「日本人の奴隷化」という言葉が、まず深く胸に刺さりました
大分 教員 女性 TM
今回も、厳しくそしてどこまでも温かい御指導を賜わり、誠にありがとうございました。
宇城先生の「日本人の奴隷化」という言葉が、まず深く胸に刺さりました。わずか5パーセントの認識に閉じこもり、先生が目の前で話され、検証で示してくださり、感じさせてくださってもなお、懐疑の目を向けてしまう大人の姿は、学校現場が長年にわたり子どもたちに与えてきた「指導」の結果そのものであることに気づかされたためです。
宇城先生は、私たちに惜しげなく95%の真理や可能性に目を開かせてくださっています。しかしそこに目や耳をふさぎ、真理の探究に関心を持たず、新しいもの世にないものを作り出す気概を持たず、今あるものをただ消費者としてぬくぬくと享受する、受け身で緊張感のない生き方が、子どもたちやその子を育てる保護者、教職員にも広がっていることを、学校現場において肌で感じています。
日本の大学の世界ランキングや企業の時価総額ランキングの低下に象徴される日本人の劣化は、「均質な労働者育て」から方向転換できていない教育の当然の帰結であることを、宇城先生は示して下さいました。先生は、戦争や紛争が地続きにそこに存在するヨーロッパ諸国、生と死への緊迫感の高い海外においては、宇城先生の教えに対する感度も敏感で、学びに貪欲であると繰り返し仰っていました。
宇城先生が示される「調和」「愛」「寄り添う心」こそが、命を守り、平和を創ることにつながることを、きっと無意識レベルで敏感に切実に察知されているからだろうと感じました。オリンピックの柔道においても、「待て」で気を抜けばそこには死があり、選手は落ちていました。柔道がスポーツJUDOになってしまっていることの一つの姿がそこにありました。海外の猛者たちに指導されている宇城先生の「一瞬たりとも気を抜いてはいけないんだ」との御話は、常に死を意識するべき厳しさが当然にあるのが武道であることを示してくださいました。
検証において、テーブルを押さえても、人の手を押さえても、先生が素粒子レベルでその場に流れを作られると、やすやすとギクシャク感なくスムーズに動き、動かされました。何人もの人が並んで、先頭の人に先生が突きを行えば、奥の人に波動が突き抜け動かされていきました。
何人に足を押さえられても、エネルギーを持つ指導者が前に立てば、人は動かされました。しかしこれすらも、あるがままをただ受け入れることができない人には、感じることができませんでした。この鈍さは、身の危険すら予知できなくなる致命的な「生き物としての鈍さ」でもありました。
健常者でいながら自ら「障がい」を作ってしまっている状態であり、自分自身もかつてはそうであったことを思い出します。そして、今でもまだまだ自分の思考の癖や姿勢の悪さで、鈍いところが山のようにあることに日々気づかせていただいております。
実力なくして、信頼なくして、エネルギーなくして、前に立ってはいけない。「孤立している人は前に立ってはいけない。」「気づかせるには本気で行かなくてはだめ。参ったと感じた先に、新たな気づきの可能性がある。」宇城先生の一言一言が、至らない自分の胸に刺さりました。
先祖の皆さんが創ってこられた平和な日本で生かさせていただいている私たちですが、そこに立ち止まり、ぬくぬくとただそれを享受し隷属していれば、他国の「奴隷」となるしかありません。生死の緊張感を空手と居合の型や分解組手の中で高め、20年後の成長した子どもたちが、実力をもって多様な他者と堂々と渡り合い、平和を創る一人になれる教育を推進できるように、日々成長して参ります。
暑さが本当に厳しい中、日本中、世界中で御指導をしてくださっている宇城先生、御指導をいただき心より感謝申し上げます。ありがとうございました。ご自愛のほど心よりお祈り申し上げます。
学んだことを活かせるよう、真剣さを忘れずに日々を過ごしていきたい
鹿児島 学校図書館嘱託員 38歳 男性 YK
開始時間より早く始まった検証では、大勢で抑え、人の力ではびくともしなかった机が、宇城先生が本を動かすだけで、触れてもいないのに動き出しました。
実際に机に触れていると、何もない状態では誰かが動かそうと力を込めても、抑えている側には全く力が伝わってきませんでした。しかし、宇城先生が本を動かして机まで動かしたときには、その場が全体で動いているように感じました。机も抑えているという感じがあまりなく、机と自分の境がないように感じました。
また、講義の中では、意識と無意識は1:100くらい差があること、私たち健常者と呼ばれる人々は意識が大切と思い込んで生活をしていることなど、改めて学ぶことが出来ました。自分では、頭で考えないようになっているつもりでも、まだまだ、ふとした時に頭をひねったり、悩んだりしてしまいます。
そして、その「頭で考える」という行為が周りの人にどんな影響を与えるのか、という検証では、たとえたった一人でも“自分さえよければ”という考えの人がいると、全員がエネルギーを受け取れなくなるということを見せていただきました。
他人には迷惑をかけていない、そんな独りよがりな考えこそ調和を欠き、自分も周りも弱くしてしまっているということがよくわかり、改めて恐いことなんだと思いました。私自身も、道塾に来た最初の頃は、自分ひとりの影響など大したことない、と思っていたところがありました。
今回の検証は、よく覚えておこうと思いました。
真剣さと甘さについても、今回は考えさせられました。他人に譲ることが優しさや気づかいだと思っていましたが、決してすべてがそうではないこと、甘えや緩みからきていることもあることを学びました。
以前聞いたケーキの話でも、大小二つのケーキがあるときどうするか、“大きい方を自分がとってそれを相手に渡す”とおっしゃっていました。まずは自分で動く、それが大切なのかなと思いました。
