2022年 東京・A 第1回(2022.1.18)

頭で考える前に「大丈夫ですか?」と声をかける、行動を起こしたい

神奈川 主婦 女性 TS

第6波のコロナ感染が広がる中、わが子の小学校でも児童の感染者が出ています。

学校では子どもたちに「悪いのはウイルスだから、感染した人を支えてあげる気持ちを大事にしてほしい」と伝えてくださっています。

宇城先生がおっしゃる「寄り添う心」です。

「大丈夫ですか?」と声をかけて手を差し伸べると、声をかけた人もかけられた人も身体が強くなることを体感させていただきました。

頭で考える前に「大丈夫ですか?」と声をかける、行動を起こしたいと思います。

また「見えないものを見る」「先をとる」というお話がありました。

私は、今でもなく、今よりもっと遅れた過去にいるのではないかと感じました。

毎朝主人や子供たちが家をでる時に、リビングから「行ってらっしゃい」と声掛けしていましたが、玄関へ行って見送ることにしました。
ゴミを出してくれる主人に「お願いします」「ありがとう」と感謝の言葉を伝えるようにします。

自分の行動を変える、一人革命に努めてまいりたいと思います。

まさに先生が先を取り間を制した場が道塾であり、これが「打たずして勝つは上の勝ちなり」「戦わずして勝つ」境地だった

茨城 自営業 53歳 男性 KM

前日に『稽古照今』を開くと、文字が浮かび上がり、こちらに迫ってくるように感じました。これは道塾受講前の心の準備ができたのでは?と静かに気持ちが昂っていくのでした。きっと大きな学び、気づきがあると思いながら会場に向かいました。

テーマは「見えないものを見る。先を取る」だったと思います。ホワイトボードに過去、現在、未来と立ち位置が記されました。そして「皆さんは過去に生きている」と聞いた瞬間、ああ本当だと強く身体に響くものがありました。

自分は過去を繰り返して生きている。「現状維持は退歩である」と浮かびました。目の前の出来事に思考停止し対応できず変化できずその場をやり過ごしている。しかもほぼ無意識に。そんな自分が見えました。

これでは進歩成長はないと腑に落ちました。そして「少しだけ未来から見る」と聞き、ああ、まさに先を取るとだと思いました。さらに「皆さんにどう伝えるか」と聞いたとき、見えなかったものが見え始めました。そうか!道塾の始めに聞く先生の話は、いつも思わず引き込まれる話ばかり。ピンと来る内容に、自分の思考が動き出します。明らかに心身が変化し始めます。

塾生のレベルの少し先の話をして、気づきを促して頂いていたのか!塾生のレベルを知る為に毎回毎回感想文を読んで頂いていたのか!先生は道塾会場の照明や空調、マイク、荷物の置き場、ホワイトボードの位置…常に気を使っていらっしゃる。そうか!より良い学びの場と整えて頂いていたのか!「皆さんが気を使ってくれないから」は冗談ではなかった。先生に始めから終わりまで気を使って気を使って頂いていたのだ。そして地球上で先生だけが可能とする気のご指導、実践検証に全身を預け、大きな大きなエネルギーあふれる調和の世界が展開される。まさに先生が先を取り間を制した場が道塾であり、これが「打たずして勝つは上の勝ちなり」「戦わずして勝つ」境地だったことに気づきました。

思えば、先生に初めてお会いした時から今日までこの境地を体験させて頂いてまいりました。15年に渡り、例外なく毎回です。あらためて先生のお心を知り、その広さ高さ深さ豊かさに心から感動します。その大きな愛に包まれる幸運に心から感謝申し上げます。

ますます師の存在のありがたさを感じております

東京 大学非常勤講 女性 KM

昨日は、帰り道、最近の停滞している自分を思い、感想文に書けることがない…と思いつつ、トボトボと夜道を帰りました。ですが、先生が最近言われるように、ない頭で考えてもしょうがない、書くべきこともどこからともなくやってくるのだ、と気づかされることになりました。

昨夜は帰宅してから夕方の日課である木刀ふりをしていたところ、「お天道様」という言葉がふと思い浮かび、かつて、この言葉を時々口にしていた頃を思い出しました。当時、辛いことがあったとき、大学の農場の青空の下で、他の先生と「お天道様が見てござる、ここはそう思って忍びましょう」と言っていたことを。

そして、最近はお天道様を見上げつつ仕事をする気持ちを忘れかけていたことも思い出しました。

昨日の先生のお叱りは、まさに師の一撃は雷のごとし、で大変な衝撃を受けました。おかげさまで、自分の固い殻に一気にひび割れが生じた気がいたします。
社会における役割とは、自分で選べるものばかりではなく、どこからともなく与えられるもののような気もしますが、私の場合、旧暦の新年から10年間は開運期が始まるので社会で大いに活躍するように、とよく当たるという占い師さんに言われ、他からも同様の言葉を頂き、普通ならば喜ぶはずのところ、大いに怖じ気づいておりました。

