2023年 第1回 宇城教師塾(2023.5.31)

●奈良 中学校 30代 男性 

昨日の教師塾ではご指導いただき、誠にありがとうございました。冒頭、特別支援学校の生徒の映像を見させていただきました。今自分自身の勤務校にも特別支援の生徒が複数在籍しております。中には集団での生活を「みんなと同じように」過ごすことに課題がある(大人がそうでなければいけないと思っている)生徒もいます。教師側も対応に困っている様子なのですが、どちらかと言うとその生徒の思考や言動、動きを抑制・止めてしまう傾向になってしまっています。その子の学級の生徒は優しく接してくれたり、導いてくれたりもするのですが、突拍子もないことを発言してしまう時にキツイ口調になってしまったり、イライラの感情をその子にぶつけてしまう様子が見て取れます。子供たちの話によれば、支援学級のその子が授業と関係のない発言をしたり、感情が抑えられないような状況になったときには「大きな声で怒鳴りつけ」「泣くまで」説教を続けていたこともあったようです。結果としてその指導をしたことによって生徒は一時静かになったようです。その結果を見ている子どもの一人が「なんで中学の先生は怒らないの?」「小学校の時泣くまで怒ったら静かにしてたで?」と教師側に訴えたという話も聞きました・・・・。子供たちは本当に素直です。そして、大人の影響を大きく受けていることを実感いたします。昨日の映像を見ているととてもやさしく幸せな気持ちになりましたし、涙が出そうになりました。調和や寄り添うこと、愛情・・・そこでしか目の前の現状を変えられないなと思い、まずは自分自身が変わる。行動するという決意を新たにさせていただきました。

 また、「やってみる?」という最初の問いに「×」と頭の上でサインを送り、拒否した子。しかし、その後の指導のなかで自ら「これ僕できる」と進み出てきた様子を見させていただき、我々教師が教育のなかで行うべきことはこういう事だなと感じました。生徒自身が体の中から確かな「できる」という自信を導き出す。そのきっかけ、希望の種を撒くことこそ我々が行うべきことです。そうして育まれた生徒の姿から我々大人・教師が教えられる。また、その学びを次の生徒達へつないでいく・・・・。しかし、自分はまだそれを頭で分かったように思っているだけです。実力が全く足りないと痛感します。
宇城先生がご指導なさっていた支援学校の生徒の表情は本当に心から笑っていました。幸せそうで、エネルギーにあふれていました。自分の目の前の生徒もエネルギーにあふれています。しかし、自尊感情が低く自信が持てていません。僕自身が変わるしかないなと思います。目の前の子ども達に希望を与えられる存在。「先生」「師」となれるよう勉強し続けます。これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

●京都 中学校 40代 男性 

学び続ける人材の育成。

この言葉は、文科省も同じことを言っていますが、どうやってその仕組みやその気持ち、そこに向かわせるエネルギーをもたらすか。知識を学びそしてそれを深める、広げる。言葉で言うのは簡単ですが、その答えや方法、実証はどこにもありません。そして、スポーツ化して対立、消費、比較、奪い合い。全く答えが分からないまま教育界は進んでいます。しかし、今日の宇城先生の講義を聞いて学んで改めてその学びは宇城先生の考え、宇城先生のもとにしかないと確信しました。まず、やってみせる。そのために教師は勉強する。その勉強とは、やらされる勉強ではなく、なぜ?でもなく、どうやったらできるという、どうすればが先にある勉強です。なぜ?なぜ?では止まります。しかし、それはできる事実と体験なしには始まりません。今日冒頭に見せて頂いた、特別支援学校の映像。先生の技を技術を映す姿にあの男の子の『これできる』その言葉に頭や自分中心の考え方とは違うものを感じました。本当の意味の空気が分かるんだと感じました。逆に自分の理解しよう、学ぼう、感じ取ろうとしていることそして大事な物はきっと間違った物なんだと思い知らされました。先生が仰った、知っている物、想像できる物、見える物しか見ない。信じない。信じれない。自分たちの病気ができるをできないにしている。健常者こそ病気。すごい腑に落ちました。子どもたち、障害者の中にはそれはありません。その病気を我々教師大人は子どもに映してはいけない。そのためにはいつも先生が仰る謙虚な人間でなくてはいけません。学び続けるしかありません。その見えないループ、見えない行動こそが、我々教師大人には大切なんだと感じました。先生が今日検証していただいた自分の中心を作ること、調和し空気に溶け込むこと。その逆に自己中心的な考え、行動を日常の中で変えて行くことが、自分の進歩成長そして変化だと思います。子どもたちを守れるか、守れないか、それは我々の姿勢一つだと思います。今日頂いた感動と学びを日々の教育活動で実践してこそ宇城教師塾の塾生だと私は思います。本日は御指導ありがとうございました。

