2022年 京都宇城教師塾(2022.2.11 ハートピア京都)

●私立 高等学校 兵庫 40代 男性

コロナ禍で教師塾を開催してくださいましてありがとうございます。コロナで人との繋がりが薄くなり、自分自身も殻に閉じこもってしまいがちになっていました。この様な状況で大きな希望とエネルギーをいただきました。

コップに水を入れてテーブルの端ぎりぎりに置いたものを、4人で持ち上げる検証をしていただきました。コップをペットボトルに変えると簡単に持ち上げることができるのに、コップだと水がこぼれるのではと不安になり、持ち上げることができませんでした。「不安」が心にあると力が入らない、身体が動かなくなっていました。実は現在、学校のことで自分の中に大きな不安を抱えています。今回の教師塾でズバリ自分はどうしていかないといけないかを気付かせていただきました。やはり先生には全てを見透かされているな。と感じました。

その不安から行動を起こすことができていない自分。できない理由を考え無理矢理納得させて止まっている自分。知らないうちに愚痴をこぼしている自分。お互いが生徒のためだと思っているにも関わらず摩擦が生まれている現状があります。困っている人がいると大丈夫ですか?と声をかけ人に寄り添うことでコップが置いてある机を持ち上げることができました。自分の中に閉じこもっていて、小さな物の見方しかできていませんでした。勉強不足です。もっと大きな視野で物事を見て、頭で考えるのでなく身体で感じて動く。動けるような身体を日常から作っていく。自分で決めたことをやり通す。弱い自分に負けない。覚悟が足りませんでした。その中でも、偉そうに横着にならず謙虚になり、対立ではなく調和で生きていく。知識ではなく思考を深めるためにもっともっと勉強していく。変化することにビビることなく覚悟を持って生きていく。今の自分や自分の周りは、先生が検証していただいた全く繋がっていない鎖の状態です。自分の責任です。気を通していただきこんな自分でもできる。今からでも遅くはない、変われるんだと勇気をいただきました。

現状維持は退化。自分の周囲を幸せにするために、教師という素晴らしい仕事をさせていただいているからこそ自分に負けずに変化していきます。引き続きご指導よろしくお願い致します。

●私立 中学校・高等学校 京都 30代 男性

午前中の教師塾では『グッドウィルハンティング』映像の一コマをみせいていただきました。そこで、マッド・デイモン(ウィル役)が「知識なんて・・・」「学歴も一流企業で勤めていたとしても人間はきちんと考えていきていかなければ価値がない」などといったセリフにこの名門ハーバード大学の学生は何も言い返す言葉がなかった。この場面をみて、教育は・・・学校は・・・何のためにあるものなのか『本質』を考えるきっかけをいただきました。これまでもご指導いただいてきたように知識・脳・頭で考えると遅く、いついてしまう。気を通していただき統一体で動くとエネルギーがわいてきて速い。内発的衝動をもっと引き出すことが大切で「やってみたい!挑戦してみたい!」という子どもたちに『希望』を示すことが教師の役割だと改めて痛感しました。

本校では、先生のご指導の元、実践を通した学びができないかと模索しながら取り組んでいます。もちろんまだまだ出来ていないことだらけで壁にぶち当たることが多いですが、信じてやり続けることで少しずつその流れが変わりつつあります。昨日先生からコロナの検査体制についての例で日本という国の『仕組み』の在り方についてお話をいただき、結局は「自分さえ」という既得権益を重視し、それが国民に寄り添うどころかますます信頼とは無縁の方向に進んでいっていることを教えていただきました。このように国はもちろんのこと、教育界も含めあらゆるところで同じような『仕組み』になっていることが日本という国の一番の欠点だと気づきました。ここには「政治とカネ」が当然セットであり、1国民が動いたところで何も変わりません。しかし、宇城先生から出来る人が一人いれば、その出来る人をみて次の人も出来るようになる。一人革命の意味と意義を教えていただいています。両手を抑えられても気を通してもらうと前に進むことができる検証みて『一人変われば何かが変わるんだ』と希望の光がみえてきました。当然これは自分自身への『希望』であり、周囲の『希望』でもあります。簡単ではないものの時間がかかったとしても信念をもって「やり続ける」ということ。あの検証をみてわかる通り、手を前に進めていくのもはじめは『じわ~っと』いっているのと同じように、身体は変わっていても目に見える部分の変化は少し遅れてくるようなものではないか感じました。

午後からの最後に人間の間の話をされました。やはり人間は一人よりも二人、多くの仲間の中で生きていく方がいい。当然多くの人間が関われば関わるほど価値観も違い難しいことも出てくる。しかし、気はそれをも包み大きなエネルギーへと変え、昨日の中の言葉でいうなら「生きているけど死んでいる」人たちをも元気にする。そして寄り添うこと。助け合うことの大切さに気づき、それが時空を変えていく宇城先生の実践こそが日本最後の砦となるのだと思う。これしかない。

しかし、現実はウクライナ問題が勃発している中、日本は我関せずオリンピックで「勝った・負けた」のどうでもよい報道しか流さないメディア。それにしか関心のいかない国民。日に日に国民のレベルが下がっていることに気づかない鈍感さに嫌気もさしますが、子どもたちに罪はなく、大人の責任として『希望』あるところをみせなくてはと強く思います。深さを追求していく。垂直水平。塾生が日々学び、日々成長。引き続き、ご指導よろしくお願い致します。

●公立 高等学校 奈良 30代 男性

教師塾に先立って会場を入念に確認され、最高の環境を整えていらっしゃったお姿にまず感激いたしました。教師塾生や受講者に真剣に向き合ってくださっていることに感謝の気持ちでいっぱいです。自立せず思考の浅い国民とそれに見合ったメディアや政治。このままでは国が破滅する。学校が、先生が、教育が、スポーツが駄目にしている。子どもができるのに大人ができない。この国や世界の本流を見て先が見える宇城先生が、自分たちが身体で気づくようにお示しくださっていることは、人間が良くなり、ひいてはそれを取り巻く集団や社会、国、世界が良くなるための本質です。寄り添う、見守る、思いやるといった人と人との間を誠の心をもって大切にすることで、エネルギーが増幅し、連鎖していきます。調和した絆の強さは表面上の繕いを凌駕します。様々な実証を通して身をもって気づかせていただきました。

私は4月から育児休暇を取らせていただきます。家に入って育児家事に専念することは、外に出て仕事をすることとはまた違った大変さがあることを想像し、覚悟を決めていました。その大変さへの新たな挑戦をし、仕事に復帰した暁にはその経験を生徒や職場に還元できたら、という絵空事を思い描いていました。

しかし、私の想像には世間や社会における状況は含まれていませんでした。自分中心の狭い世界の想像に過ぎないもので、浅はかでした。育休を取ることは良く思われていないことは薄々感じていましたが、宇城先生ははっきりとご指摘してくださいました。無収入になるとはいえ、職を失われることはない公務員が、この社会が大変な時期に育休を取ることで、自分や家族や属する組織がどう見られ、その結果何が起こるのか。社会が大変なときに保護者から理解されない。生徒からも信頼されない。周りの教員からも。職場からも。地域からも。学級崩壊を起こす。企業なら帰る場がない。海外なら出産後すぐ復帰。宇城先生は私のことを他人事とせず、私を思ってくださいました。認識も覚悟も甘いことを見抜いておられました。先をとって、見える危険な世界を教えてくださいました。世間知らずで平和ボケで思考が浅い私に向き合ってくださいました。それは否定ではなく、愛でした。

宇城先生からお話を伺っていなければ、何も知らずに壁にぶち当たっていたかもしれませんし、早々に耐えきれなくなったかもしれません。人と人との間を捉え違って、取り返しのつかないことになったかもしれません。制度だ、権利だという姿勢がにじみ出ていたかもしれません。私や家族、クラス、学校を案じて、先をとって、来るべく逆境を教えてくださいました。まだまだ甘いかもしれませんが、立ち向かう覚悟ができました。気概をもって謙虚に強くしなやかに立ち向かって参ります。