コロナ禍にあっても不安というものを感じることなくやってきたにもかかわらず、「社会で活躍する時期が来たから期待して」という言葉に、「この自分にできるだろうか」と不安を感じるのは、自分の弱さや自己に対する信頼の欠如、そしていつもご指摘頂く我のなせる技と昨日心底納得しました。

不安を通り越して恐怖にまでなっていた、自分の役割を果たしきることも、昨日実証で体験させて頂いた、先に未来を見てから足を運べばそこに行ける、というのと全く同じこと、その応用編なのだと後で気づきました。

これからは、小さな自分の殻に閉じこもろうとする自分のクセを克服していこうと思います。と思い、先生の『現状を打破する』を手に取り、ぱっと開くと、「いつも妥協ばかりしていると、どんどん流されるようになる」というページが出ました。これにも思い当たることがありました。

昨日、気の重いダメ出しの仕事を一つ終えたのですが、推進するメーカーやその技法を取り入れている人たちに対する遠慮から、伝え方が生ぬるかったことに思い至りました。自分に与えられた役割が、誤った技法や考え方に対して気づきや変化を促すことならば、妥協なくやらなくてはなりません。今後は表現は考えるにしても、伝えるべきことから逃げることなく仕事をしていかなくては、と思いました。
このように宇城先生の一撃は、ひとまとめに今の自分に必要な変化のきっかけを与えて下さいました。師の偉大さやありがたさを長年感じて仕事をして来ましたが、今、ますます師の存在のありがたさを感じております。

今年も先生のご指導を受けられることを大変幸せに思いますので、これまでの遅い歩みを少しでも加速させられるよう努めます。

教えていただいていたことが過去にならず、自分のいまにつながるよう意識していきたい

東京 ファーマーズマーケット運営 36歳 男性 YT

先を取るという生きるための技術。その遥か手前にあるであろう「マスクを取る」ということをとっても、嘘やごまかしの時空の中で真実は明らかにならず、同調圧力によって付けるのが当たり前という空気になってしまっています。しかし本当のところは、なってしまっているのではなく、一人ひとりが真実を明らかにする力がなく、現状を選んでいるというのが正しいのだと思います。

僕自身、マスクに関しても周囲にフォーカスを合わせるといろんな考えが浮かんできてしまうのですが、先生が教えてくださっている実証事実にフォーカスを合わせ、先生を信じると途端に内面がとても静かになりました。

過去に引っ張られて過去しか基準にできないと、常に今から遅れてしまうというのは恐ろしいです。子供の前のめりな素直さ、受け入れる力というよりは柔らかさといった方がいいのかもしれませんが、身近にいる自分の子どもを手本に今から少しでも取り戻していきたいです。

また、自分の心が動くことを、素直に自分の行動につなげることを心がけていきたいと思います。

列で並ぶ実証では、後ろの人の足が反対のときは最初から身体が心もとなく不安に感じました。一人だけ顔を背けても驚くほど弱くなり、「俺は特別だ」と思っていると前後から負荷が集まってきて潰されてしまいました。勘違いをすることは本当に恐ろしいことだと肝に銘じます。

今を生き、先を取る生き方につなげていくには、人に寄り添っていくことが大切だと何度も教えていただいていますが、ここ最近を振り返って、ついつい頭で考えるのは自分のことばかりだと反省しています。そんな時には具体的な間を持って、相手の心、自分の心に寄り添うことをしていければ、だんだんと時空が広がり先が見えるようになってくるのではないかと感じています。

昨日教えていただいていたことが過去にならず、自分のいまにつながるよう、次の道塾まで意識していきたいと思います。引き続きご指導の程、よろしくお願い致します。

自分の知識や常識、習慣から自由でなければ、変化や成長は望めないのだと感じました

神奈川 会社員 56歳 男性 TK

昨日の実践の中で、倒れてつながっている人をさらに投げるという場面がありました。まさに自分の目を疑う様な光景でした。

その様な光景を目にしたとき、子供は驚きと共に、それ自体をそのまま受け止めることが出来ます。

しかし、私たち大人は、驚きと共に、その光景に自分なりの理由付けをしようとしてしまいます。
そして、その理由付けがうまくいった場合は、それを頭の中に記憶し、うまくいかなかった場合は、何かわからないものとして排除してしまいます。

しかしながら、この行為自体が、自分の頭の中にある知識や経験との照合作業であり、すでに「過去に生きている」ことになってしまっていることに気づきました。
この作業は、時には習慣や常識との照合であったりします。
過去の習慣や常識に従って、日々を送るという事は、日々「過去」に生きていることになります。
その中から変化を求めることは、まさに不可能であり、無駄な努力をしているに過ぎないのだと理解できました。

まず、自分の知識や常識、習慣から自由でなければ、変化や成長は望めないのだと感じました。