●岐阜 高等学校 40代 男性 

今回は中学校の体育館をお借りしてのご指導ということで、その学校で過ごす子どもたちの日常の空気を感じられる中で、私たちの使命である「教育」について感じ、考えることのできる時間でした。

冒頭の動画にあった特別支援学校の生徒さんの様子から、彼らの持つエネルギーや感性に対する驚きとともに、その生徒さんが放つ笑顔や喜びが手に取るように感じられ、涙が出そうでした。先人が積み重ねてきた「教育」という営みは本来こういうものだったのだと感じました。そしてまさに今、そこに携わることのできる自分への誇りや責任感をいっそう強くしました。真剣さに欠ける自分や、言い訳に逃げそうになる自分を叱咤することができました。

教育や日本全体を取り巻く厳しい状況というのは、目を背けることなく向き合わなければいけないと感じます。また、向き合うために日々勉強を続けなければなりません。不安は自分への危害を、怯えは他者への危害を誘発するという先生のお話は、毎日のように現実となりニュースで報道されます。つい今しがたも、ある県の中学生が校内でナイフを持ち出し、下級生を脅したというニュースが入ってきました。私の勤める学校でも、いつ起こってもおかしくないと思っています。そんな空気のなかを生きている子どもたちを、守り育んでいくために何ができるのか、どんな自分であらねばならぬのか、大河のなかのコップ一杯の水に私自身がなれるのか、いや、ならなければ…。そんな身の引き締まる思いです。

しかし思いだけでは何も変わりません。また、経験だけでも変わりません。もちろん思考だけでも変わりません。それを実現するための「術」。そして「身体」。目に見えないものを信じ、そして感じられる術や身体を練り上げていかなければ宇城先生に学ぶ意義は無きに等しいものとなってしまいます。そのヒント、「答え」はすべて「型」のなかにある…。

そう考えると、改めて果てしなく遠い道に思えます。それでも一歩ずつ進んで参りたいと思います。情けない話ですが、道塾や教師塾がなければ、自分では進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのかすら分かりません。宇城先生という「師」の偉大さを感じます。私自身の一生では間に合わないかもしれませんが、子どもたちやその子どもたちの世代に向けて種を蒔けるように…。

今回の教師塾では、ふと気づいたことがあります。それはこの教師塾に集まる「仲間」がこんなに沢山いるということです。こんな当たり前のことを、何回も同じ方々と学んでいるのに、今さら気づく私自身に呆れます。元来人見知りで、なかなか人に心を開けないという私自身の傾向を自覚はしていましたが、今回はなぜか、体育館のなかでみなさんとともに宇城先生を囲んでいる、その事実だけで安心感と心強さがありました。これからも、仲間とともに学び、変化し続けていきたいと思います。

今後ともご指導よろしくお願いいたします。 

 