●公立 中学校 京都 30代 男性

本日の内容は、私自身への強烈な戒めと勇気を頂く機会になりました。と言いますのも、私は今、公私ともに多くの課題に直面しています。日々そのプレッシャーが不安となって押しつぶされそうな気持ち抱えておりました。また、なんでも一人で抱えて解決しようともがいていました。ですが、解決しようと考えれば考えるほど身動きの取れない自分がおり、行動に移そうとも何一つうまくいかない状況で疲弊するばかりでした。その状況こそ頭で動こうとしている証だと気付きました。そんな自分の状況が生徒にも伝わっているのか、受け持つ学級では今までには見られなかった受験前に不安を感じて休む生徒が続発するといった現象が表れています。その理由が分からずもがいていましたが、今日のご指導された内容で自分こそが元凶であると痛感しました。生徒に不安を与えていたことを反省するばかりです。

今日のご指導をもう一度思い出して、目の前の事象に囚われすぎて身動きが取れずに停滞しているのではなく、今の中に未来は存在することを再認識し、今の試練を今後の成長に繋げていくためにも不安を払拭すべく自分で抱えることなく周りと協調して動いていきます。

●教育委員会事務局 岐阜 40代 男性

あらためて、こうして宇城先生に直接触れ、直に身体で経験できる機会があることに心からの感謝の気持ちでいっぱいです。一方で、それに報いるために自分自身の変革、挑戦(一人革命)に向かって、背筋が伸びる思いです。

まさに先生のおっしゃる「変えようのない組織」に組み込まれてしまっている私は、その変わらない現実を目の当たりにして、呑み込まれ、流され、諦めかけています。私自身の力では到底及ばない大きな動きの中で、一人の理想や思いは何の役にも立たない現実。しかし今回宇城先生は「できあがってしまっている組織はどうせ変わらない」とおっしゃってくださいました。ではどうするのか。空気における1%にも満たないCo2の変化が、地球全体にとてつもなく大きな変動を生み出すように、ちっぽけは私が少しでも変化することでもしかしたら何か生まれるかもしれない。そのための「一人革命」であると。

身の程もわきまえず、組織を変えたい、変えようとすると、実際には自分からは言い訳しか出てこないことにも気づきました。組織のこういうところがダメだ、もっとこうしなければいけない、こうすべきだという批判はできても、それを実行する実力が私にはありません。するとどうなるかというと、自分ではなく別の誰かのせいにし始めるのです。上司が悪い、同僚が悪い、世間が悪い、政治が悪い…。仮にそうであったとしても、自分自身に対して矢印が向かないままでは、何も変わらないどころかますます状況を悪化させていくことになります。思えば、今日本中がこのような状態なのではないかと感じます。

身体化されていない知識、そのことを知らず知識があることだけで、分かった気になり横着してしまう人々。もちろんそれは私を含めて、多くの日本人が抱える思考の癖です。ですが日本人が持つ文化というのは、本来そうではありません。身体で考える、身体が先、身体化されてはじめて自分のものとなる。

結局私自身の力不足なのです。組織がどうこうではない。それを批判したり、変えようとしたりするなどは身の程知らずのことだと思います。そうではなく、自分自身の「一人革命」。その結果がどうなるかは分かりませんが、まずはそこからはじめなければ何もならないと感じます。思えば、「一人革命」にむけたヒントをこれまでたくさん宇城先生に教えていただいてきました。呼吸、立ち方、座り方、ものの持ち方、挨拶、人との接し方…。そして何よりも大きなことは、そうすることで自分の身体や内面にどのような変化があるのかということを経験させていただけることです。宇城先生は子どもについて、「記憶には残らなくても、身体に残る」とおっしゃいます。このことがすごく大切なのだと思うのです。私たちは身体を通して学ばせていただいている。呼吸も、立ち方も、何もかも術義として学ぶのではなく、より本質的なものとして学ぶことができる。感じることができる。だからこそそこに幻想ではない、確かな希望が生まれる…。術義を通して自分の身体に変化を起こす、そしてそれを深めていく。これこそが「学び」そのものなのだと思います。そしてその「学び」こそが「一人革命」なのだと…。

浅はかな自分ですから、今後も流され、呑まれ、右往左往していくことと思います。しかし私の身体には、宇城先生に教えていただいたことが奥深く確かに残っています。少しでも私自身でそこに近づけるよう「一人革命」を重ねていこうと思います。

●公立 中学校・高等学校 大阪 50代 男性

さて、冒頭にNHK『明鏡止水』の未放映分の動画とTBS『探検!ホムンクルス』の一部動画を見せて頂きました。
『明鏡止水』に関しては、“戦わずして勝つ”を示された一番肝となる部分。それが放送されずにカットされた。また、『ホムンクルス』に関しては、宇城先生の説明とは全然異なる大学教授による説明。

「本当に分かっていないよなぁ」と…私自身、第三者の立場(他人事)にいましたが、「(そんな番組が作られるのも)視聴者のレベルの低さに合わせているのだ」…との御指摘。自分事だと気づかせて頂きました。

今回、私にとって最も大きかったのが、前に出させて頂いて体験させて頂いたことです。

挙げた両腕をつかんでもらい、宇城先生の気で投げさせて頂いたあと、投げられた人の足を他の人がうつ伏せになりつかんで繋がっていき、そして、その上にストッパーとなる人が押さえる。その遠く離れた人を投げるという実践。最初、つかまれた自分の腕を動かしても全然だめでした。しかし、宇城先生が仰るように「今の中に“未来“がある」…自分の腕は動かさずに、そうなった(投げた結果の)状態を焦らずに思うだけ。すると、不思議なことにそれが伝わっていき,遠くの人が動きました。本当に貴重な体験をさせて頂きました。その他,多くのことを教えて頂きましたが、その全てを消化するのは、まだまだ出来ません。でも、「生の中の死」,「“刀→刃→忍“と繋がる日本固有の文化」、「“誠”とは“言う”ことが“成る”ということで、宇城先生が好きな言葉“至誠”」などが私の中に印象深く残っています。午後からは、塾生だけでなく、一般の方もいらっしゃったので、“統一体”と“部分体”の違いを分かりやすく示して頂きました。

しかし、そのことに優るとも劣らずに印象深かったのが、宇城先生のぶれないお話です。初心の方もいらっしゃるので,難しいのではないだろうか?…と、私は思ったのですが、我々塾生に語りかけるのと同様に語られるお姿に、宇城先生の“熱量”を感じました。本当に貴重な一日でした。

●公立 高等学校 奈良 40代 男性

私は、物事の「深さ」について考えたこともありませんでした。しかし、宇城先生の学びの輪に加えさせていただき、物事の「深さ」について考えさせられることが多くなりました。限られた時間のなかでの講義で体験させていただく数々の実践を日常に結びつけていくことの大切さを実感するとともに、宇城先生からの学びを日常につなげていくことができない自分がいます。

今回の教師塾においても宇城先生から知識(頭)は何の役にも立たないという内容がありました。感想文を書きながら振り返ってみると、自分にはまだまだ過去の自分の知識のなかで判断しようとする癖があります。学校という組織に囚われ、過去の事象から深みもなく安易に判断するこの癖は、公務員という安定した、平和ボケした身体であることだと思います。部分ではなく全体を捉え、五次元の世界のように過去、現在、未来を包括する身体、身体から湧き出るものに自然と従っていけるように自分を開発しようと思いました。

実践でもありましたが、頭の不安は人間の本来の力をシャットアウトしてしまいます。

頭での行動は肚も落ちない、自分に自信が持てない、中心を持てない、ということを自分自身の日常を振り返り感じます。宇城先生との出会い、宇城先生からの学びがなければこんな感覚も持つことが出来ませんでした。教員(特に公立高校教員)のレベルの低さにも関わらず、来年度も教師塾を開催してくださり本当にありがとうございます。

