2021年 京都宇城教師塾( 2021.11.10 ならまちセンター)

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

昨日は、教師塾でのご指導ありがとうございました。また、大変貴重な映像をみせていただき心より感謝致します。ゴスワミ博士との対談からお二人が共感・調和し、お互いが高まっていくのがすごく伝わり、結果新しいものを一緒につくりましょう。という高い次元でのやりとりの一部始終をみせていただき感動致しました。

もう1つの映像は、あたかもそうであるかのように作った映像。当然、作成者側が本質にたどり着いていないのはもちろんですが、2つの映像を比較すると天と地の差があることは歴然としていました。学んでいない。学ばない。ましてや視聴者は、起きている現象だけをみて、ただただ「すごい!」とか「何か仕掛けが」など、その程度でしか事象を見ていない。見ることができない。私自身も宇城先生に出会っていなければ、きっと同じような感想を持っていたことでしょう。そう考えると無知であることの怖さを感じ、だからこそ学び続けなければならい、学ぶことの意義に触れることができました。そう言っているものの、では「今」の自分のレベルはどの程度なのかと言われたら、大した差はないと言われても仕方なのないレベルです。

先生が「差をつけなさい!」と日々おっしゃっていることを胸にとどめ取り組んでいかないと自分自身も同じ目線でしか物事をみることができない人間になってしまうのかもしれません。日本人は、大仏をみて「大きいな~」「いくらだろう」とまさにその思考でしか考えられていない自分があるのは事実です。まだまだ何も出来ない自分は、しばらく先生からのご指導いただかない期間があると気づかないうちに身体も思考も劣化していっていることも今回よくわかりました。「師」の存在の大きさと意味を知ることができました。

自分自身が一歩一歩成長をしていくために「やるべきこと」を昨日お伝えしてくださいました。自分自身を問い続けること。『何のために生きているのか』『何のために教師をしているのか』という『何のために』が本当に大切だと痛感しました。

『戦わずして勝つ。』何度もご指導いただく中で聞いてきたこの言葉。その次元の高さには『自力』あってこそ。当然そのレベルにはいかないものの、相手を受けいれる。寄り添うこと。敵をつくらない。ということは意識してのレベルにはなりますが、心がけることが始まりかと。また「自力」をつけるためには、常に「先をとること」その積み重ねでしかないこと。それは日常の中に、そして自分の中に答えがあること。そのことと向き合うことで進歩・成長を体現していくこと。より今までよりご指導いただいていることが鮮明に、身体に入ってくるような感覚になりました。

二人組で二の腕を掴み、相手を投げる。投げられた方がまた投げる。そこには「勝った負けた」という概念はなく、生と死という次元からみればスポーツでの「勝ち負け」など何の意味もなさない。そこに何もないということに気づき、自分との向き合うところに教育も含めてもっていかないと日本の先はもうないと感じました。教育に関わるものとしてやらなくてはいけないこと山ほどあること。先が見えるからこそより「深さを追求していく」日々学び、日々成長。引き続き、ご指導よろしくお願い致します。

●大学教育学部 三重 30代 男性

ある時から、いつも「これが最後」という気持ちで、人にお逢いしたり、物事に取り組むようになった。

今回の宇城教師塾も、今日で最後になったとしても後悔しないような心構えで参加しようと思っていた。宇城先生とお逢いできるのもこれで最後。皆様と共に学び合うことができるのもこれが最後。そう思えた時に、ほんの一つひとつのことが大切に思えてくる。宇城先生のお話の一言一句。参加者の皆様の些細なお心遣い。ペアで行う実技・・・。こんなことを言われたら嫌だなとか、どう思われるだろうかとかそんな負の感情は一切なかった。すべて私に対する愛のあるメッセージに受け取ることができた。

冒頭の宇城先生のお話の中にあった「肚」が大切であるということ痛いほど自分の心に突き刺さった。「肚を決める」ことこそ「今、この瞬間を生きる」ということだと思う。それは言い換えれば、自分自身と向き合うということだ。

今年からご縁があり高等学校から大学へ自分自身の活動の場所を変えた。今まで公務員という安定した仕事から任期三年という先が不透明な仕事に変わった。この教師塾に最初から参加させていただく中で、自分では「分かったつもり」になっていたことがたくさんあることに嫌というほど気付かされた半年だった。宇城先生が何度もおっしゃられていた「実力をつけなければならない」ということがよく分かった。綺麗事では済まされないことがたくさんあることも分かった。自分ではNoと思っていることでも、時にはYesと言わなければならない。Noと言う=クビにつながるからだ。では、そこで自分を発揮するためにはどうすればよいか。それが「実力をつける」ということだ。結果を出すことだ。

では、そのための方法論はどこにあるのか。書店でたくさん出ているノウハウ論の本を読めばいいのか。そうではない。すべて「自分自身」の中に答えはある。今までどれだけ分かったふりをしてきたか、できたつもりになっていたのか。でもたくさん遠回りをしてきた分、今年になりハッと光が見えた時はとても嬉しかったのをはっきり覚えている。宇城先生がよくおっしゃられる「社会の仕組み」。それを知って行動するのか、知らずに行動するのかで全くその後の受け入れ方にも違いがあることも経験した。すべての今までの学びが、点と点が線になる瞬間が間違いなくあった。宇城先生をはじめ多くの方がおっしゃられる「スピードが遅い」という自分にようやく気付くことができた。

今、昨年のように安定しているかと言われればそうではない。しかし、昨年以上に「よしっ」という気持ちになれることはたくさんある。相手との比較や勝負ではなく、今までの自分や今の自分との比較しながら、自分自身と向き合える時間がたくさんできたように思える。だからこそ、とことん自分自身の可能性にチャレンジしたいと思っている。

今回の教師塾においても、宇城先生からたくさんのメッセージをいただいた。宇城先生は我々に同じ言葉を発せられたり、同じ映像を見せていただいたり、実証・検証していただく機会をいただくが、大切なのは受け取り側のレベルの問題である。その人その人のレベルに応じたものしか受け取ることができない。だからこそ自分自身のレベルを上げていくしか方法はない。自分のレベルが上がれば、同じ時間で何倍ものスピードで宇城先生から愛のあるメッセージが受け取ることができるはずである。要は自分自身が大事であるということだ。

そんな大切なことに気付かせていただけるのはこの宇城教師塾しかないように思う。宇城先生が最後におっしゃられた「今日は良かった」というお言葉。それは、きっと宇城先生と我々塾生の想い・姿勢が繋がり事理一致として起こった現象ではないだろうか。

お互いの想いが共鳴し合えばよい空間を創ることができるのは間違いない。しかし、これから出逢うであろう児童・生徒・学生、そしていろんな方々はみんながみんなそんなエネルギーを持っているとは限らない。中には、エネルギーのない人だっているだろう。そんな人に出逢った時、そんな人をも包む込むだけのエネルギーのある人間、温かみのある人間になっていきたいと思う。

●高等学校 奈良 40代 男性

講義のなかで、厳しくも温かいご指摘をいただきました。

自分では「しっかりと聞いている」つもりになっていました。宇城先生のおっしゃる一言、一言を理解しようという気持ちでした。しかし、ご注意いただきました。普通は怒られると気持ちが後ろ向きになったりしますが、先日は不思議なことに御指導いただいてから自分の心が「凛」としていくのを感じました。また、宇城先生のエネルギーが身体の中に入り、自然と姿勢が正されていきました。