●京都 私立中学校・高等学校 30代 女性 

子どもや障がい者と呼ばれる人にはできて、健常者と呼ばれる大人にはできない。それはなぜか。宇城先生は動画を流された後にそう問いかけました。その答えがまさに昨日の教師塾で体現されたように感じています。見て学ぶ。学びにおいてとても重要なことですが、大人になるにつれ頭で考えることが先行してしまい、身体が停止してしまい、見て学ぶことができなくなっていきます。これまでの自分を否定できない、目の前で起きている事実を見ようとしない、まさに自己保身に走ってしまう結果、頭が身体を邪魔してしまい、理屈や理論ばかりを求めてしまい、目に見えるものでしか判断できなくなっていってしまいます。「先生」と呼ばれる人ほどその傾向が強いと先生はいつもおっしゃいますが、昨日はよりそのことを痛感した時間となりました。

まず初めの実践ではメリケンサックを使いました。メリケンサックの前に手が置かれた状態で、そこに突きが入れられるか。大抵の人は相手を怪我させてしまうことを恐れ、できません。しかし、宇城先生は躊躇なく、迷いなく、突きを入れられました。間にある手も痛くないし、先生ご自身の手も痛くない。まさに調和を生み出していました。宇城先生に気を通していただくと、同じように相手に対して突きを入れられるようになりました。それとは逆に、気を通していただいても突きができないことがありました。その際、先生は「迷いがあるのは相手も自分も信じていないからだ」とおっしゃいました。いくら表面では調和を訴えていても、内面が対立状態であれば、事理一致できていないことになり、身体は弱くなってしまいます。身体は正直です。頭が邪魔をする。これこそが大人の問題なのだと感じました。また、宇城先生は、先生ご自身ができるだけではなく、誰にでもやらせてみせることができます。「やってみせる」「やらせることができる」先生のご指導こそ、教育のあるべき姿です。人は自分でできたと感じた瞬間に自分を信じるエネルギーが生まれます。今の学校現場ではできないという劣等感を植え付けることはあっても、できたという実感を持つ機会が圧倒的に少なくなっています。表面的な評価だけで判断をしてしまい、子どもが持つ本来のエネルギーを引き出してあげられていません。まさにはじめに見せていただいた動画と同じです。養護学校の教員が、宇城先生が初めて正しい評価をしてくださった人だという感想を書かれていました。まさにその通りで、本来評価は何のためにしているのか、その部分を見失い、優劣をつけることだけに視点を当ててしまっているのだと感じました。

相手と自分の間に間をとり中心を取るだけでいい。先生はそうおっしゃいますが、それすらできない自分がいます。相手がまっすぐに並んでいなくても宇城先生は間を制し中心をとることができます。それは、相手が何人であっても同じです。全員で円になって回る際も、自分達の意思では足並みが揃わなかったのに対し、先生に気を通していただくと、自分の意志とは無関係に身体が先に動いていくことがわかりました。流れに身を任せているような感覚です。スピード感が強い中、速くなればなるほど隣との手を離してしまいがちですが、不思議と「危ない」と思った瞬間、もしくは思う直前に隣の人との繋がりが強くなったように感じました。手を離してしまう人は最後に裏切る人だ。その言葉の重みが今も耳に残っています。危ないと思い手を離す。自分の身を守るためなのかもしれないですが、離されてしまった方がどうなってしまうのかまで考えられていなかったといことです。まさに見えている次元が低いから起こることです。何をも守りたいのか、その本質を見失うと大切なものは何も守れなくなるということを実感しました。次元が変わると見える世界が変わる。先生がいつも教えてくださることです。今の自分がいる場所から見える世界がいかに小さく狭いのか、そう感じる毎日です。この現状を抜け出すためには、とにかく学ぶ以外に方法はありません。1に勉強、2に勉強、3に勉強・・・のように、真剣に学べているのかといつも先生は私に投げかけてくださっています。この緊張感を常に持ち続けて日々の生活を続けているのかが今の私の課題です。