会場準備から心の在り方、私たちのレベルの低さに気づかせていただき本当にありがとうございます。宇城先生から学び、学校という組織のなかで宇城式を実践していきたいと思います。

●私立 大学教育学部 三重 30代 男性

【心構え】

「物事に対処する心の準備。覚悟。」とある。心構えは見えないが、構えは見える。すなわち、構えを通して心構えが見えるということだ。このような状況の中、開催する立場からするとリスクの方が圧倒的に高い。今回もお忙しい中ご指導いただきました宇城先生においても然りである。そのような中で、なぜこのような場を設けていただいたのか。そこに宇城先生をはじめ多くの方々の想い、心構えを感じさせていただくことができた。一方で、自分自身の心構えはどうだったか。宇城先生には私の構えがどのように映っていたのだろうか。答えは一目瞭然である。自分自身が一番よく分かっている。時間も場所もきちんと整えていただき、いろいろなところに心配りいただいているにも関わらずである。

以前、自分の想ったように面白いように物事が進む時があった。シンクロニシティが毎日のように起こった。それがなぜか。宇城先生がおっしゃられている時空を感じることができたからだ。不思議と今日はこんなことが起こるな、こんなことがありそうだなと思うと、自然とその現象が後から事実としてやってきた。誤魔化さずに自然体で生きていたからだ。自分で流れを止めずに身を任せていたからだ。

一度逃したタイミングは一生戻ってこない。一度ずれたタイミングはなかなか合ってこない。「もう一回」はあり得ない。それが今を生きるということだ。しかし、そこと向き合い、修正していくのもまた自分自身だ。何をやっても上手くいかないことがある。それは人のせい、周りのせいであるわけでなく、間違いなく責任は自分にある。なぜなら自分で流れを止めているからだ。流れに逆らっているからだ。それは自分自身が一番よく分かっている。自分の身体は正直だからだ。それを今回の実践で実証していただいた。電気回路のように、一見繋がっているように見えても、一部が心の灯を消していれば電気(気)は流れない。これは誤魔化しようがない事実である。

今、学ばせていただいている数学の師が私に対して次のように常に日頃言われる。「勉強ばかりしていないで、研究を行いましょう。」高度な数学を研究していくためには、間違いなく多くの知識は必要である。特に、私は知識の量が絶対的に少ないため勉強して知識を増やさなくてはならない。しかし、そのような私に対してでさえ上記のようなことを口酸っぱく言われる。中々その意味が分からなかったが、今回の宇城先生のお話をお聞きしてすっきりした。

◆勉強=知識を増やすこと=人のやったことを自分のものにすること

◆研究=深さを求めること=自分で実践すること

ということだ。すなわち、まず自分で実践し、深めていきなさいというメッセージだということ。人が行ってきたことばかりを追うのでなく、まず自分のオリジナリティを創造していくこと。その過程として間違いなく先人の知恵、知識が必要になってくるときがあるということ。そこで初めて調和が起こるのだということだと。

ある本の中に九〇歳の老人に対するアンケートがあった。「九〇年の人生を振り返って、後悔していることは何か?」というものだった。その中で九〇%以上を占めた答えが「もっと冒険しておけばよかった」だった。

今、九割以上の人が死ぬ前に後悔をされている。そして、そんな社会になっている。では、なぜそのような社会になってしまったのか。人との比較、お金や勝ち負け、結果に縛られ捕らわれ、一番大切な生き方(道)を置いてきぼりにしてしまっているからではないだろうか。

今勤務している大学は神道系の大学であり、神道について学ぶ機会がたくさんある。「日本の神道と、外国の宗教の違いは何か?」その一つに神道には教えがないと言われていた。教えがないとは善悪がないということ。すなわち、良し悪しがないということである。そして、その代わりにあるのが「美しさ」。正しいか間違っているかではなく、美しいかどうかという価値基準。道とは、勝ち負けを競うものではなく、美しさの追求のように思う。

●公立 高等学校 奈良 40代 男性

宇城先生が出演されているTV映像を見せて頂きました。全てにおいて解説から編集まで、本質を探るどころか誰もが納得できる形に合わせているだけの形に、答えありきでTV作成側が持って行っているのだと感じました。TVはそういうものであると言えばそこまでですが、、、。今まで私自身は、世の中の流れに流されたままであったように思います。というよりも流されているかどうかもわからない状況であったと言った方が正しいかもしれませんが、、、。今の状況がどうなのかを考えるための学びも意識も全くなかったからだと思います。しかし宇城先生から学ばせて頂いている中で、世の中の流れがどう向いているのかを感じるようになりました。そして、その流れを見てどうすべきなのかをご指導の中で自分自身に落とし込み、考えるようになりました。今回、愛情や思いについて考えるきっかけを頂きました。人との関わりの中で、真剣に向き合うこと。本当に相手のことを思うこと。何が本当の愛情なのか。そして、自分はどうなのか、、、。バーチャルの勝手に作り出したもしくは自分中心の思いやりや愛情で関わっているのではないかと。その答えは、全て自分の身体が知っているのだと思います。身体に答えがあるなら、人間だれもが持っていることで、本来の人間に立ち戻るということ。邪魔をしているのは何なのか。目先の良し悪し、自分の都合や欲。ますます、人間力が低下していく。大人には出来なくて、子供には出来る。出来る子供の邪魔をするのは大人。それを宇城先生は実証でお示し頂いています。ぶれない、ビビらない身体に近づくために、頭ではなく、身体に細胞に委ねる。自然体でいること。今の自分には最優先で必要なことだと感じています。自分の思考のクセに気づきながらも進むべき方向が見当たらない。不安が襲う、自らを誤魔化す。自分の邪魔をするのは自分。そのような中、宇城先生に希望を、光を照らして頂いた気持ちでいます。

“斬らずして勝つ”は、対峙しているかの状況での真剣な関わり。そのような中でさえ相手への思いを持つことの意味。今の私には到底理解できないのだと思いますが、正解・不正解は別として、思いを馳せたり、探ることはできると思います。そこに行き着くのは、”人”ではなく”人間”であること。

宇城先生からの厳しいお言葉ひとつひとつ、その先にあるもの。その言葉の本当の意味。厳しさと優しさは、対義語ではなく、1つであること。その1つを全てそのまま自らに受け入れることで感じる言葉では言い表せない温かさ、エネルギー。世の中には、比較、勝負、優劣など沢山の対立した状況や思考があります。そこから何が生まれるのか。全てを包み込む魅力を、周りに溶け込む調和をしなやかに身につけること。自分を変化させることができないのに、周囲を変化させることはできない。自分が変わらないのに、周りに変化を求めるのなら、あまりにも自分勝手で傲慢過ぎると思います。周りを変えることが目的ではありませんが、自らが変化することで、周りも共に変化し、その変化の輪が大きくなり、多くの幸せに繋がるのならそんな幸せなことはないと思います。大きな変化ではなく、小さなことから行動に移し変化する。場に対して礼をする。困っている人に声をかける。自分から挨拶をする。あたりまえのことを心がけて、無意識の内に行動している自分がいるところまでになれば、少しの変化だと思います。その少しの変化も積み重ねで、自分にとって大きな変化となる。自分一人で生きていないということに気づき、謙虚になること。まず自らに手間暇かけて精進して参りたいと思います。

●公立 高等学校 三重 30代 男性

このような社会情勢の中、本来の人間の在り方について教えていただき感謝申し上げます。宇城先生から発せられるエネルギーに身体も心も温かくしていただきました。教師になり10年目になります。年齢だけを重ね、傲慢になっていく自分の存在に宇城教師塾に気付かせていただけることが本当にたくさんあります。

私達が教室を最高の場にすることの必要性。身をもって教えてくださりました。私は、ただただ教室を綺麗に使おう、エネルギーを高めようということを言うだけで、真実を伝えきれておりませんでした。何かを言うことで、何かを失う。自然の流れの中で自分の時間が止まり、囚われ、執着していました。その場、その場に応じた空間にすること、しようとする意識、心の在り方の大切さに気付かせていただきました。そのような場で礼儀作法を学ぶ事で心と身体が作られる。口で言うだけの単なる形式的なものではない、別次元のご指導でした。