「頭で聴く」のではなく、「身体で聴く」を経験させていただいたと感じています。また、自分では気づくことができない自分に気づかせていただける宇城先生のような方に御指導いただけることに感謝しかありません。

心なき日本の教育の答えが今、あらゆるところで良くない形となって出てきていると教えていただきました。宇城先生に学ぶ我々が現場に戻り、心ある日本の教育を取り戻さなければならないと感じます。しかしながら、我々教員は、ぬるま湯の中に浸かり教員であるまえに一人の人間として未熟すぎる、さらには教員だからこその欠陥をいつも教えていただきます。

「自らの身体を通じ、自らの可能性に気づく」そんな教育がしたいです。「身体を通じた学び」とは何か。普段から「どうすればいいねん」と考えていましたが、それは、昨日私が経験させていただいたことかなと思いました。

3つの初心があると教えていただきました。「なぜ教員を目指したのか」、「なぜ宇城先生に学ぶのか」「宇城先生から何を学んでいるのか」知らない世界に気づかせていただいた感動をエネルギーにかえ日常を生きていきます。

とにかくやるしかないです。やるしかない、そんな気持ちにさせていただいて本当にありがとうございます。覚悟をもって日常に送ります。

●高等学校 奈良 30代 男性

今回お話の中で、日本をはじめとする世の中の現状を伝えて頂ける内容が多くありました。率直に感じたことは、お忙しい中、我々のレベルに合わせてのデータの提示や内容、あれだけの情報の量をどのように集められているのか。宇城先生に多くの情報の方が寄ってきているのではないかと感じるほどでした。私は、情報を求めにネットなどで調べ探りに行き、現状を把握するようにはしているのですが、宇城先生は先に先にと進んでおられるので、現状を示す内容ですら、宇城先生の後追いなのかもしれないと感じています。

宇城先生がご提示いただいた内容の中の、「人助けランキング」で日本は大差で世界最下位。自分の感覚とは、違う結果でした。つまり、私自身が内にこもった世間知らずなのだと感じました。過去に日本では、震災などが起きて厳しい環境になっても、配給品の配付時には、順番を抜かすことなく、列に並んでいたり、盗難等も含め暴動が起きなかったりと世界で高く評価されている内容を目にしたことがあります。ただ、それはただ単なる一幕に過ぎず、日本の「おかげさま」といった言葉とは真逆の他に対する感謝がない自己中心の世の中になっているのかと思いました。1ヶ月の間で、見知らぬ人を助けたか、寄付をしたか、ボランティアをしたかという3つの項目が今回の質問内容になっているようですが、頭では「人助けは大切である、募金はやった方がいい、ボランティアは参加すべきだ」であるのかもしれないですが、あくまでも頭だけのことで、行動にうつすことはできていない。きれい事ではなく、行動が心をつくることのスタートなのかもしれないと感じました。

今まで教師塾で学ばせて頂いていますが、まだまだ自分の頭での行動や物の捉え方の思考が抜けきれないことを実感しています。レベルは低くスピードが遅いですが、言い換えれば、頭が邪魔をしていることに気づくことはできるようになりました。宇城先生のお言葉の「進歩成長とは、変化する事である。変化するとは、深さを知る事である。深さを知るとは、謙虚になる事である。」私ごとですが、変化すべき状況である中、現状から変化すること(自分自身の変化)に対して、怖さ・恐れを感じているのが正直なところです。本当の「自信」が自分についていない、頭が邪魔をしていると感じています。そのような自分でありますので、今回の教師塾もそうでしたが、宇城先生の実践の中で、頭ではなく、体でできる感覚が自分の光・希望に感じています。

宇城先生が出演されていたTV番組のお話もございましたが、そこでの分析・解説は、結局だれもが理解できる、納得できるための解説で、逆に言えば世間の理解とのつじつま合わせに過ぎないと感じます。世間の理解に合わす・・・世間が目に見えるもの、科学での証明がないと安心できない状況である中、世間に合わすとそうならざるを得ないのだと思います。だからといって、対立することなく、そのような状況を淡々とお話されていました。もともと体は対立をするようにできていないとのお言葉がありましたので、人間の本来持っているはずのあたりまえの姿勢なのかもしれないと感じています。ただ、現在の人間(私も含めてですが)の身体は、対立ばかりで、その対立の中でどちらが上なのかを争っていることばかりです。その対立がどのような意味があるのか、そこから何が生み出されるのかは何も見えていない(見ようとしない)状況です。

「先を取る」という話がありましたが、剣豪がいた時代は、その「先を取られている」感覚も研ぎ澄まされていたのではないかと思います。「先を取る」凄みと「先を取られている」感覚。もちろん、「先を取られる」ということは、勝ち負けで言えば、負けになります。ただ「先を取られている」感覚がなければ斬られます。きれい事ではなく、家族もいながら生きるという意味がそこにはあったのかと考えます。

世の中の流れの中で「先を取る」こと。電気自動車のお話もありましたが、目先の結果だけでなく、もっと先の結果を見据えないと、流れから乗り遅れます。先頭を走るどころか乗り遅れるのです。また、「先を取られている」という感覚。「流れに乗り遅れている」という感覚さえなければ、行く末は恐ろしい結果になるしかありません。

 かかとをしっかりつけて礼をする。自分が身体でできることを疎かにしない。自分の身体がわかっている。自らの怖さと恐れに対してどうするのか。生徒にどう関わるのか。改めて自分で自分と向き合って参ります。

●中学校 奈良 30代 男性

日本の親切さが世界でも低位置である。このことは障害を持たれている方への支援という面で、少し知っていました。日本人は障害を持たれた方を支援した後、御礼を待つような表情をする。一方、欧米諸国では障害を持つ人が困っていると誰かがサッと支援をし、何事もなかったように去っていくそうです。そのことも私からすればショックだったのですが、あのようにデータで見ると日本人の現状を再認識させられたようで大きな衝撃でした。

実際、学校現場でも色々なことに気がつかない大人も生徒も多いように思います。私は、そのような中、個人的には生徒に強要せず、「一人革命」を続けています。自分が意識することで精一杯で、周りの教師の姿はあまり気にしていませんでしたが、動ける人と動かない人が共存しているように思います。生徒はどうか。最初は気づきが少ないなと感じていましたが、自分が行動している姿を見てくれている者も多いのか、最近は気がつく生徒が一人、二人と私のそばに見られるようになりました。いつも給食の準備を当番でもないのに手伝ってくれる生徒、重い荷物や準備・片付けをさりげなく助けてくれる生徒がいます。教師の姿に生徒が気づき、変化していく。子どもは変化がはやい。そのことを現場で実感している私にしてみれば、今の日本のこのデータを見ると「そこに気づかない大人」の数が多いということなのかと昨日は思いました。思いやりの国日本。自分が信じる国の姿を取り戻すために今自分にできることは何か。高望みせず、見せることを意識せず、さりげなく一人革命。今日からもまた実践していきたいと思います。

宇城先生が教師である私たちに熱心に指導してくださること。今まではありがたいことだと思ってはいましたが、やはり小さな世界で「世界の中の日本」というものを捉えていた気がします。「海外は速い」「日本に対する危機感」この二つが今回の教師塾ではとても強く重く自分の中に残りました。自分一人でも始める勇気。そこに、信じるものを周りに伝え、周りを巻き込む遠心性。私はまだまだ自分のことすらままならない未熟者ですから、「周り」には遠慮がありました。しかし、先生の想いを強く広く伝播させるには信じるものを周りに繋ぐ勇気も必要だと思いました。