宇城先生がサンチンの型をされると、その場の空気が変わりました。麻那さんの動画でも同じです。エネルギーある人が力ではなく呼吸でその場の空気を変えることで、そこにいる人全員が強くなります。これこそがまさに守るということです。麻那さんは留学に行き、宇城空手が自分を守ってくれていると自らの行動によって気づき、またさらに上の次元に進まれました。この「自らの行動によって得られた気づき」こそが人としての成長の源であり、教育のあるべき原点なのだと感じました。ただ頭で考えて問題を解き、テストの点数を取るだけではなく、観察し、自分で実践し、またその反省から学びを深め、また実践につなげる。その繰り返しこそが学びなのだと思います。

宇城先生に気を通していただくと多くの人は笑顔になります。自分の内から出てくるエネルギーと、自分が今できているという実感に感動し、嬉しくなるからです。この気持ちを忘れた大人にはなりたくないです。未知なるものと出会った時にこそ自分の真の力が試されます。いくら頭で否定しても、今ここで身体が変化している自分がいる。それが全ての答えです。見えないものこそが大事なんだという先生のお言葉通り、今自分の身体が感じた感覚を大切に、生徒と向き合っていきます。実践こそ全て。生徒と同じ目線に立ち、驕ることなく謙虚な気持ちを忘れずに、あるべき教育の実践を追究し続けていきます。稽古照今。この言葉の意味がいかに重いものなのか、自分の日常を振り返るとより実感します。宇城先生という師の存在が自分の人生をより真剣に生きるよう導いてくださっています。宇城先生の存在が未来の希望です。子どもたちに私自身が未来の希望を与えられるように、日々精進してまいります。本当にありがとうございます。引き続きご指導よろしくお願いいたします。

●京都 私立中学校・高等学校 40代 男性 

昨日は、教師塾でのご指導ありがとうございました。 前回の大阪道塾でのご指導をいただいた時とまた違った気づきをたくさんいただきました。まず初めに特別支援学校のカズマ君とユウ君 2人の映像は、衝撃でした。身体がとても素直でいること。周囲からどう見られるとか。比較されるという雰囲気がゼロでした。そして、宇城先生が引き出してくださっているのもありますが、「これならできるかも」という前向きに挑戦しようとしている姿勢をみて、自分自身「ハッ」とさせられました。

まず、自分自身2人のように、挑戦できているのか。そして、教師として生徒たちに、2人のように前向きに日頃の学習や学校生活に取り組めるよう指導できているのか。映像をみながら今の自分自身と向き合うというよりは、向き合う機会をいただいたと言った方が正しいでしょう。

メリケンサックでの検証は、打ち込んでいくことになると痛みが伴い、打つことを躊躇する。次に、間に手を置き、打っていく時には、自分というよりは相手を怪我させるかもしれないという不安、怖さがよぎってきます。 しかし、気を通してもらうと打つことができ、並んだ列を押すこともできる。気を通してもらってもできないこともありました。それは身体が素直でなかったり、頭で考えいることが自分にもありました。こうして体験してこそ、身体を通して感じることができるにも関わらず、自ら後ろの方で話を聞き前に出ていこうとしない。検証の時に気を切ってしまう。頭で切り替える。厳しくご指導いただく時の姿勢。表情。指導をしていただく者としてのとるべき行動がどうあるべきか。再認識させていただきました。 ご指導いただく中で、先生のご助言や気を通していただくことでしか「できる」を経験することはまだまだで きませんが、前で検証をさせていただき、頭で考える癖が抜けないことも経験させていただいています。昨日も 帯を締めて、持ち上げる検証の時に先生から「体育館いっぱいに広げていくように」とお声がけいただいた時にすぐに頭で、言葉でやろうとする自分がいて全くできていない自分がいることに気づかせていただきました。また、相手との間があってから周囲の方を動かす検証でも先生のお声掛けがなければ、自分勝手に手を動かしていました。当然円になっている人を動かすことなど出来ていませんでした。それでも『2 進法。これはつまり、行動だと。』とおっしゃる先生からのメッセージから、立ち止まることなく行動し続けることへの後押しをしていただきました。 生まれながらに完成形であり、「できる自分」がいる。自分にその力があるということを教えていただいているのにも関わらず、思考の癖で「できない自分」ばかりがでてきます。それも原因も全て自分です。ご指導いただきながらそのような自分に対して、これからどう学び、どうなりたいのかいつも進むべき方向を示していただいていることに感謝しかありません。日常の積み重ねと信念あってこそ。宇城先生の指導は常に「気づく、気づかせる」であり、自分自身とどう向き合うのかということを教えていただきます。さらに指導内容を通して明日への自分に希望を見出してくださいます。「やらなくてはいけない」ではなく「やってみたい。やってみよう」要するに内面にエネルギーをいつも与えて下さいます。相手を受けいれ、寄り添うこと。敵をつくらず相手を想うこと。全ては自分の中に答えがあること。 引き続き、ご指導よろしくお願い致します。