『礼の力』『寄り添う力』…。頭ではなく身体を通じて行うこと。細胞レベルのスピードが大変なエネルギーを生むこと。頭ではなく無意識に、理屈でもなく、言葉でもないこと。意識では到底、達する事ができないこと。私に出来る事は「出来ておられる宇城先生」という師をうつすしかありません。実証していただき感じたこと、身体で出来た時の感覚を細胞を通じて自分に残るよう精進するしかありません。

私が担当するクラスではコロナウイルスへの不安で欠席した生徒がかなりの数おります。これはコロナのせいでも、家庭のせいでもなく、私が本当の事を伝えきれていない証拠です。力不足以外の何者でもありません。本来の目的とは違うところに大きな力を注ぎ目に見えないものに怯え、負のエネルギーが私自身、そしてクラスや学校中に蔓延しているように感じます。だからこそ、私達にとって正のエネルギーを生みたいと強く思います。

「自分さえ」という自己中心的な在り方ではなく誰かが困っている時に、人に寄り添い、誰かのために何かをするということ。次々と人が投げられていく実証のように鎖のように、教室や学校全体を正のエネルギーが繋がる場にしたいと思います。先ずは自分から、今に集中をして未来に光りを差します。引き続きご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

●私立 大学 大阪 60代 男性

【鎖とは絆である】鎖とは人と人、気が細胞に働きかけて繋がっていくということを実践を通して気づかせていただきました。それは連鎖し、調和し、時空を超えて繋がっていく。「子供は『頑張る』、大人は『真剣』でなければならない」という言葉。頑張るレベルから真剣レベルへ。そう捉えると日常の中での目線や教育(指導)も大きく変化する。頑張るは浅く、真剣を深めることこそが「教師塾」。その深さには師の愛情があり、塾生同士の深い絆が生まれる。そういった自身の生き方こそが子供たちの心を育み、鎖となり絆を生むということ。それこそが「他尊自信」。それを自身が止まる(止める)ことなく日々変化、進化、成長することが「一人革命」。実践の中で、宇城先生に気を通していただくと帯(棒)が伸びたり縮んだり、人の手が伸び縮みする、回転までする。重くも軽くも変化する。場の空間、空気が変わる。実践・体感から、細胞が働きかけることで絆が生まれ、それは硬い直線的なものではなく、伸びたり・縮んだり・回転したりと様々な深さを生み出す。まさに細胞に働きかける。また日常の言葉は単なる言葉ではなく、自身の細胞(生き方)から湧き出るものであり、絆が深ければ深いほど、真剣であればあるほど細胞に働きかける、そしてそれが映っていく。

『死ぬ時が最高』この一言に宇城先生の深さ、生き方、死生観を感じます。まさに気を通して、人としての生き方を我々にお伝えいただけるこういう場があってこそ新たな自分に気づかせていただける事を感じます。「師を持つこと」が大切であるということ。師から学ぶことができる私自身は本当に幸せなことであるが、私の中ではそれを私自身がどのように実践を通して深め、伝えていけるかの責任感・使命感を持つことがこの教師塾の軸(中心)であるように感じております。

それはまさに「生き方」を通してであり、やり方を学ぶのではなく、在り方を通してというところに深さがある。気を通して細胞が細胞に働きかける。人間は、自分の欲や我ばかりが出るとエネルギーが下がり、身体はどんどん弱くなっていく(実践を通して実感)。それを何かで補おうとしている横着な生き方、それは単なる畏れであり、誤魔化しであり、すでにそれを身体は知っている。まさに「身体が先」からも分かる。頭は自分を意識で守ろう、操ろうとしているということが知らず知らずのうちに無意識化されているともいえる。便利になればなるほど手間暇を掛けることが少なくなり、モノを大切にすることも薄くなる。それは人を大切にする、真の愛情をかけることが薄くなっていることにも繋がっている。それはそういった世の中の風潮に流されているだけである、流される自分が弱いのであり、その弱さをスポーツであれば「筋トレ」で補おうとしており、自身を強く見せたり、強くなっていると思いたいだけである。中身がない、スピードが遅い、どんどん自分の幅を狭くし、エネルギーが下がり、細胞が働かなくなっている。頑張ることがどんどん身体を衰えさせているだけではなく、鈍らせている。成長(向上)とは、伸ばすことではなく「変化」すること。伸ばすとは直線的なことだけであるが、変化することは正に「深さ」にある。直線的なことは限界がある、人間は無意識の中で制限に従おうとする弱い心が働く。それが誤魔化しである。深さはどこまでも、言い換えると地球レベルを超え、宇宙のどこまでも続く(無限の世界…終わりがない…始まりもない…捉われがない…無の境地…気の世界)。捉われが自分の変化を止め、呼吸が止まり、心を開くことができず、成長を止めている。気づくとは、何かを身に付けるということ以上に「捉われ」を捨て去ることにある(頭が邪魔をする。実践を通して身体で感じる)、捉われがあるうちはスピードが鈍り、どんどん小さな穴に入り、やがて出ることができないようになる(病気)。それを実践(気)を通してとなると、どんどん広がっていく感覚がある、不思議である。不思議と思っている自分の思考が止まっているということなのか、頭を使えば使うほど、思えば思うほど動かなくなる、遅れる、それを気を通して細胞に働きかけていただくことで、「瞬時」「瞬間」そして「誰もが」…というふうに枠がない中で変化していくことを今回も実感することができる機会をいただいた。「世界…」とは、すべてであり、捉われがない、「誰が…」もない、日本という狭い枠の中に凝り固まっている自分が居る。日本人でありながら、日本の歴史すら大切にしていない、それは日本の歴史を通してしか学ぶことができない。「日本から世界」を見ようとしている自分がまったく逆である。宇城先生は「世界から日本」を見ておられる。だから「日本は?」となる。日本が見える、感じる(この先の日本も見えておられる)。日本が危ないということも世界が中心にあるからこそ分かることである、だからこそ「教育」ということに繋がる。時空を超えるということにも繋がっていく。枠は自分で勝手に決めつけているだけ(思考が止まっている)。それは化学、医学では証明できないこと、宇城先生は常に我々を愛で包み込んでいただいている。それに甘えることは出来ない。師を通しての学びとは、自身から実践すること。まさに「一人革命」とは、ということを実践を通して示していただいている。だから「中心」が大切になる。中心がない大人に教育される子供はエネルギーが下がっていく、何を教えるかではなく、どのように映すかにある。そのための「中心」があると。中心とは真ん中という感覚であったが、大きく広く包み込むという中での中心ということを皆で円になって気を通していただいた時に回転する中で感じた。中心が回るというよりも全体の空気が回り出し中心が強くなっていくのを体感できた。その中心に「師」がいる。こういった体感できる場がないのが今の教育現場である。どのように教えるかではなく、どのように「感化」するかが重要であると改めて気づかせていただいた。

『背筋を伸ばす正座と内面での正座の違い』。午後からの実践講習会に参加されておられた親子を見ていると、背中側から見ていても子供二人の姿と父親の姿が重なった。子供二人が居ると一人ひとりは違うものだが二人とも(親子三人)にこの家庭の中心を見たような気がしました。まさに教えるではなく「映る」であった。小さな子供の後ろ姿がどこか美しく見えた。頑張って座っている正座と自然体で座っている正座はまったく違う。そして何よりもお父さんがそれを黙って見守っておられる。その三人の空間に温かいものを感じた。空気感とは年齢や肩書ではなく「人」の細胞が繋がってつくり出すものだと改めて気づかせていただいた。実践でも子供は素直であり、自然と周りから拍手が沸き上がる空気感を先に創り出していると感じた。「拍手をしましょう」の拍手と、「自然と出てくる拍手」は同じ拍手でも次元が違い、スピードも空気感も違った。子供は親の生き様・生き方を見ている、それによって細胞同士が繋がり合って人間を形成していくのだと感じる。まさに教育の根っこの部分を感じさせていただいた。宇城先生が言われる「見守る」「映る」をこの親子や参加している子供から感じさせていただく機会をいただいた。そして人間の細胞にはすでに何かが宿っていると感じる。その細胞を生かせていないのが我々教育現場にいる大人であり、そこに気づかせていただける場が無いのが現状である。それを「誰かと一緒に」ではなく「一人でも」という肚を持って生きていく必要があると感じます。この場に居ないと感じることができないものがあります。聞いた話ではなくやはり実体験だけが自身の細胞に働きかけると言える。今回そういった機会をいただき、改めて「先を取る」ことの大切さをここから現場で生かしていくべく精進して参ります。誠にありがとうございました。