●高等学校 奈良 20代 男性

今年の4月から、自分のクラスのことで悩み、自分の力不足を痛感する毎日です。思うように事が運ぶことのほうが少なく、どうすればよいのか分からなかったところです。教師塾での宇城先生のご指導では、私の悩みや考えていることに、いつもドンピシャの答えを見せてくださいました。

最初の対談の映像でありましたが、成長するのは階段状であり、階段を一つ登る前は少し沈むものだと。今の苦悩が階段を登る前の段階ならば、なおさら逃げずに自分と向き合い、ステップアップしたいと思いました。また、生徒が苦しんでいることも、生徒達にとっての成長の兆しなのかもしれません。生徒達に負けずに、成長した姿を教室で見せていきたいと思います。

もちろん、生徒は敵ではありません。まさに敵のいない戦いで、強いて言えば自分との戦いなのかと思います。自分が変わればクラスも変わる。これは、宇城先生が言われる一人革命に通ずるのかなと思いました。

ペアになって、あぐらをかいて相手を投げる、肩を押さえられている中正座して立ち上がる取組をしましたが、それらが終わってからずっと、お腹のあたりに熱いものが溜まっている感じがしていました。熱くなっているものの、不快なものではなく、力が溢れてくる感じです。このまま教室に行き、生徒にこの力を直接伝えられなかったのが残念です。初めての感覚だったのですが、これが宇城先生の気によるものなのかと思いました。今感想文を書いているときも、その感覚が少し残っています。

つくづく、私は恵まれていると感じています。社会に出て学校現場で働き、経験の中で学ぶことはできますが、直接誰かに指導していただく機会はほとんどありません。教師塾に参加させていただいて、宇城先生やほかの先生方に大きなエネルギーをいただけたことを、ありがたく思います。今後とも、よろしくお願いいたします。

●高等学校 奈良 女性

宇城先生とアミット・ゴスワミ博士の対談が季刊「道」に掲載されたのは、2019年1月のNO.199でした。2年経った今回の教師塾で、当時の対談の様子を見させていただいたという事に、学びが深まるタイミングを感じました。発刊された当時の私には、お2人の対談内容は難しく、目で追いかけていただけだった事を思い出しました。ですが、今回動画を拝見し、もう一度NO.199を読み直したい!とすぐに、手に取りました。宇城先生の「気」による数々の実証に「説明」をしてくださるゴスワミ博士のやりとりには、「人の潜在能力を引き出し、幸せへと導く」という、宇城先生の深い愛情がありました。根本的な部分に立ち直り、宇城先生に何を学ぶのかを自身に投げかける機会となりました。

 「開く」ことで衝突が消え「溶け込む」、そこには身体が統一体であることが大前提です。現時点で、私の大きな欠点の1つは、身体での確かめ方、治し方、すなわち型がないことです。ステップを踏んで、自分の中で気の流れをつくるための実践を重ねていきたいと思っています。

  今回の教師塾で宇城先生にご指摘いただいた通り、物事の「流れ」を感じ取らず、その「繋がり」を切ってしまう私です。考える事もせず、能天気に実践にうつす。傲慢でまさに平成生まれの「平和ボケ」だと感じております。2人1組の実証でも、相手の方に変化を感じられるよう持っていってもらっている状態でした。無意識になれておらず、心を開いていない。そこまで目の当たりにしないと気づかないという、重症だなと感じました。教師という職業への虚しさや、変化を嫌う雰囲気に違和感を持ちながらも、その空気の中にいる自分に悩み、考えないようにしていたかもしれません。ですが、「誰かが言わないといけない。それをするのは、師匠の務めでしょう。」先生の一言に、私は救われました。宇城先生にお会いして3年が経ちました。今の姿に未来がある。宇城先生には、既にお見通しかと思いますが、学ばせていただきたいです。

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

ここ最近、周りの教員から、「疲れていますか」「大丈夫」と心配されることが多くあります。自分自身としては、そのような自覚はもちろんなく、今現在起こっていることに向けて、心を燃やしているつもりであったのですが、そのような言葉を多く投げられるたびに、「今、自分って、周りから疲れている。=エネルギー不足って思われているのだろうか」と感じるようにもなってきていますし、実際、エネルギー不足なのだろうと感じています。子どもたちも、特に、担当している生徒たちにもそれが伝染しているのかもしれません。

そのような状態だったため、宇城先生にいつも愛情ある言葉で、叱咤をいただいているのですが、なおさら、今までの自分の至らなさ、エネルギー不足による、負の影響を痛感するとともに、自分が変えなければならないという感覚、心情にさせていただきました。愛情をもって、生徒と接することができれば、確実に生徒も空間は変わる。そして、教員が、旧態依然とするのではなく、進歩、成長を繰り返していくこと、それを見せることが教育なのだと思わせていただきました。

教師塾での時間は、いつも自分の状態を見つめなおし、そして、宇城先生のお言葉から、また、自分を奮い立たせる契機にさせていただいております。

●県教育委員会事務局 岐阜 40代 男性

改めて、教師塾での学びは、道塾とはまた違った学びがあると感じます。貴重な機会をいただき本当にありがとうございます。

すさまじい勢いで変化する社会と、それに対応できない日本。世界から取り残され、滅びゆく国。そんななかで自分はどうあるべきか、何をすべきか。宇城先生のお話をお聞きするたびに、先生がおっしゃる「一人革命」の意味の深さが身に沁みます。私は結局これまでハウツーを得るために学んできたのだと思います。どうすればうまくいくか、どうすれば良い成果や結果を得られるか、どうすれば高い評価を得られるか。なんだかんだ言っても、そういうところに自分の意識があったように思います。学んでいること自体に満足し、格好をつけて、それだけで何かいい結果が得られるのではないかというおめでたい気持ちでいました。

ところが、学校から離れて仕事をしていると、私自身の持っている力が何一つ社会には通用しないことを毎日痛感します。自分の思いや考えだけでは何も変えられない現実。政治や権力の力、それを取り巻く「大衆」の力、そんな「大衆」に紛れ込んで身動きが取れない自分自身。

学校を離れるとき、少しくらいは自分で何かを変えてやろう、動かしてやろうと思っていた横着で世間知らずな自分自身をなぐってやりたい気持ちです。教師塾や道塾のような場がなければ、宇城先生に学ぶ場がなければ、こんな現実にも気づかず、今頃どうなっていたかと思うとぞっとします。学校から離れている今だからこそ、誰のためということではなく、目先の結果や成果のためではなく、私自身のための「一人革命」が問われているのだと思います。

今回のお話の中に、人のエネルギーが低下すると土地のエネルギーも低下するというお話がありました。私は今山村に暮らし、仕事の合間に山の手入れをしていますが、まさにおっしゃる通り、山は荒廃しています。戦後の経済成長期に、山の奥深くに作られた数えきれない砂防ダムなどが、山の水の流れや空気の流れを止め、それによって山全体が荒れていることが良く分かります。昨今土石流などの災害が多発していますが、それは雨量の異常な多さだけが原因ではなく、山が荒廃していることも原因のひとつだそうです。身体の気が止まれば死に体になるように、山も水や空気が止まれば、山全体が死に体になります。かつて山に暮らす人々には、知恵がありました。そのなかで山を生かすことを、身体をとおして知っていたように思います。今は人々には「知識」はあるかもしれませんが、「知恵」がありません。そして謙虚さも心の豊かさも同時に見失っています。

そんななかで正解を求めるのではなく、私自身はどうするのか、どうあるべきなのかを求め、謙虚に学び、心身を練っていきたいと思います。情けない私のことですから、何ができるかはわかりませんし、何もできず野垂れ死にするかもしれません。それでもなお、私の命を何かに使うために…。そのように思います。