両手を上下で向かい合わせて、その間に相手が手を入れる検証では、何もないときにはただ手を出しているだけで、左右に動かしても自分だけが動いている状態でした。しかし、宇城先生がその間の空気をかき混ぜるようにすると、相手の手も一緒に動かせました。動かすときには、空気まで一体になっているような感じで、相手の手も一緒に動かせる、という確信もありました。相手の手の間に自分の手を入れた時も、何もないときとは違い、あたたかく感じました。
スポーツの不祥事や政治家の汚職のニュースを目にするたび、こんな社会になってしまったこと、それに自分も加担しているということに情けなさを感じます。
すでに遅いですが、今をどうするのかきちんと考え行動しなければいけないと強く思いました。
やるときは思いっきり。何事もそれを忘れずに取り組んでいきます。
今回も多くの学びをありがとうございました。学んだことを活かせるよう、真剣さを忘れずに日々を過ごしていこうと思います。
次回もご指導をよろしくお願いいたします。
一触を通し瞬時に再現性を持って体感として経験させてくださり、自身の在り方について省みる機会をくださることに感謝
福岡 不動産業 33歳 男性 SM
熊本道塾でのご指導ありがとうございました。
さまざまな実技で示してくださった中で感じるのは距離が離れていても全く関係がなく、空間全体が動くように身体が動かされる、その身体の精密さです。身体の内側からというよりも、空気全体が動き、空間全体の一部として身体が吸い込まれるように、そして包まれながら動く感覚でした。境界がなく、全体と一体になっている心地よさ。日常の中でこのような経験をすることは自力では不可能です。それを一触を通して瞬時に、そして再現性を持って何度も、体感として経験させてくださり、そこから自身の在り方について省みる機会をくださること、感謝申し上げます。
4名で棒を井桁にして挟む検証。危機感知の能力が衰え、腕や顔を中に入れても平然としている方がいらっしゃいました。頭で考え身体を置き去りにしている。
ただ、刃物でやればさすがに手を引っ込める。ビルの屋上から「ちょっと飛び降りてみようか」はできない。程度の差はあれども、自分自身も同じ平和ボケしている状態であり緊張感がないということだと思います。ご講義の中で、姿勢がいかに大切か先生からお話がありました。
聞く姿勢、学ぶ姿勢。姿にその人の本質が出る。心臓は意識で止めることはできないのと同様に、身体の一挙手一投足は意識ではコントロールしきれません。圧倒的に無意識の領域が広く、だからこそ不具合がなく上手く作動している。
「人のふり見て我がふりなおせ」これは、常に学び、気づきのチャンスはどこにでも落ちており、そこに気づくか気づかないかは自分次第という意味を含んだ言葉なのではないかと感じました。
板書で示してくださった無意識に対して意識領域はごくごくわずかだということ。0.5%よりさらに小さい領域で物事を考え片付けようとすることを、今までの教育の中で後天的に獲得してきてしまったのが今の自分たちです。
神秘ともいえる無意識領域に宇城先生は働きかけ、エネルギーを送ってくださっている。そして、そこが変われば思考の質も変わっていく、それは希望であり、変化の指針だと思います。
先生に気をかけていただき、一瞬でできる自分になるということは、鍛える必要がない。もともとその能力は備わっており、条件が整えばその能力は瞬時に発揮できる。どうすればできるようになるのか。不要なものを捨てる、その勇気を持つことだと思います。
頭と身体は1対100万、あるいはそれ以上の差があると先生がおっしゃいます。言葉で、意識で学ぶことにあまりに慣れすぎしまっている。できる師を映すこと。心を開き、その場・その瞬間を感じとり、素直に自分に取り込むこと。子どもは意識領域への偏重がなく、素直に自分に写し取ります。0.000001秒で、瞬時に変わる。先生がその場にいらっしゃるだけで時空が変わる。その一瞬に自分をどこまで近づけることができるか。
季刊『道』の気づく・気づかせる、の連載や『人間と宇宙と気』の中で宇城先生が引用されていた岡潔先生は、私もとても好きです。10冊ほど岡潔先生の本を読みました。その中で、次のような内容がありました。
私には調和が一段階深まればだいたい三十倍の速さで解答が出るという気がします。タルタリアから私たち時代までは三段階ばかり深まっているという感じで、したがってあのころの人たちは三十倍の三乗、すなわち二万七千倍かかっているということになります。三日の二万七千倍といえばざっと二百二十五年です。
岡潔・著『春宵十話』より
宇城先生は、細胞の時間は100万分の1秒だとおっしゃいます。この岡潔先生が言及されている二万七千倍をさらに三十倍すると、八十一万倍となり、先生がおっしゃる細胞の持つ時間に近似となります。調和が深化・深化してゆくと、時間の幅が非常に狭くなり、だからこそ、その瞬間の持つ広がりは無限に近い形で広がっていくのではないかと思いました。ただ、あくまでこれは、頭の理解であり、身体で体得しない限りは意識の世界でしかないと思います。少しでもこれをわかるように精進したいです。
また、岡潔先生は次のようにもおっしゃっています。
…意味を教えることは、実にあいまいな教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。
そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思うのです。
岡潔・小林秀雄・著『人間の建設』より
これはまさに宇城先生が常々おっしゃる「全体」ということではないかと思います。部分の総和は、全体という統一された有機体にはまったく及ばない。常に全体という広い視野を持ちながら、局所局所を見ていくということが必要であり、部分の積み重ねの上に全体があるというのは、一見正しそうに見えて、逆は必ずしも真ならずということだと思います。言葉ではなく、全体性を持つ身体を通して謙虚に学んでいくことしか道はないと感じております。
いつも貴重なご指導をありがとうございます。