●公立 中学校 山口 30代 男性

子ども達のもつ潜在力に蓋をしてしまう現代のさまざまなシステムの中、いかにして私たちは子ども達と接していかなければならないのか、また一人の大人として生きていかなければならないのか。気による実証の数々を通して、そんな思いが改めて湧き上がってきました。しかし、何事も自分の狭い知識や常識で捉えてしまおうとしてしまう自分が未だにおり、このような貴重な体験を何とか整理しようと、今も再び歩みを止め、居付いてしまっている自分になってしまっています。

大人のスクラムを崩す子どもの姿、斬る模範を示された先生の御姿を即そのまま写し、同じことをする姿。その素直さ、開かれた心、純粋さなど、それが今の私に足りないもの、そして失ってしまったものです。子ども達の潜在力や調和力、素直さ、心、統一体を失わせたくないと思っても、今の自分では間違いなく、その可能性に蓋をさせてしまいます。このような自分から少しでも早く脱却していく歩みの一歩を進めること、自分を変えること、これを実践していかなければと痛感しています。

先生の御姿を、子ども達のように映すことができる自分になること、そこに歩みを進める一歩の大切さに気づけたことが、私にとっての大きな希望とエネルギーです。今この自分からの脱却を重ねられるよう、これからも日々精進して参ります。

●公立 中学校 京都 30代 男性

先生が我々教師にどういう雰囲気の中でやるべきなのか、真面目では生まれてこないもの。真剣さ、相手のことを思いやる姿勢無くして生まれてこないものがたくさんあることを今日は何より先生に教えていただきました。

今のままでは何をやってもダメだということ、そのことを素直に受け入れること。そうでなくては変わらない。言い訳やできない理由を探す。そんなことは、師を持つものとしてあってはいけないと感じました。それならば宇城先生に学ぶ資格はありません。信頼している師全てを包んで下さる、最高のものを魅せて下さる。そんな方だから私はこの人から学ぼうと決めてここで学んでいる。そこに、私というしょうもない我は邪魔でしかない。弟子なら師が何を思い求めて生きているか、それを考え、追いかけて行くのが私のすべきことだと痛感しました。

今日も沢山のことを教えて頂きましたが、全てはここに考えたことあってのものだと思います。我々教師は理屈で教え頭で教えて満足しています。今日の教えに合ったように。ビールの味は飲まないとわからない。そこで不味いとなった時に人間は飲まない。頭で理解したことは本当の危険や怖さは分からない。だからやってしまう。危険度をあげてると言っても過言ではない。今の教育の危険を教えて頂きました。できることは、自分という中心をしっかりと濃く、強くして行く。そのためにはやはり師を映すことに尽きると思います。全てにおいて大切なのは気配り、気をいかに張り巡らせ周りを安心という空気で包むことです。凄さとはなんなのか、とても深い学びでした。御指導ありがとうございました。

●私立 中学校・高等学校 滋賀 女性

今回もたくさんご指導いただきありがとうございました。いつも以上に内容を整理しながら聞くことができました。「時間は横に進むだけ。時空は空間がある」と聞き、すごく納得しました。そして、実践されているときに「力で無理やり動かそうとせず、そこに倒れる未来をイメージする」と説明をしてくださり、さらに理解度が増しました。指導は、知識だけ教えても意味がない。時間=知識であり、時空=思考の深さである。という内容は、これから指導者として生徒と関わるうえでとても大切なことだと感じました。知識だけ教えるのではなく、思考力を育てるような授業を展開する大切さを感じました。

そして、「弱者を救ったときが人間は一番強くなる」という言葉に感銘を受けました。優しく寄り添うだけで強くなり、みんなで見守るだけで強くなることを、実践を通して証明してくださっている意味が今になってやっとつながりました。生徒との関わりの中で今までのように、寄り添い見守る姿勢を崩さずに続けていこうと思いました。

今年度は、自分を見直す良い1年になりました。配属先が変わり、今までとは違う環境で生活し、新しい出会いがあり、考え方も柔軟になったように思います。自分のやってきたことは間違っていなかったと確信できる部分と、変えなければならない部分とが整理できてきました。この一年を過ごした上で先生のお言葉を聞き、ワクワクしました。時間でしか過ごしていなかった自分がいたことにも気づけました。時空で考えることの大切さや、生徒たちに教えるべきことも少しですがイメージができました。

最後に先生がおっしゃっていた、「仕事は真面目ではいけない。真剣に取り組むもの」という言葉にも深さを感じました。それと同時に「真面目ではいけないのか。」と反省する自分がいました。真面目ではなく真剣と言うことがどういう事なのか、もう少し自分で探していこうと思います。まずは、来年度から保健体育の「定期試験を廃止する」という取り組みに向けて、生徒にとって学びの多い授業や将来に役立つ学びができるように教員で話し合って授業作りをしたいと思います。

●私立 中学校・高等学校 京都 女性

学校は何のために存在するのか。映画の一場面から宇城先生は私たち教員に大きな問いを与えてくださいました。ただ知識を詰め込むだけの教育、偏差値の高い大学を目指すだけの教育では未来に希望はありません。AIにできないこと、人間にしかできないことは、自ら考え、つながり、誰かのために行動することです。いくら高度な知識を持っていても自分で考えてその知識を使えなければ意味がない。そうわかっていながらも、実際はなかなか教育の本質を追求し、変えることができていないという現実も事実です。日本に根付いている学校の仕組みをどう変えていけるのか。まさにそれこそが私たち教師塾生が挑戦しなければならないことだと痛感しました。

宇城先生が前に立ち、指導をしてくださる。その指導を受けることで気がみなぎり、自分もできるんだ!というエネルギーが溢れてくる。宇城先生が太陽となり、わたしたちを照らしてくださることで、その場所は一気にあたたかくエネルギー満ちた場所へと変化をしていきます。変化をした人がまた次の人とつながることで、その変化は広がり・・・というように、人と人のつながりの中でエネルギーが連鎖をしていくということを実践を通して先生は教えてくださいました。困っている人がいたら助ける。そうすると助けた方だけではなく、助けられた人も強くなる。思いやり、助け合いの連鎖をつないでいくためには「自分だけは」という思いを捨て、大きな愛で相手と寄り添うことが必要です。教師はすぐに「自分がなんとかしてあげなければ」と自分を押し付けてしまいますが、午後からの実践でもあった様に、子どもたちの身体は正解を知っています。子どもたちの可能性を引き出すためには自我を捨て、相手と寄り添うことを意識しなければ子どもたちの未来の希望を奪ってしまう可能性があるということを忘れてはいけいと先生は教えて下さいました。

また、コップを載せた机だと不安で持ち上がらないという実践からもわかるように、常に深さを追い求める生き方をしなければ、教師としてだけではなく、人としても大切なことに気づけずに一生を終えてしまうということも教えていくださいました。不安になり、思考停止し、行動を止めてしまうのではなく、自分の中に眠っている可能性を信じ、前に進んでいきたい。そのためにもまずは自分への甘さを捨て、覚悟を決めること。腹を据えること。人の批判ではなく、自分に集中をすることを意識して実践していきます。