教師塾で宇城先生がお話しされる言葉のすべてが私のことを指摘していただいているように感じます。ドキリ・ズキリとすることばかりです。いつも本当にありがとうございます。

●私立中学校・高等学校 京都 女性

競走は勝ち負けを決めてしまう。勝った負けたではなく、戦わずして勝つことが相手を最大に生かした戦い方なのだということを改めて考えさせられる時間でした。

人助けランキングで圧倒的最下位となった日本。心がなく、寄り添えない人が増えていくことでどんどん崩れていってしまっていることにすら気付けていない。

まさに、今自分が置かれている状況でした。頭で考えると遅くなり、結局は全て後追いになってしまう。自分の身体が感じている違和感に対して、すぐに動けなくなってしまっていること。結局は肚が据わっていないだけでした。

身体は知っているのに、自分ではできるかどうかわからずに行動していることがいかに危険か。できる身体があるのに統一体ではなく部分体となってしまっていることに対し、宇城先生はいつも愛あるご指導で気付かせて下さいます。

自分を信じ、前に進めているのか。宇城先生の教えに恥じない自分でいられているのか。心を無くした行動になっていないか。宇城先生という存在が、常に自分の中で背中を押して下さいます。

先生が最後に、「愛を持って学校を変えていくという気持ちがあれば大丈夫だ」とおっしゃってくださった時、自分の中に痞えていたものがストンと落ちました。胸が熱くなりました。

こんなにも大きな愛で包み込んでくださる師がいてくださることが心から幸せです。自分が信じる道をただ進めばいいだけ。そう背中を押していただいたと感じています。

誰か1人でも足の向きが違うと弱いように、その場の空気をどう創り上げていくのかはとても重要なことです。足の向きが違う人がいることに気付くことはもちろん、例えそうであったとしても宇城先生であればそんなことすら関係なくその場の空気を1つに調和していくことができます。対立ではなく調和。相手を生かした戦い方をどうやって実践していけるのか。

まだまだスピードが遅く、未熟な私ですが、頭で考えるのではなく、身体を信じて行動する。真面目にではなく、真剣に行動する。そんな自分であれるよう、一人革命あるのみです。

いつもご指導ありがとうございます。自らが変わることでしか、宇城先生に頂いているご恩は返すことができません。日々勉強の精神を忘れずに、前に進んでいきます。

●高等学校 奈良 30代 男性

冒頭お示しいただいたデータは、日本が世界に後れをとっているのが顕著なもので、中でも人助けランキングで日本が最下位という報告は衝撃的でした。この1ヶ月の間に見知らぬ人を助けたか、寄付をしたか、ボランティアをしたか、という調査を基に作られたランキングであり、それは自分の外に関心があり、行動したかどうかを示したものだと思います。最近、自分のクラスや部活動でも、周囲に無関心で自分本位の行動を見る場面が増えたように感じていました。掃除当番でありながら、自分はほうきで少し掃いただけで他のメンバーが掃除しているのを横目に帰ろうとする。ファールボールが飛んでも自分はキャッチボールをしたまま取りに行こうとしない。今まで見なかったこのような光景が増えてきていることに不安を覚え、どうしたものかと思いあぐねていました。世界的に見ても日本がそういう傾向だということに妙に納得したのと同時にやはり不安を覚えました。外に関心がない、自分本位ということは、今を生きていないということで、先を取るとはほど遠く、当然周囲から遅れをとるのだと思います。日本の国際競争力の低さにも繋がる話だと感じました。

教師塾翌日にクラスで、人助けランキングで日本は何位だと思うか聞いてみました。上位だと思う者が半数、中位が半数弱、下位が3人ほどでした。1位ではないかという生徒も複数おり、この感覚のズレは平和ボケの社会から生まれたものの他ならず、そのクラスを担任している自分に大いに責任があることを痛感しました。自分が示してきたもの、作ってきた雰囲気が今の生徒のあり方に繋がっているはずで、自分のこれまでを反省しました。目先のことしか見てはいないか。視野が狭くないか。思考が浅くないか。思いはあるか。自分は変化し続けていたか。その姿を示していたか。振り返れば至らぬ点ばかりです。これからの社会を担う子どもたちを預かる教師として、自分自身が成長しなければならないと改めて感じました。

組み合っている2人を引き離す実証で、「気」のもつ凄まじいエネルギーを感じさせていただきました。いただいたエネルギーを活力に、自分自身が成長しながら、気概をもって生徒と向き合って参ります。

●高等学校 兵庫 50代 男性

先生のお言葉から、日本という国が待ったなしの状態であることがひしひしと感じられました。

人助けランキングで日本が世界で最下位、という記事について、帰ってから調べたところ、多くの日本人の反応は、外国人が自分たちの基準で決めたものなので、気にする必要はないというものでした。政治にしても、政府が明らかにおかしなことをしているのに、代わりがいないからということで見過ごしている。そして、そのおかしさに気付かない。

その劣化している日本に必要なのは、教育である。宇城先生は、これまでも教育の重要性をたびたび説かれています。そのたびに、「一人革命」をと意気込んで職場に戻りますが、空回りをくり返し、時には周りと衝突しています。今回の講義では、『入る』ということが技術であるとおっしゃいました。『開く』『調和』そして『気』。その根源とするところは、空手であり居合であり、修羅場をくぐって来られた先生の経験であると思います。先生のお言葉を理解するには、理解できる身体が必要であると思います。ゴスワミ博士との対談でも示されていたように、邪魔をするのは頭です。先生のおっしゃっていることを理解しようと、駄目だと言われている頭を使う。頭で考えるよりも行動。先生のおっしゃっていることを本当に理解できるのは「できた自分」を見つけたときであると思います。

仕事の中心が、生徒とよりも他の教員と向き合うことに移っていますが、その中で自分にできることを模索していきたいと思います。

●中学校 大阪 50代 男性

冒頭にゴスワミ博士との対談の映像を見せて頂きました。10月の大阪道塾Bクラスでも見せて頂けましたが、その度に私自身の引っ掛かるところが変わります。前回、この動画を見せて頂いたときは、ゴスワミ博士が「量子物理学が存在しなければ,“気”も存在しなかったと言えるのではないでしょうか」と仰ったので、私は内心「そんなことには関係なく“気”は~不生不滅~存在している。違うよなぁ」と引っ掛かりマイナスの思いを持っていたのですが、今回改めて動画を見せて頂くとニュアンスが違って、量子物理学というアプローチにより“気”に光が当たるようになったというように受け取れ、マイナスの印象ではなくなりました。

そして、今度は、また別のところに引っ掛かってしまいます。ゴスワミ博士が「我々も瞑想などを通して行うプロセスを持っている」と仰っておられましたが、常日頃、宇城先生が瞑想ではダメだと仰っておられますので、失礼乍ら、どこまで解っておられるのかな…と、クエスチョンマークが浮かんで来てしまいました。

ただ、いずれにしても私自身の狭い了見の中でしか理解出来ていないのだと思います。私にはあの対談の真実が見えていないのだろうと思います。その事は宇城先生が出演されたテレビ番組『探検ホムンクルス』でも同じだと思いました。

