2024年 東京・A 第5回(2024.10.1)

目に見えないところのエネルギーを常に感じ取れて自分をより良い方向に向けていけたならすばらしい

埼玉 健保組合 67歳 男性 NS


今回のご講義が始まる前に3人が横に並んで杖を持っているのを前から押す検証がありました。

正面から押しても全く動かないような状況で、先生は「杖の端を真っ直ぐに押すのだ」と仰ってそのまま押し崩しておりました。そして3人の後ろに9人がスクラムで連なった時には私も参加させていただきましたが、確かに何かが身体に入ってきた感覚の後に斜め方向からではなく真正面から圧力が入ってきて真後ろに崩れました。

自分の日常の常識で考えればこのときも驚きと不思議な感覚になったのですが、先生にやって見せていただいている真理からすれば私は入口のところで右往左往している状態なのだと感じます。

2人対6人が相対してたち膝で押し合う検証でも少人数の方が相手に囚われずにその先の壁に意識を広げた瞬間に多人数を押し崩していきました。この事実から私もいかに対立的な人間関係を常識と思い込んで、調和の間合いを広げずにのんびりとした時間に浸って生きているのかということを考えました。

また、目に映る物事さえまともに見取れていない状況でありますが、目に見えないところのエネルギーを常に感じ取れて自分をより良い方向に向けていけたならすばらしいことと思いました。

道塾で教えていただいている事は自分に自信をもって変化の時代を生き抜いていく為の教えであり、その教えに向き合って自己変革していくことです。それには
「自分さえよければ」とは対極の調和の行動が自然と出来るまで自分が関わる場でやっていくことだと改めて感じました。

いつもご指導ありがとうございます。

先生の世界を学ぶという事は、自分達の「学ぶ」という言葉より、「挑戦」という言葉が近いような気がしました

神奈川 理学療法士 57歳 男性 TK

冒頭、棒をもった数人を押す実践がありました。
自分達の常識では、もちろん押すことはできません。
しかし、先生が押すと全体が動きます。その時「すごい」と素直に思ったのですが、その直後、ふと「すごい」と思うこと自体が駄目なのではないかという思いがよぎりました。

「すごい」と思うこと自体は素直な反応なので間違いではないと思うのですが、自分でも気づかないほどのその後の一瞬に、どこか自分には体得できない世界として捉えているような気がしました。
いつも先生には人間の可能性についてご指導をいただいています。
その人間の可能性を目の前で見せていただき、それを学ぼうとしているその瞬間に自分の可能性に蓋をするような思考が生まれてしまっています。
それが病気なのだと感じました。

自分達の「学ぶ」という言葉には、どこか受け身的な含みを持っているような気がします。先生の世界を学ぶという事は、自分達の「学ぶ」という言葉より、「挑戦」という言葉が近いような気がしました。
自分の人間の可能性への「挑戦」が必要なのだと感じました。

先生に触れ、日常自分は何をしていたんだろうと、感じる場面が幾度となくありました

静岡 営業 41歳 男性 YY

宇城先生、今回も沢山のお話し、実証、また様々な身体を通しての体験をさせてくださり、誠にありがとうございました。
約4ヶ月振りの道塾でした。先生に触れ、日常自分は何をしていたんだろうと、感じる場面が幾度となくありました。
今自分に足りないことは先生が話しの中で仰ってた学ぶ事、勉強する事です。
そういったことから逃げる、横着をするつけが、家族や子供、職場にも影響を及ぼすことに繋がってしまうと感じました。
そして愛が足りない事。知らず知らずのうちに、自分さえの考え、欲が優先してしまい周囲と調和できていない。

今回体験させて頂いた実証で心に残ったことは、スクラムをガッチリ組んだ何人かを自分が横から押すことを体験させて頂いたことです。
何回か道塾の中でも実証して頂いておりましたが、やはり普通に力で押してもスクラムは動きませんでした。

1人の塾生の体調不良に心配する、寄り添った後にスクラムを押すと力ではなく簡単に倒すことができました。
寄り添った瞬間胸のあたりが暖かな気持ちになり、これがエネルギーなのか、先生が講義の中で仰ってた人と人との間ができたことなのか今の自分ではわかりませんが明らかに、身体の中に熱いものを感じることができました。

一方、その後に体調不良の塾生を素通りする、無関心の後スクラムを押しても押し込めず。スクラムを倒せる、倒せないの違いは愛情、思いやり、寄り添いがあるかなしかの違い。今の自分に対する先生からのメッセージと捉えて、日々精進して参ります。