宇城先生がおっしゃるように、死ぬ時が最高となる生き方のためには、常に学び、常に探究し、常に今を真剣に生きなければあり得ない生き方です。自分の視野を広げ、世の中にもっと目を向けること。もっともっと勉強をすることが必要です。いつも宇城先生はお会いするたびにスピードを上げて進まれているのに対し、自分はどうなのか。そう気付かせていただける師の存在に心から感謝いたします。

対立ではなく協調でもなく調和する。今いる場所で、自分にできる限りのことを実践して参ります。自分と関わる人たちを幸せにすることができれば、幸せの連鎖は広がっていきます。どれだけ思いを持っていても、それが和となり広がっていかなければ意味がありません。人は魅力で人を惹きつける。確かに魅力がある人の周りには自然と和ができるなと日々実感しています。学校という現場でいかに和を大きくしていけるのか。そのことと向き合いながら実践を続けていきます。引き続きご指導よろしくお願いします。

●公立 高等学校 奈良 女性

宇城先生の実証を「脳が起こしているもの」とし、先生は相手の脳をコントロールしていると結論付けた映像。実際に先生の実証を繰り返し体験・体感している私には、その映像は、目の前で起こる事象に対し、説明がつくということで「安心」を獲得しようとしているように見えました。説明のつかない境地を見せられ、怯えているのか。また、面白おかしく「見せる」ことだけに執着し、真実は度外視。本質を見抜けない、感じる器官も持ち合わせていない集団=大人。別の映像で、最も重要な「間を制し、先を捉える」ことを体現されているシーンをカットする。その撮影現場の実情も知らぬまま、流された情報を知識として鵜呑みにし、感情のみで右往左往する私たち視聴者。損・得、勝ち・負け、好き・嫌いなどの極端で浅い思考を行ったり来たりする病気です。ですが、この病気を多くの国民に発信することが視聴者のニーズなので、民放が成り立っています。「非常に危険な状態ですよ!」そのようなことを、一体だれが教えてくれたでしょうか。宇城先生とお会いするまで、世の中、社会、世界のことなど氷山の一角どころか、一欠片ほどしか知りませんでした。ましてや教師である私たち、ましてや世の中の移り変わる情勢や生きていき方を学ぶ保健を担当する私が、この始末。宇城先生の存在そのものが、光であり希望であり太陽です。体験していることが起こっている事象の結果。頭で解釈できないことはあり得ないものとして蓋をする。未知なことだらけなのに。目の前ではなくどうしてもタイムラグができてしまうメディア(情報媒体)と宇城先生のなさっている実証とでは、重なることはあり得ない。スピード感・次元・レベルにおいて、追いつくことはあり得ないのです。だからこそ、我々宇城先生に学ぶ者がそれぞれの空間で実践し、広がっていくことしかないのです。

「グッド・ウィル・ハンティング」の動画から、思考の深さについて考えました。私には圧倒的に深さが足りません。謙虚でない証拠です。自分中心で繋がるもの切ってしまう身体であることをこの度も宇城先生にご指摘いただきました。初めて参加させていただいた時と同じご指摘に、自分の停滞・後退を痛感いたしました。ですが、すぐにやる気に変わりました。先生は身体でできることを常にお示しされているからです。不安があれば行動できなくなることも、気が通っていれば、他者に寄り添う行動をすれば不安があっても行動できることも、すべて言葉ではなく「やって見せる」方法で伝えてくださいます。「気づく・気づかせる」指導。身体での学びは非常に心地が良く、学び以外のなにかもあふれ出てくる。その時の感じた気(エネルギー)が波動となり、広がりながら未来を捉える。先生の「今の中に未来がある」というお言葉が思い出されました。では、それをできるのか。

  世界を、真実を見せないメディアのなかで、知ろうとしていないのは自分。
  学びや思考の深さを追求しないのは自分。
  人間の「間」をとらえられていないのは自分。
  行動に移せない身体をつくっているのは自分。

自分が変われば、周囲は変わります。子どもは変わります。小さな世間が変わります。「今」に「過去」を巻き込んで「未来」を見つけていきます。

●公立 中学校 奈良 40代 男性

今回は、頭で考える癖は本当に治らないんだと思いました。先生が「教員は言い訳を上手にする」と仰っていましたが、本当にその通りだと思いました。私は勉強不足で、言葉で上手く説明できないのですが、学校の会議でも「何を言いたいのか、分からない」「いい事を言っているように思うけど、何か違う」と感じることが多く、中心がずれている?立場が違う?そんな風に感じることが多かったのですが、先生の話を聞かせて頂くと、みんなのことは考えてないんだな、また生徒や周りの人に寄り添って、愛情を持った行動ではないんだなと思いました。時空は過去も未来もつながっていくことを教えて頂きました。宇城先生に気を通していただき、投げられた人につかんでつながってうつ伏せになっていく。そして、そのうつぶせになった人を上から押さえ、最初に投げた人が離れた人を投げるという実践をして頂きました。最初に投げた人は遠くの人を投げようとしても投げれず、投げた状態を思うだけで、投げれることができました。でもその時に、上にいる人の中でも投げられる人もいれば、投げられない人もいることに電波を感じ取れない人がいるのも事実だと思いました。宇城先生がおっしゃっている頭で考えていると、1%しか使えていないことになっているんだなと思いました。私はどうしても過去の自分から判断をしてしまうことが多く、宇城先生のお話も出来るだけ何も考えずに聞こうと心掛けているのですが、なかなか難しいです。先生がおっしゃっていた「生の中の死」が心に残りました。生と死ではない、生きていくことが死につながり、死を考えることが生につながっていくんだと思いました。私たち教員は世界や社会の状況に疎いように思います。それくらい教育の世界は世間知らずなんだと思います。「未来の先を捉えるから今がある」ということを教えて頂いたのですが、10年先のことを考えて、今何をしないといけないのかを考えて行動していかないといけないなと思いました。私のような実力もなく、平和ボケした身体から脱却し、成長していけるようにしていきたいと思います。そのために実力をしっかりつけて、心から相手に寄り添い、心からの行動を心がけて日々努力、日々精進していきたいと思います。

●私立 中学校・高等学校 京都 30代 男性

「場を創る能力」。今一度、認識しなおす機会をまず、冒頭でいただきました。生徒とかかわっていく中で、生徒たち自身に求めていることが多くありますが、教員自身としても、一つ一つの授業の中、部活指導の中で、その場を「創る」ことを意識しなければならない。その創り方次第で、生徒たちはいかようにも変化することを再認識させていただきました。 

私自身が30代中盤に差し掛かってきて、その中で、自分の感覚として、生徒たちに「何か」を残す、その場を創ることができるのはあと、30年しかないと考えるようになってきています。しかしながら、何か、中盤にさしかかり、安定的・現状維持のようなスタイルに縮こまってきているような感覚もあり、お教えをいただく中で、現状維持は後退に均しいということも実感しているところです。

また、「生の中に死」がある、その中で、最高潮の中で、「死」を迎えるという部分については、以前の教師塾においても、お話を伺っており、印象に残っている部分でありました。私自身、特に30代になってから、「生」と「死」という部分に触れ、考える機会が多くなり、それについて深く悩むようになってきました。その中で、自分がどのように生きるのか、何のために生きるのかを考えることが多くなってきております。その中で、日々、新しい自分を創る。それがまず、自分にできることであるという考え方に少しずつなってきております。

脳で考えて行動しているところと、それ以上に秘めている部分があるということ。そして、我々教員が間違った指導、間違った教えによって、その秘められた部分を押し込めてしまっている部分があることについて、宇城先生にお教えをいただくことによって、じょじょに日々の生徒とのかかわりの中で、自覚的になってきております。