番組が放映された当時、「Team 4U」主催の講義の中で、宇城先生から「現在、TBSや英国のBBCから取材を受けている」と伺い、また11月の放映後には「先日のテレビ番組(『探検ホムンクルス』)でも“やらせ”と思われる。(一般は)本当のことを見たくない“怖さ”があるのではないか」と仰られ、また、「測定機器の精度も低いし、初めから番組中の大学教授による意図に当てはめようとしている」というようなことを仰っておられたのが印象に残っています。まさに自分の解っている範囲だけで説明しようとする狭い了見。今回、18年前のあの番組の真実を身体で体験させて頂けました。
そして、いがみあっている二人を分けようとする実証。「やめ!」と言って、私も止めに入らせて頂きましたが、全然ダメでした。しかし、そのあとに宇城先生がそばで型を演武されると、簡単に仲裁に入れました。そのエネルギーの格段なる違い。
でも、その違いを(宇城先生曰く)細胞は分かっているのでしょうが、それを自分では認識は出来ていません。

だから、やはり、それが出来る師(宇城先生)の御指導を直接何度も受けさせて頂き、そして、自分が出来る事として「宇城式呼吸法」を日課とし、ゴミを拾い、教室の出入りでは立礼を行う。…以上を意識し、わずかな一歩でも歩んでいきたいと思います。

また、宇城先生が「先に“愛”が出ている」と仰られたのが大変印象に残っています。その愛を我々、教師塾々生に放って下さっている事の有り難さを身に染みて感じました。ときにはやさしく、ときには厳しく導いて下さっている。その明らかな例として、皆の前でSさんに注意を与えるのを、目の当たりにさせて頂きました。当日も、Sさんは会場に一番に駆けつけられ、皆の為に色々と準備をされていました。その“縁の下の力持ち”の御蔭で我々の受講も円滑に行われています。また、講義の中で宇城先生が意図される準備を、Sさんを初め数名の方々が俊敏に動かれます。私などは「あっ!」と思っても、全然動けていません。すごいなぁ…と、思います。

以前に頂いたある方からのメールに「無意識下のことですので、自分ではわかりません。ですから師の存在が必要なのです。時には、『何を叱られているのかもわからない』ことがありますが、そんな有り難い、貴重な、超ハイレベルな指導はいただけません」と記されていましたが、正にその通りだと思いました。ただ、私などはへこんでしまうだけで、宇城先生に近づくのも恐れ多いとなりそうなのですが、講義後すぐにSさんは宇城先生の元へ向かわていたのが、印象的でした。

また、次回、御指導頂けますのを楽しみにしております。

最後に、立礼のときに踵をつける事に触れられ、その事による違いを見せて頂きました。今まで全然知らなかったので、驚きました。ふと、空手の型の「三戦」なども踵をつける“結び立ち”から始まるなぁ~と、思った次第です。

●大学 大阪 60代 男性

今回は冒頭より、改めて「世界」という次元で私たちにご指導いただいている意味を深く感じることができました。世界とは、無限であり、自然界、限界の無い宇宙レベル、細胞レベル。そこに境界はない。すべてが時空の中にある。それが自分の狭い殻に閉じこもり、あたかも正しい教育だと思い込んでいる自分に気づかせていただきました。そんなものではない。止まっている自分がどこかいる。自身が止めているのか。昨年からのコロナ禍のせいにするのではなく、世の中の変化に気づき、世の中の空気を感じ取る。頭では分かっているというのは単なる次元の低い言い訳に過ぎず、自身を誤魔化している生き方に過ぎない。またここ最近の事件や犯罪を見ると、考えられない出来事が余りにも多い。考えられないと思っている自身の次元が低いと感じる。それが現実であると受け止めると、世の中全体のエネルギーが下がっている、間違った方向に向かっていることに気づく。何がそうさせているのか。本来人間一人ひとりには無限のエネルギーがある。それが年齢と共に下がり、頭ばかりが働いて身体が居つく、横着になる、人を傷つける、自分を守ることばかりになっている。人を守ろうとする(包み込む)と身体が強くなると実践を通して気づかせていただいた。世の中全体の空気が非常に不安定になっている気がする。それが一体どういったところに原因があるのか。科学では証明できないことを気を通して実証していただける。こういった場は他のどこにもない。まさに「先を取る」を実践を通して身体で気づかせていただいた。「肚」があるかどうかの根底には「愛」がある。愛こそがエネルギーの源である。それは身体に表れる。人間にはその人から醸し出されるエネルギーがある。理屈ではない。自身のエネルギーを下げているとしたら、その原因は自分自身にある。そこに気づいていないと周りの人のエネルギーまでも下げてしまうことになる。すべての根源は「教育」にある。この教師塾を通して、毎回私の中では「真の教育とは」に気づかせていただいている。教育とは、教え・育むと書く。教えること以上に、「気づく、気づかせる」ことが重要である。しかもそれを、気を通して実践を通して気づかせていただいている。日常を通して自分と向き合うことで、頭ではない身体がそうさせることに気づく。「気は細胞に働きかける」。勉強とは机に向かってだけではなく身体を通して。「読書は頭ではなく身体で」ということを以前言われたことがあり、実際に自身が実践しない限り感じることもできない。感じること自体、スピードが遅いことも実感できる。こういった状況だから…、何人だから…ではなく、「何人でも」「どのような状況でも」。ここに愛があり、肚がある。「他尊自信」とは他人を尊び、自分を信じる。他者と自分。尊ぶと信じる。まさに全てはひとつであり繋がっている。今回の実践の中で、縦に並んだ人を押す場面では、押すのではなく入る。人を押すは衝突(対立)である、空気全体に入る、包み込む。力で押すのは衝突を繰り返しているだけであり「愛で包み込む」とは全く次元が違う。それは頭ではない。ここが今の教育にはない。規則、人の評価、周りの目、自身の立場、そういったところに偏っている。それは自分を守ろうとしているだけであり、怯えているだけである。大人がこれでは子供たちのエネルギーを高めることができない。「先を取る」とは、押す前に分かる、既に決まっている。押すも引くも同じ、その境界もない。身体は分かっている。だから人数の多さではなく「何人でも」となる。すべてにおいて境界、捉われを無くす。対立からは何も生まれない、そして「差をつける」ということ。差をつけるとは相手よりも有利に立つということではない。そういった境界もないレベルが「差」である。自分の中でも差をつける、それが日々勉強するということである。日々、変化し成長し続けるエネルギーを絶やさない。宇城先生が言われる「一に勉強、二に勉強…」がそこにある。まさに一人革命である。だから勝ち負けではないところに行き着く。それこそが「戦わずして勝つは上の勝ちなり」である。また二人の喧嘩を力で離そうとすると逆に三人の対立が生まれた。愛で包み込むと既に離れている、そんな空気に変わった。そして「笑顔」になれる。人が空気を変えることもあるが、空気全体が人を変える、その空気感がずっと残っている。身体で分かる、身体は知っている、それは理屈ではない、肚があるかどうかである。宇城先生その人がいるだけでその場の空気感が全く違う。そういった愛あるエネルギーが人を包み込み、人を笑顔にし、幸せにしていく。そしてお互い様という世の中になればと思う。頭で考える世界と、身体を通しての世界とでは次元が全く違うことを更に深める時間となりました。

●私立中学校・高等学校 京都 女性

今回の教師塾では、改めて実践することの大切さを感じました。先生がおっしゃっている、見せて証明することが教育の現場ではとても効果的だという事が分かりました。

常に教師塾で感じることは、教育の現場で実践を交えた教科指導ができるようになると、授業も面白くなると感じています。特に体育では「保健の授業」が、聞くだけの授業になり工夫できないかと毎時間悩みます。ICTが進む中で、実践することがなくなり動画を見せて終わりになってしまっている自分を反省しました。中学でも高校でも、どうしたら私生活に関連付けながら学べるかを再度考え直したいと思います。今までの授業は、伝えることだけに集中していましたが、教師塾で様々なお話を聞く中でもっと実践的な方法で学べないか。と考えることができるようになりました。ICTの良さと、実践の良さを組み合わせて授業ができたら、私ももっと楽しく授業ができると思いました。