●山口 中学校 30代 男性 

宇城先生、この度も第一回宇城教師塾での大変貴重な御指導、誠にありがとうございました。学校という教育現場において、子ども達と関わらせていただいている中、今自分達が置かれている状況をつかみ、これからの未来のために今、そして今からどうするのかを学ぶ貴重な時間となりました。本当にありがとうございます。
 冒頭、特別支援学校の生徒さんが先生の実践を見て、それを映し、即その潜在力を発揮されていく動画を見させていただきました。「子ども達は脳のフィルターがなく、素直であるからすぐに映すことができる。大人はフィルターがあるため、素直でないため映すことができない」との先生の御言葉をお聞きし、私達はこれまでの環境下で、無意識に様々な常識という名のフィルターが刷り込まれ、無意識にそれに基づいて物事を考えたり、行動したりしているんだということを御教示いただきました。また、自分自身が無意識に素直ではないことを認識させていただきました。メリケンサックの検証では、先生が打たれた時は全く衝突がなく、間に手を置いても痛みもなく、打たれた列は威力が貫通し、そのエネルギーによって動かされていきました。そして、塾生の方が打たれた時は衝突しており、打たれた方には激痛が走っていました。まさに私達は、対立構造となるよう刷り込まれた無意識下でのマインドコントロールやフィルターの影響で、その潜在力の発揮をできなくされている明らかな事実がございました。「自分は常に常識というフィルターで物事を見、判断、行動し、その影響で先生がお示ししてくださっている人間の潜在力を発揮できないでいる」このことをハッキリと事実として認識できたことは大きな喜びです。それは、人間には素晴らしい潜在力があるという認識を深めることに繋がったと感じたからです。また、存在の有と無の検証では、粘土や豆腐は見たことがあるからそこに手を入れることができました。しかし、空気に手を入れて上から押さえていただくと、一番弱くなりました。「空気はあると思っているが、目に見えないからそこに存在は無いものとなっている。」その後先生が手の下に空気を入れてくださるとその支えで腕は下に下がらなくなりました。目に見えない心や気、エネルギーは先生に学ばさせていただいなかったら、この検証と同じような状況(本当は存在しているのに無いものと同じ。目に見えないものは信じられなくなっている)となっているのではと思いました。何より今現時点の自分は、目に見えないものは信じられていない状態になっていたと気づけたことも大きな喜びでした。世界の中で孤立し、信用や信頼ではなく、お金のバラマキばかりやり世界と付き合っている日本。先を見据えた行動ができなくなり、世界に誇った技術力や競争力がどんどん低下している現実。利益最優先で形作られたスポーツのあり方。未来に希望がなく不安や怖れが増大し凶悪な犯罪が増大している世相。そして、それらを生み出している様々な社会の構造。その中で子ども達と私達は、学校という場で日々時間を共にしています。潜在力をもち、それを発揮できる子ども達をこのような状況の中、いかに守り、育み、それぞれの人生を幸せに生きていってもらうため、自分には何ができるのか。特別支援学校の生徒さんが描かれていた誰にも真似できない素晴らしい絵、魚や動物のドットや縞模様を数学の数式で表す数学者など、子ども達一人一人にはその子しかない素晴らしい才能が眠っていると思います。そんな子ども達の中で、先生が仰っておられた「自分を磨く。大河(既存の社会構造)の中でも清くエネルギーを持ったコップ一杯の水となる」ことをひたすら続けていくことがまさに明確な答えであり、自分だけでなく、周囲も守り、そして幸せにしていく希望の道筋であると認識を深めることができました。そして、ただの知識の習得ではなく、天体観測で地動説を証明したコペルニクスやガリレオ、目の前のリンゴが落ちた現象から地球や宇宙規模で捉え、万有引力を発見したニュートンなどのように、本来であれば自然と宇宙の真理や人間の潜在力への認識へと繋がり、深さや高さに向けて歩んでいっている、その子ども達の邪魔をしないこと。まだまだ私には難しいですが、それを手伝う教育をしていくこと。「教科書は最低限教えることであるから、これだけ薄い。あとは自分で必要なことを加味していくように本来はなっている。」と先生が仰られたのをお聞きし、何も知らず、これまでこれだけ教えれば仕事上は十分だと考えていた自分の姿勢を反省致しました。その事をもし知っていても先生に学ばさせていただいていなければ、雑学程度の勉強しかせず、子ども達に授業の合間にする雑談程度で満足していたと思います。先生がお示ししてくださっている人間の潜在力、真理という真の方向性に繋がる深さ、高さを求めて、まずは自分自身が勉強を進めていこうと思います。