●公立 中学校 奈良 女性

宇城先生のお言葉を聞いて、日頃の自分の考え方を反省しました。最高の状態を作り出す、言い訳は言い訳でしかなく、自分のふがいなさや至らなさを認めていないだけなのだと教えていただきました。少し前に、同じような状況があり、私は言い訳しかしていなかったです。その考え方で、子どもたちか付いてきてくれるのかと思うと、無理だと思います。どのような状況でも、最高の状態を作り出せるよう準備して気を遣っていかなければいけないのだと思います。人は、間と調和していくので、相手と自分の間、全体と自分の間と調和していきたいと思います。先生のお言葉を聞いて、明日から自分を変えていこうと、楽しみになりました。どんなやり方をして、子どもたちに伝えることができるか。今日から実践していきたいです。

お昼からの講演会では、前で体験をさせていただきました。先を取るという感覚はこういうものかな?と頭で考えてしまっていた部分があり、今思うとこれが悪い部分なのだなと思います。しかし、「あ、倒れてる」と思う瞬間があって、その時は腕をつかんでいた方を倒していました。あの瞬間だけは、思い通り動かせるという感覚があって、今更かもしれませんが、これが間を制するということなのかなと思っていました。

子どもたちは、こんな風にたくさんの身体の力を経験して、学んでいくのだと思うと、大人の私たちが邪魔をせず、体験できる場を作り出していかないといけないと感じました。

●公立 高等学校 兵庫 40代 男性

今回一番感じたことは、自分自身に実力が無いと何もできないということです。一度できた人が見守るだけでできるようになるという実践がありましたが、今の自分では生徒を見守ることさえできません。不安があると本来の力が発揮できないという実践もありましたが、生徒たちが不安では無く自信を持って取り組むことができないのは自分の実力不足。家庭が悪い、学校を理解しない地域が悪い、いろいろなところに原因をもっていっては愚痴をこぼしていた自分が本当に恥ずかしくなりました。他人を変えるのでは無く、自分が変わる。先生の著書のなかで繰り返し書かれている内容ですが、これも頭の理解でしかありませんでした。できなければ意味がない。行動に表れなければ意味がない。このことを、身をもって学ばせていただきました。一日の学びがただの体験にならないよう、日常生活に結びつけていきます。もっと真剣に生きていきます。今後ともよろしくお願いいたします。

●公立 小学校 京都 20代 男性

言い訳をする自分、機転が効かない自分、横着な自分の全てがでた教師塾となりました。教師塾に来る前から、何となく、浮いている自分の存在があり、自分自身で心を閉じているような状態でした。知らず知らずに対立の関係になっており、知らず知らずに、孤立している自分がありました。その部分体である自分が、教師塾の冒頭に全て出てきたと感じます。それに対し、すぐにご指導いただき、ハッと我に帰ると共に、鎖を繋いでいただいたと感じました。講演会中にも、鎖の話がありましたが、自分はその鎖を自ら切ってしまっていると感じました。それは、「無意識に」であり、自分でも「気づかない内に」です。その理由を振り返ってみると、やはり現状に満足している自分がいたからではないかと思います。「現状維持は退化している」。まさに、今の自分は退化していました。そして、頭で考える自分になっていたからだと思います。「思う」と「頭で考える」、とはそれぞれ何か。講演中にも、「頭で考える」とは何かを考えていましたが、それではバーチャルで心なしの状態に陥るのではないかと思います。今の自分には、まだまだわかりません。わかったとしても、現在の自分のステージでの認識です。さらに上のステージがあるにも関わらず、そこで現状に満足してしまうのではないかと思います。

今のままでは、再び鎖を自分の無意識の内に断ち切ってしまうと思います。頭で考えたり、対立したり、横着したりしていると、すぐに切れてしまいます。鎖を切った自分が何をしようとも、うまくいかないことはもちろん、周りにも害を与えてしまうのではないかと感じます。現状を打破するためにも、やはり、師の言葉、姿を必死で追いかけることが、今の自分にとって必要です。居付き、対立、横着は全て師の前ではバレてしまいます。自分では気づかないのだから、それを隠そうとせず、自然体でいること。そのことを胸に、日常を過ごしていきたいと思います。

●公立 高等学校 奈良 20代 男性

実践の中で特に印象に残っていることは、心に不安があると力が出せないということです。生徒達は今、学校生活の中で様々な不安を抱えて過ごしています。家庭での不安、学校での不安、人間関係の不安、将来についての不安、それはさまざまです。私のクラスにも、人間関係の不安を抱えている人がいて、学校から足が遠のいている時がありました。そのときの私は、話を聞くことしかできず、自分の無力さを痛感していました。それは私自身の不安へと繋がり、このままやっていけるのだろかと考えていました。しかし、自分の不安から逃げ、何も行動を起こしていない自分がいました。お腹を痛めている人に大丈夫ですか?と声をかけると強くなる、その実践を見たときに気づきました。私が何も行動に移しておらず、自身の不安を残したままだから、生徒達は不安を感じているのだと。生徒は鏡だと言いますが、私の不安が生徒達に伝わっていたのではないかと思います。良い波動が周りの人に伝わるように、悪い波動も周りに伝わるものなのだと気づきました。

ビールの味の説明がありましたが、小学生のときに似たようなことをたばこで経験しました。友達と学校の帰りにたばこを吸い、不味いと思ってからたばこには苦手意識があります。美味しくないことは周りの話から知ってはいましたが、頭で理解するのと経験するのとでは、感じ方が全然違いました。学校では言葉での説明ばかりしていて、どのように生徒に実感を伴わせるか、課題だと感じています。しかし、経験してからでは遅いときもあります。交通事故を起こして人の命を奪ってから安全運転しても、失われた命は戻ってきません。そのため、言葉での説明が大切なことも間違いないと思います。「百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず」ではありますが、説明だけで一触の価値のあるものを目指さなければならないのかなと思います。

困っている人に声をかける。学生の時はそんなことは当たり前のようにしていたように思います。現状維持は退化と言いますが、現状維持すらできていない。そんな不甲斐ない自分に気づかせていただき、ありがとうございました。

●公立 高等学校 奈良 20代 男性

先生から様々なお話を頂戴して、今の自分を改めなければならないと強く思いました。自分で整理が出来ていない部分があるのですが、本会の教師塾を経て、リーダーについて考えました。

最初は、学校の仕組みを変える方法について考えましたが、具体的な考えがあったとしても今の自分にそれを実行できる力はないと思っています。なぜなら、一般的に「何を言ったか」はもちろん重要だと思いますが、それよりも「誰が」何を言ったかの方がより重要視されているからです。では、その「誰」とは何者なのか、を考えてみると、それは先生が仰るような「人を惹きつけられる魅力」のある人間であるという考えに至りました。まずはそのような人間になるために自分が進化しなければならない。そして、そのような魅力のある人間こそがリーダーになるべきだと思います。

ここで学校に目を向けてみると、例えば、担任はそのクラスのリーダーであると思います。私が考えるリーダーは人を惹きつける魅力のある人間です。リーダーには様々な形があると思いますが、今の自分にできることは、私自身が何かに挑戦して、その姿を生徒達に見せることだと思っています。口で説明をするだけの薄い話よりも、実践しているからこそできる濃い話の方が人を惹きつけます。だからこそ今、自分ができることは目標に向かい、その中で自分が得たものを生徒と共有していくことだと思います。そして生徒達が刺激を受けてくれればと思います。教員から始まる良い連鎖を生み出したいです。それが他の教員、生徒、保護者、地域社会へとどんどん波及していけば教育も変わるのではないかと思います。

以上のことを踏まえると、やはり自分自身が勉強をする必要があると思います。机上の勉強だけではなく実践を通して自分が変わらなければならない。殻に閉じこもっていては気付くことができないことがあります。そういったことを体感させていただいている意味で教師塾の場は本当にありがたいと思っています。ただ、気付いただけで止まっていては意味がありません。これを社会に対して還元できて初めて意味をなすと思います。先生はもちろんですが、参加されている皆さんに感謝しながら自分をより良いものにしたいと思います。