教師塾で教えていただける内容と自分の指導を照らし合わせ、反省できる機会になっています。これからも学びを止めず、社会の変化についていけるようにしたいと思います。

●高等学校 三重 30代 男性

「戦わずして勝つ。」今回のお言葉の中で特に私の心に響きました。その時、その時で置かれている状況のためか、この言葉の感じ方が違います。敵を作らずに仲良くし愛するということ。愛するとは相手を尊重し、許容すること。許容するとは自分の器を大きくすること。自信から他尊が生まれる。このお言葉に希望をいただきました。

宇城教師塾に向かう最中、生徒から「こういう事があったから助けてほしい」と泣きながらの電話がありました。どうしようもできず、話しだけ聞いて「分かった。」と受け止めることしかできませんでした。教えていただいた事を自分が生徒に口で言っても生徒のレベルが上がるわけではない事が最近よく分かります。空気のように私達を包み混んでいる目に見えないエネルギーが希薄になっています。自分達の心の在り方や行動に問題があります。人として義しい事が分かりながら、実行できません。勇気がありません。自信がありません。いかに実践できるかどうか。宇城先生のお話を聞きながら、この生徒の周囲が他尊自信であふれかえる世の中になればと何度も思いました。他人事にせず、自分が変わって、この生徒が今までよりも、もっともっとよい生活が送れるようにしたい。口だけではなく、生き様を見せることができる教員になりたい。強く思います。誰よりも勉強し努力をしなくてはなりません。

人間として軽ければ、生徒はさらに軽くなり劣化をします。呼吸と身体の一致。細胞に働きかけ調和を生み力に変換する。バラバラな細胞を一つに対立から調和へ。その実証を教師塾の最後にやっていただきました。数人で列を作り、一人だけが異なる仕草や動作をすることの弱さ。一人一人の心の持ち方で集団のエネルギーが変化します。そのことを実感させていただき、不安や怯えから逃げるのではなく、自分の心を変えていくことが私には必要であることに気付かせていただきました。ありがとうございました。

●中学校 奈良 女性

全体の指導が終わってから、先生とお話しさせていただいたときに、壁を撫でないのと壁を撫でるのとでは、全く力の入り方が違いました。その前に実践してくださっていた、けんかを止めるのも、壁を撫でるのも、どちらも仲良くする、気をつかう、相手の中に入るということなのかなと感じました。

子どもたちは、まっすぐ進みたいと思っているのに、私たち大人が、色々な評価や頭で考えることをしていることで、子どもたちがまっすぐ進むのを妨げてしまっているのだなと思いました。

私は部分で考えてしまっているのが染みついてしまっており、気を遣っているつもりで、本当は自己満足で行動していたり、流れを分かっておらず言葉の中身を理解していなかったりしていたことが、先生の言葉で分かりました。

いつもたくさんの愛情を有難うございます。私の周りには、私が失礼な行動をしたときに叱ってくださる人がいます。その方からの愛情を蔑ろにしてしまっていたことを気づきました。

私が先生や周りの方かいただいている愛情を、今度は私が与えていけるよう、まっすぐの光がでるようにしていきたいです。まだまだ頭で考えないと思っていても、その時点で考えてしまっていて、横着になってしまっています。覚悟が足りていません。それとなく、うまく波風立てずにいければいいかなと思っていることが多いです。

子どもがまっすぐ進む邪魔をしないために、学びを深めて、伝わっていくような生き方をしたいです。

●小・中学校 奈良 20代 男性

1番印象に残ったことは、未だに勝った負けたの世界を抜けきれない自分に気づいたことだ。現代のスポーツの考えからすると、以前習った剣闘士の話と同じで、切られる=死という世界とは全然違い、現世は生ぬるい世界で、どんどんインスタントに生きる人間が作られていると感じた。

先日、私は校外学習で奈良団扇づくりの体験へと引率した。そこで聞いた話では、自分の道具(小刀)を作ることから修行が始まるとのことだった。奈良団扇づくりの伝統工芸では、13の工程を時間をかけて行うそうだ。夏にできる仕事があれば、冬にしかできない仕事もある。エアコンの温度設定により、常に部屋の温度を一定に保つ。現代と比べると、どうなのか考えてみた。例えば食べ物だと、それぞれの季節の旬の時期があるものの、いつでも食べられるように準備され、夏は浴衣を着る人はいるが、インスタントに作られたプラスチック製のうちわを使用して「夏」を感じている。本当に夏を感じられているのか、と疑問を感じた。かつて清少納言が鋭い感性で感じたそれぞれの季節の時間帯の良さというのは、今を生きる人たちにとって、忘れられているのではないだろうか。

まさに、「今」を生きる人たちが非常に増えたと感じる。その刹那的な瞬間に快楽を覚え、それをひたすら繰り返す生き方。傲慢で自分本位な生き方を繰り返す人間が多ければ多いほど、世の中は悪くなっていく。それを今回の教師塾を受けて感じたことだ。

奈良団扇作りでは、一つ一つの工程に時間をかける。糊でくっつける作業だけでも少なくとも4日はかかるそうだ。私はその4日という時間について、だからこそ良いものが出来上がるのだと感じた。

工場で大量生産されるプラスチック製の団扇にも良い点はある。しかし、そこに気が宿るだろうか。やはり職人が手作りで、作り上げたものにこそ気が宿るのだと思う。

そのように自分の身の回りから見直し、さらなる精進に向けて、日々を過ごし、少しでも魅力のある人間、教師になりたい。そのように気づかされたからこそ、次回の教師塾までに必ず成長して、次の教師塾の日を迎えたい。

●高等学校 奈良 20代 男性

日本人の親切度がどんどん低下しているという情報を知り、大きな衝撃を受けました。またそれと同時に、そのような情報を自分自身が知らないまま過ごしていたことに大きな落胆がありました。まだまだアンテナを張ることができていないのだなと思い知らされました。

今回は宇城先生が以前にも増して、多くのことを言葉にして説明して下さっているように感じました。言葉での説明の後、実践を交えていただき、目の前でヒトの動きが瞬時に変わるのを目の当たりにし、大変分かりやすく感じてしまうのですが、やはり頭での理解で終わってしまっており、いざ自分自身で再現しようにもうまくはいきません。

先生には何度も何度もご指導いただいていながら、どうしても頭で考えている自分がいます。また、このように「頭で考えてはいけない」とまた、頭で考えてしまっています。

毎度毎度、教師塾を終えた瞬間には、宇城先生からいただいたエネルギーによって、心地よく晴れやかな気持ちで帰路につきますが、また次の日の朝、いつもの日常がやってきた時に、その頂いたエネルギーを生徒に向けて返すことができているのか、不安になります。潜在的に自分の中に「できない」の心が残っていると感じます。ただ、こんな自分にも、職場で重い困難を抱え困惑している後輩の教員が隣にいます。その教員に対して如何にして寄り添うことができるのか考え、行動している時は、自分の中で大きな力が湧いてきます。やはりヒトは、自分にしかベクトルが向いていないと、小さな世界に沈んでしまい、多くの人に愛情を向けることで、世界が広がり視野が広がるのだと感じます。