このように学ばさせていただく度に、自分の考えや認識を改めさせていただけるのも、先生がメリケンサックや様々な検証をしている際に仰っていた「本当の信頼」をお示しし与えてくださるからこそなんだと、昨日は言葉だけの捉えでありましたが、今感想文を書きながら、その御言葉の意味を強く感じつつあります。子ども達にはできて、私達にはできない。この事実を謙虚に受け止め、自分が元気になるためではなく、先生が御教示くださっている人間の潜在力の発揮に向けて、子ども達がそこに進めるよう、宇城空手をとおして自身のエネルギーを高め、対立構造から調和構造に向けて歩みを進めて参りたく思います。

宇城先生、この度も本当に貴重な御指導を賜り、本当にありがとうございました。また、教師塾の塾生の皆様とお時間を共にでき、自分の職場でも頑張っていこうという思いが強くなりました。本当にありがとうございました。これからも何卒御指導、御鞭撻の程、宜しく御願い申し上げます。

●大阪 大学 60代 男性 

宇城先生、今年度の「第1回・教師塾」でのご指導、誠にありがとうございました。

最後にお話がありました中で、「教育にかかっている」という言葉がその後ずっと残っております。それは『「教育にかかっている」=「我々にかかっている」』ということであると受け止め、身が引き締まる思いが致します。

いま日本がどんどん取り残されている、遅れている、衰退している、進むべき方向性がズレていっているという中で、エネルギーがどんどん下がっているというご指摘、それは子供たちの未来を奪っているという捉え方ができる一方、大人の存在、教育現場の在り方にも通ずるところでもあります。

テレビの報道や週刊誌(見ることはありませんが…)、SNSなどでは、政治家やプロ選手の不祥事など次元の低い報道が頻繁に流されています。それだけ世の中のレベルが下がっているともいえますし、そういったところに食いつく人間がどんどん増えてきているという次元の低い世の中になってきているのだと感じます。「どうして…」という捉え方をせず、ただ他人事として面白おかしく見ているだけ…。何をもって国政(政治)なのか、何をもってプロなのかという「中心」がどんどんずれていっているように感じます。こういったことは決して他人ごとではありませんし、まさに教育現場に居る自分がどう在るべきかを改めて問われているように感じます。