●公立 小中学校 奈良 20代 男性

今回の教師塾の中で特に印象に残っていることは、「場」の大切さです。講演の中で最高の場を作るというお話がありました。その話を聞いて、自分自身の授業や部活指導の場面を思い出されました。はたして最高の場で授業を行えているか、部活動についてもです。子どもに教える、子どもと学ぶ場が整っていなければ、学ぶ意欲にもつながらないと感じました。「なぜ、できない」、「なぜ,やらない」という傲慢な態度ではなく、子ども自身が学びたくなるような場所づくりやそういった姿勢を見せていかなくてはいけない、それがあるべき姿であると感じました。先生のお話、実践を体験するたびに、謙虚でなくてはならないと強く感じます。自分にとって都合の悪いことや、指摘などに対して認 められないことも少なからずありますが、そういった意見を真摯に受け止め精進していくこともとても重要であると改めて感じることができました。これからの未来を生きていく子供たちに接する立場として、自分自身を見直し宇城先生から学んだ姿勢を子どもたちに伝えていきたいと思います。

●公立 小中学校 奈良 20代 男性

教師塾では、脳と身体を巨大工場に喩えた話が大変わかりやすかったです。脳は、多くの血液を流す器官としては、非常に大切ですが、それよりも身体中の細胞が良くなるような実践行動を日頃から続けたいと思いました。それから、ビールの味についても、経験に勝るものは無いと感じました。まさに我々が実践の中で学ぶことと同じだと感じました。子どもたちにも本物の体験をさせられるよう取り組みを進めたいと感じます。参加させていただいたことで、非常に元気をもらいました。

●公立 中学校 奈良 20代 男性

今回の教師塾で特に学んだことは、コロナウイルス感染症に対する検査体制の話です。先生が、抗原検査を各自で行い、その結果によってPCR検査を受けるという順番にするとPCR検査の検査数がかなり減ると仰いました。その通りだと思いました。何を優先すべきなのか、何を目的にやるのかなどを考えることが自分にはまだまだ足りないと思いました。自分のためだけでなく、相手の立場に立って考えることはできているようでなかなかできません。教師に必要なスキルであることは明確なので、どんな些細なことでも考えるようにしたいと思います。

もっともっと自分のスキルを上げられるよう、これからも学んでいきたいと思います。

●私立 中学校高等学校 京都 30代 男性

今回、普段の講演会に比べて、多くの一般の方にきていただき、宇城先生から学ぶことで表情が変わっていく様子を見ることができ、本当にうれしかったです。検証をしていく中で、よい空気、空間が成長しているような感覚がありました。そんな中で、同じ学校、学園の先生方とも学ぶことができ、これから共に働いていけると思うと楽しみになりました。  

この間、宇城先生は道塾においても、野球塾においても、教師塾においても、「間」の大切さを教えてくださいました。今回私はボランティアスタッフとして、会場準備の役割をさせていただきました。主に照明音響係になっていましたが、午前中の教師塾において、最初の準備をしつつも、教師塾開始後からは係の仕事を任せてしまいました。そんな中で、宇城先生に照明の明るさについてご指摘をいただきました。役割を与えてもらった以上、プロとして、最高の「間」を創り上げなければならないという言葉が心に残っています。そしてこの時、自分は教室やグラウンドでそれだけの高い意識をもって「間」を創り出そうとしているのかと思いました。またこのことを通して、宇城先生に日々学ばせてもらっているのにも関わらず、それらを自ら自分の生活に落とし込み、実践につなげることができていないことを実感できました。今回、実践講演会の先にある教師塾において、また、参加している教師に対して、厳しく、愛のあるメッセージを宇城先生は私たちに提示してくださったと思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。  

また、この日の宇城先生の言葉の中に、学校(一貫校)には人生を変える経験を望んでいる(成績やテストの点数などではなく)というものがありました。この言葉を聞いたとき、身体中に衝撃が走りました。まさに、中高大一貫校で働いている自分が目指さなければならない本質を改めて、提示してもらえたような気がしました。また、日々の小さな、細かいことにこだわり、視野が狭くなっている自分に対して、警鐘を鳴らしてくださったのではないかと思いました。もっともっと、物事の本質を見つめ、深く考え、実行していきたいという思いと、エネルギーが湧いてきました。子どもたちとまた新たな気持ちで、新しいスタートをしていきたいと思います。  

●公立 中学校 奈良 女性

午前も午後も参加させていただきましたが、いつも以上に時間がはやく過ぎ、別の空間にいるような違和感、つながりや流れの中にあるはずのものが途切れているように感じました。それは普段の生き方の流れであり、無意識の選択の結果です。自分の中心の弱さを、先生のお話を聞かせていただく時間を通して再確認しました。成長は深さであることを、再度心に留めたいと思います。

●公立 高等学校 奈良 30代 男性

今回は是非とも直接先生の実践を体験させて頂くことができ、いつも後方から見て感じるのとは次元の違う感覚を受けることができました。外から見ていると、気が通っている時とそうでない時の違いを、実践を受けている人の表情や反応から察することしかできませんでしたが、中に入ると明らかに違いを感じることができ、言葉では表すことのできない経験をしました。

やはり見ているだけでは駄目だったのだと、これまでを反省する時間でした。宇城先生のおっしゃっていた、ビールの味を言葉で教えることはできないけど、飲んだらすぐに分かるということの通りだと思いました。私は毎回、教師塾でエネルギー頂き、次の教師塾までにエネルギー切れを起こして、早くその日にならないかと待ち望んでいる状況にあります。自分自身でしっかりとエネルギーを持って生徒と接していかなくてはならない中、このような状況に陥っていることに反省しています。自分なりに生徒の前で疲れている表情や態度は、絶対に見せないように心掛けているのですが、おそらく気付いているのでしょう、早く自分の中でエネルギーを持って生徒と接していくことができるように、これからも日々勉強、日々研修を繰り返して、自分の核を持ちたいと思っています。

●公立 高等学校 奈良 50代 男性

先生の時空人間の形成(=調和、操作)、入りに私はただ呆然と固まり自身の狭い視野、居着いた状態(過去から今における日常の自身の身体が露呈)から思考停止になりました。〝何故、動けなかった。何故、気づけなかった。何故、それくらいのことが出来なかったのか。〟「あの時は出来たのに」「そんな筈は」「まさか自分が」。このような見苦しい聞き苦しい言い訳が、後からぐるぐる体内を回ります。平和ぼけしたぬるい環境下では気づけない愚かさ。常日頃が全体をとらえられない部分体である証です。

今回の講義も、まさに「濃厚接触」でありました。宇城式体感(先生の気、正のエネルギーに深く触れさせていただく)によって我々は身体で学ぶ機会とともに細胞を活性化していただいております。出来なかった過去から今、今から出来る未来を身体で体感させていただいております。出来ない、抜け出せないという頭にすり込まれた過去からの今。存在しない今を心の上にのせて広げるというとんでもない先生のご指導。その今を変える。「今、ここ、人」を未来から引っ張る。今の我々を、先から先生の気は包み込んで寄り添い、引き寄せてくださる。ずっとそれをやってくださっています。縦横無尽、自由自在、緩急剛柔。方向性、ベクトルがないのが本来(生来)の人間のあるべき姿。それを目の前でお示し下さる。先生がこの度の講義で見せてくださった最高の学びの場の形成とは、身体の感度が上がるような「間」の形成ということでした。   

教師塾では、特化した集団「教員」にフォーカスを当ててご指導くださるので、我々特有の思考や甘さへの警鐘と打開策をご教示、そして職業病への核心に迫っていただけます。その直後行われた午後からの一般(老若男女、多彩・多様な職業・立場、学びの長短)の方々との学びの場。「人の振り見て我が振り直せ」「見とり稽古」「反面教師」「殷鑑遠からず」。これらを先ず自分(=自他への関心)、他人に気をとられる(=無意識で行っている比較、相対、競争)という捉え方とでは、雲泥の差です。たった「自分が先か、自分が後か(=他人事)の違い」が命取りに。生徒の為、学校の為ではない。自分、自分の実力を養成する。一人革命、稽古照今が深まっていきます。