「自分革命」を始めるためには、相当な覚悟をもって研修を進めないといけませんが、それは時間をかけて行うものではなく、今をどう生きるか考え、このままでは日本の教育がどんどん沈んでしまうという目に見えてきている未来に対して、如何にあらがっていくか、ただ衝突しては元も子もないので、表面だけの知識ではなく、まさに教養を身に着けられるように、これからも取り組んでいきたいと思います。

今回の教師塾での受講の最中、自クラスの困っている生徒の顔が複数浮かんできました。生徒への愛を行動へのエネルギーに変換して、今後も進んでいきたいと思います。

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

今回は、宇城先生から久しぶりに学ばせていただき、また道塾、教師塾と2日間連続で受けることができ、心、身体、頭と気がつくことが多くありました。日にちがあいていたからこそ、2日受けた後の心と身体の調子の良さ,変化に気がつくことができました。一方で、コロナ前には今よりもたくさん学ぶ機会がありましたが、それが当たり前のようになっていた自分、甘えていた自分、平和ボケしていた自分に気がつくことができました。

生か死かという選択肢の中で生きる社会の中で、戦わずして勝つということがどういうことなのかというお話、検証がありました。これまでも何度も聞いてきましたが、今回は改めて身体に染み込んでいく感覚がありました。そして、明日収入がなくなるような状況でもなく、すべてが当たり前の中で何の心配もなく生活できている自分、収入においても特に少なくもなく何の心配もなく生きている自分が、思考停止の次元から抜け出せていない理由が分かったような気がしました。死を意識するからこそ思考が始まり、思考した結果、その先に戦わずして勝つ。さらには、勝ち負けのない、相手を活かす、相手を笑顔にする活人剣の次元になると思いました。自分自身の次元の低さ、視野の狭さを再確認すると共に、学校において、自分も生徒や保護者、同僚の教職員を活かせるような教員になりたいという気持ちが湧いてきました。また、お互いに襟をつかみ合い、衝突した状態で宇城先生に仲裁に入ってもらう検証をさせていただいた際に、いがみ合いの気持ちがなくなるだけでなく、まったく意図的な要素、意思もなく、自然と笑顔になってしまっている自分に気がついたとき、自分もこうありたいと強く思いました。

刀を振り上げた相手に対して一歩前に入り、間に入ることで振り下ろせなくなるという検証が印象に残っています。今、同僚の様子を見ていると、保護者に対して何も言えなくなってしまっている状態になっていたり、生徒や保護者の様子が昨年と変わり、その先生だからこそ引き出してしまっているなと思うような事象が多々ありました。私は、その先生たちから何らかの波動が広がり、生徒や保護者の引き出さなくてもいい部分が引き出されてしまっているのかなと思っていました。今回のこの検証から、上司との関係、生徒や保護者との関係においても、戦わずして勝つために、先をとる、間に入ることが大事であることを再確認しました。また、そう接する中で、先生のように相手の良いエネルギーや笑顔を引きだせるような教師になれたらいい学校にしかならないと思いました。

今回は,量子物理学者/量子活動家のアミット・ゴスワミ氏の動画を初めて観ました。宇城先生ができること、感じていることを投げかけ、アミット・ゴスワミ氏なりの考えを提示している様子をみることができ、ここから新しい科学が構築されていくのかという気持ちがあふれ、心が明るくなりました。進化、加速し続けるお二人の様子をみているだけで、自分もそうなりたい、自分ももっと高い次元に行きたいというエネルギーが湧いてきました。そんな世界を牽引している宇城先生の近くで学ぶことができている、貴重な機会をいただいているということを再確認し、新たな気持ちで来年からも学んでいきたいと思いました。

●高等学校 奈良 20代 男性

先生のお話や体験の中で気付いたことや考えたことがあります。

まずは私自身が出す空気感は生徒にダイレクトに伝わっていることです。その空気感が悪いものであれば生徒に悪い影響を与えてしまいます。逆にそれが良いものであれば、生徒に良い影響を及ぼし、クラスが良くなる。それが学年、学校へと普及していって、その輪がさらに広がれば、と想像が膨らみます。

自分を正し、その上で生徒と関わることが大切であると思います。そのためには、自分の軸を持たなければなりません。ぶれない軸を持ちながら変えるべきところは変えていく。そんな柔軟性が今後必要だと確信しています。変化を怖がっていては、成長は望めません。教員が変化しているその様子を生徒に見せることによって彼らも初めて心を動かされるのではないでしょうか。語るよりもまずは自分が行動、実践することだと思います。その積み重ねが生徒との信頼関係に繋がると考えています。

先生のお話の中で「先を取る」というのがありました。目先のことにとらわれるのではなく、先を見て生徒のために何ができるのかを考えなければならないと改めて強く感じました。数十年先を見据えて、今生徒に自分は何ができるのかを深めたいと思います。私一人でできる事には限りがありますが、まずは自分が変わり行動を起こし、周りにも影響を与えたいと思っています。

また、本会の教師塾で強く感じたのが、「流れが分かっていない」という事でした。私自身が物事を線ではなく点で捉えてしまっているのが原因だと思います。本来であれば自然な流れが分かっているべきです。しかし、それが分かっていない。原因として考えられるのは、自分が表面的な勝ち負けに拘っているからではないかと思います。あらゆる物事に関して、目に見える部分はほんの少しで、その背景には見えざる部分が数多くあると考えています。常に本質は何か、考えるのではなく感じられるようになりたいと思います。そのために勉強、吸収し、自分を磨いていきたいです。

●小・中学校 奈良 20代 男性

今回私の中で印象に残っているのは、型を持つと言うことです。実践の中で宇城先生がサンチンをされて、空気が変わるのを感じることができました。私自身にはどんなことができるか考えていましたが、授業や普段の生活で行っている挨拶、礼から改めて取り組んで行こうと思いました。最後に宇城先生が話して下さった、かかとをつけて立つことで身体がぶれなくなる実践も見学して、正しい姿勢、心のあり方も改めて重要だと感じました。 また、「先をとる」ということが自分にはまだまだできていないということも感じました。

保育園での不審者のお話を聴いたり、先日私の友人が勤めている学校でも不審者が校内に入るという話も聴いて、今の自分は「平和ボケ」をしていると強く感じました。それはその瞬間瞬間でしか生きていないということにも繋がると思います。特に最近の自分自身をふり返ってみても、「平和ボケ」で後手ばかりで先を取ることができていませんでした。 今回の教師塾で体験させていただいたことをまずは自分から、そしてその姿を子どもたちに見せられるよう日々実践していきたいと思います。

