につながるのだと思います。一に勉強、二に勉強、三に勉強という謙虚な姿勢がそのように導く教師の魅力になっていくのかと思います。
宇城先生が言われる断片化。断片の集合が全体ではないこと。断片的な物の見方から全体的な物の見方ではなく、より小さい断片的な見方へ移ろうとしている自分がいます。鳥や魚が水や空気に包まれているように人間も気に包まれて生きているはずです。気が枯れはてた状態は心の在り方一つで変わっていくものです。気を発することはできなくても気を取り込む力を付けていきたいと思います。
北朝鮮やロシアやウクライナの問題にもあるように、人間は欲に生き人を支配する生き方ができます。一方で人間として生まれた幸せは何かということを考えながら歩む生き方もできます。生かされている自分とは何なのか。平和とは何なのか。祈り、感謝、覚悟‥。たくさんの気付きをいただきました。深さの縦軸が見えにくい社会だからこそ、寄り添い、大切なものを守る力を。貴重なご指導、誠にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
●中学校 大阪 50代 男性 HS
宇城先生。今回もいろいろとお忙しい中、教師塾のご指導をして頂き、誠に有り難う御座いました。「せっかく教師塾に参加してくれているのだから、他との大きな差をつけていってほしい」と、熱意を持ってご指導頂けますこと、本当に有り難い限りです。
さて、講義では最初に、「全体性と断片化」についてお話しがありました。私の中ではすぐに、「統一体と部分体」と同じこと(イコール)だな…と、思いました。続けてお話しを伺っていると、“要素還元主義”であるとか、科学は断片化したものしか取り扱えない…とのことで、ますます、その思いを深めました。
しかし、今振り返ってみると、それでよかったのかな?…という思いが頭をもたげてきます。後半の実証の中で、Aさんが四つん這いとなり、その下に入っていくようにと、ご指示されたとき、私の中では…「これは、“守る”、“守られる”の検証だな…」と思い、Aさんの下に潜り込んで一度腹這いとなったのですが、さにあらず。私も四つん這いになり、Aさんを支える役目でした。このときの実証では、本当に上からの重みに耐えきれずにつぶされてしまいましたが、つい、自分の考えに引きずられ遅くなっているのではないか…と感じた次第です。
他の方々を見ていると、素直に宇城先生の仰ることを受け取られている方が、自然と実証を示されています。特に、壁を背にして立っている人の手を、宇城先生が気によって壁にくっつくようにすると、その手は壁から離れなくなります。そして、そのエネルギーは伝播し、腰に帯をまわされ複数の人に引っ張られている人が、逆にその人達を引っ張ることが出来ていました。私の場合、以前、(自分にも出来るかな)…と頭の思考が入ってしまい、出来なかったですし、「あっ、また出来なかった」と、そちらに意識が向いてしまいます。しかし、宇城先生から「出来ても出来なくてもよい」と仰って頂けるのが救いです。そのとき、宇城先生と同じ“時空”を生き、私の身体がその時空を体験し、確実にエネルギーを頂けているのです(活人剣)から。
さて、冒頭に記した「全体性と断片化」について。今、思うに…「統一体と部分体」とイコールなのではなく、「全体性と断片化」のわかりやすい1つの例が「統一体と部分体」なのではないか…と、感じています。
宇城先生、これからも何卒宜しくお願い申し上げます。
有り難う御座いました。