実践先にありき、深さを知ること、先を取ること、寄り添うこと等まだまだ自分自身足りない部分は多いですが、これからも日々精進していきたいと思います。

●中学校教頭 奈良 50代 男性

今回、宇城先生の講習会に参加させていただいてこれからの教育の方向性に大きなヒントを与えていただき、たくさんの気づきをいただきました。一つ目に日本は世界から取り残されていると仰いました。日本のトップ企業であるトヨタでさえ、電気自動車、(モーター、電気)の開発からは欧米諸国、中国から遅れをとっている。私は、脱炭素の潮流の中、トヨタは水素エンジンなど未来都市の計画など様々な面で進んでいると思っていましたが、先生のお話の中で、そうではないと。世界の動向についてもっと勉強していく必要があると痛感しました。学校現場にいると目の前の現状に物差しを当てがちですが、それは大切なことですが、同時に教育は次代を担う子ども達を育てるということを考えれば、もっとこれからの世界、社会、世の中の方向性を認識、「先をとった教育」をしていくことが必要だと思います。まずは、自分から過去の慣習や小さな枠、固定観念にとらわれない思考と行動を実践し周りに伝えていきたいと考えます。二つ目に、「何が大事であるか、何がどうでもいいか」ということ。宇城先生は「教室の中のいろんな子がいて、発達障害で落ち着きがない子、いろんな子がいるのは、当たり前、落ち着かない、騒がしいなどいろいろなことがあるが、社会に出ればやりにくいこともあってあたりまえ、排除するのではなく、いいところを認めてそこを伸ばしてやる。そうして共に育っていくことが大事である」とおしゃいました。また、今まではどうしても異質なものは排除したり、分離するという考えがあったと思います。しかし、同じ性質ものの中では発展性や創造性は生まれない。異質なもの同士がお互いのいいところを認め合い、協力しあうことで化学反応を起こし新たなものが生まれていくものだと思います。宇城先生は、それぞれの違った個性を認め協力しあうこと。同調ではなく協調が大事だと仰いました。本当にそうだと思います。同じようなこととして、聖徳太子の有名な十七条憲法の中の「和をもって貴しとなす」というのを思い出しました。和とは「みんな同じではなく、一人ひとり違った個性を持った者が全体としてまとまっていること」と。

しかし、学校現場では、ともすれば従来の固定観念にとらわれ、変化を恐れるあまり異質なものを排除したり、枠にはめたりしがちなものです。

これからの時代、変化を恐れ過去に縛られ小さな枠にとらわれていては、変化にとんだ時代を生き抜くことはできないのではないか。右へ倣へをしているだけでは生きる力にならない。我々自身がまず日頃の生き方から心を開きすべてを受け入れ共生して生きていく。それを日々積み重ねていくことで言葉ではなく、行動と空気で伝えていかなければならないと考えます。管理職として率先垂範、日々の実践を通じて教職員へよい影響を与えられるよう、職場全体の空気、雰囲気をよりよく方向付けられるよう努力していきたいと思います。

今回の講習会は、今学校を取り巻くさまざまな課題を先生の大きな視点で講義いただきはっきりと目指すものが見えてきたように感じます。これからの私自身の日々の実践目標として、活かしていきたいと思います。

●中学校 奈良 40代 男性

アミット・ゴスワミ先生との対談の映像を見せて頂き、いつも先生がおっしゃられているように科学が後である事が良く分かりました。頭でものを考えることが癖になっている私にとっては、宇城先生の実証が先にあって、その後に科学や言葉がついてくるのだなと思いました。本を読む事も本から学ぶということが正しいと思っていましたが、少し違うように思いました。もちろん本から学ぶのですが、正しい事なのかを証明するために読むことが大事なのかと思いました。身体で感じる、願うことが先である事を大事にしないといけないなと思いました。身体で感じるや正しいことを今の常識と照らし合わせてしまうので、頭で考えてしまい、先生がおっしゃていた身体から光が出なくなってしまうのかと思いました。結局、自分で自分の入り口や出口を塞いでしまっているのか、表現が難しいのですが身体が出来なくなってしまうのかと思います。

その入り口が肚を据えることかと思いました。教員として、肚をすえる、覚悟を決めるとは、何なのか。そこが教育の原点で、子どもの未来、日本の未来を考えて、今何をするべきなのかという疑問を常に持って、進んでいくことかと思いました。そうすれば、私にも少しは「先をとる教育」が出来るのではないかと思いました。そう考えると、すごくワクワクする気持ちになります。「人助けランキング」もそうですが、今日本におけるニュースも暗いものばかりで胸が痛くなることが多いですが、「先をとる教育」が出来れば、この暗い日本も少しずつ明るくなるのではないかと思います。宇城先生にいつも丁寧にとても分かりやすく、実践して下さって教えて頂いていることを少しでも自分のものにし、周りを元気に明るく出来るように、実践していきたいと思います。

●高等学校 奈良 50代 男性

ゴスワミ博士との対談で感じたことは「相手への敬意」です。先生は既に「気を気で実証」しておられます。はたらきかけること、影響を及ぼすことを。しかも、他者にもさせられます。同じ結果をもたらすだけではなく、個別に差をつける(出来る人・出来ない人)など変幻自在に操られます。博士は「気を気以外で表現」されています。既に出来ていることが大前提である先生が抱く「何故、出来るのか?」という絶対仮説に対して、「このように考えられるのでは。」「推察できよう。」という人々の出発点から導き出した一般的な仮説からの発想者との会話、そこに真の意気投合は難しいでしょう。そして、「○○に例えれば。」とか、「○○と同じようなものですね。」という(せめて)、例え(話)を持ち出して、それと同調、比較させる事までが関の山です。無論、出来ている人が扱う比喩と出来ていない人のそれに関しても同じです。先生のゴスワミ博士や対談に関わった方々への「敬意」を感じました。この場での感想ですから記させていただきましたが、私などは前述のように申し上げるレベルからは、はるかに及びません。資格がない、恐れ多いことです。先生とゴスワミ博士、関係者の方々に失礼です。

相変わらず、ふと浮かんでくるのが「銀座・新地・祇園からガード下までだ。何処でも楽しく飲めるよ。ガード下が一番うまいけどね。」という先生のお言葉。まさに、先生の生き様であると感じると共に、自分への戒めになりました。

後の映像から感じたことも、「相手への敬意」です。先生は「落下傘部隊」のごとく降りてこられて、猛スピードで瞬時に合わせておられました。何でもいい、どちらでもいい、何でも来い。ただ、傷付けないこと。自他共に。先生がすこぶる凄い(ご自身では当たり前の感覚=はやい)のは、傷付けないが「自身も傷付かない」というところです。鍛えられている証拠です。揉まれてきた証です。自分を含む我々教員は、ここが欠如しまくりです。頭で考えるから遅すぎるとはそういうこと。「はい、次。はい、終わり。」人に対してではなく、自分自身の内面です。真面目で落ち込みやすく引っかかりが長い。それを避けて無関心になっていくのか。それでは生きていけないし自他を導けない。ランキング125位は教師の資質も同じかと。

忍とは何か。かっこよさとは何か。何がかっこいいのか。実力、能力とは何を指すのか。適応力とは適応できる能力。適応するためには何が必要か。

前の人の肩を持って連なる中で一人だけが違う姿勢、雰囲気、思考でいれば、その集団は弱くなる。見た目でも違和感を覚える。自分に自信、実力、愛、心がないから「こら!」と怒ってしまう。口で改善させる。従わせる。違う姿勢の人は前からも後からも挟まれてつぶされていた。実力があれば、その違う姿勢の人、その人を含む全体の列をも包み込んで助け守る。つよくする。

先生に見せていただきました。それが愛。それが指導。

一人だけ違う姿勢の者がいれば、優しく注意する。厳しく注意する。優しいのか厳しいのかもわからぬように注意する、気づかぬように直させる。その場ではなく、自ら気づいて自ら自然と感じて正し直せるまで待つ。全部やる。瞬時に判断する。全て、万人に対して通用する指導です。

先をとるとは、理屈ではなく実践、行動です。しかも、1つ(答え)ではなく、どちらか(善悪)でもない。その時々、その場面ごとに、瞬時に。今を生きる。雰囲気の中で育む。・・・。身体からくる信用と信頼。この度も拝感させていただきました。

【教育は全ての原点で、教師の立場は重要で意義ある仕事だと思います。教師塾では皆さんの視野が少しでも広がり行動の手助けになればと思っています。