以前、「野鴨の哲学」というものに触れたことがあり、そこに出てくるデンマークの一番の嫌われ者だった哲学者・キェルケゴールという人の話です。キェルケゴール自身は、裕福な家庭に育ったのですが、父親が家政婦を手込めて産ませた子供で、生まれながら脊椎の病気を患い屈折した青春時代を送っておりましたが、転居した湖の畔に野生の鴨が飛んできては、美味しい餌に飼いならされて次第に飛ぶ力がなくなってしまう光景を目にするという内容です。それを見たキェルケゴールは「安住安楽こそがすべての悪の根源だ」と言い、ゲーテが残している「安住安楽は悪魔の褥(しとね)」という言葉と重なります。戦後の日本(日本人)も経済の豊かさと平和に酔いしれて安住安楽を求めるようになりましたが、キェルケゴールはそういう生き方を厳しく攻撃し「飼い馴らされた太ったアヒルになるな」と警告したといいます。昔から「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今はそこをどうも勘違いしているような、そういった言葉も聞かなくなりました。便利・やり易さばかりを求めるようになり、自分がそういう環境で育つと、自分の子供にも同じよう(それ以上)に与えてしまう。昔は「苦労は買ってまでしなさい」という教えがありました。環境に恵まれない、苦労が多い時代こそが実は「よき時代」といえます。そういった時代は、例え恵まれない環境下であっても、お互いを思いやり、助け合い、寄り添い、支え合う時代でした。感情ではなく「真剣」に怒る大人がいました。そういった大人の姿を見て、悪いことをして怒られながら子供たちは自立し、大人の背中を見ながら育っていきました。それが今では自身で道をつくり、拓くことができない環境(親・大人はそれが子供にとって良いことという甘い思い込み)にしてしまっている。それは狭い檻の中で飼いならされると子供はどんどんエネルギーが下がり、自分というものを持てなくなるばかりか、行動・実践すらできなくなり、そういったストレスが周りに危害を加えたり、自分勝手な行動に出たり、平気で人を傷つけたり、まさに何が正しいのかという本来持っているはずの自分にすら気づけなくなっています。宇城先生が常々仰っている「本来あるべき自分」に立ち返る、「気づかせる・気づく」、エネルギーを高めるというところからどんどんかけ離れていくようにすら感じ、与え過ぎるが余り「夢・希望」を持てなくなっている若者がどんどん増えてきているように感じます。世の中が機械化、自動化され、便利という時代になったとしても、人間は機械ではありません。心があります。その心を育てるのが教育であります。それは本来与えるだけのものではなく、様々な周りの環境や「本物」から自分の中で感じとり、実践を通して掴み、エネルギーとして湧き上がっていくもの。そして周りの人を幸せにすることが真の幸せであるということ。そこを教えるのではなく、そこに「気づかせる・気づく」場が失われている(無い)ように感じます。本来あるべき教育とは、大人が子供のやり易いように整えることではなく、自らが動き、自らが変化していく、そういった中から自立し、責任ある心、人を思いやる心が育っていく。まさに教育現場が「気づかせる・気づく」場であるべきだと感じます。学生に「なぜ自転車に乗れるようになったか」と問うと、ほとんどの学生からは最初は「練習をしたから」という返答が返ってきます。自転車は練習をして乗れるという発想が「練習」です(スポーツがそうなっている)。何度も「こける」という体験を通して乗れるようになることは「稽古」であり「鍛練」であるといえます。そこから実践を通しての心が育っていくと感じます。だから自転車は年齢に関係なく、一度乗れたらずっと乗り続けることができる。しばらく乗っていない時には「練習する」からではなく(ウォーミングアップをしてから…ではなく)、練習などしなくても身体で乗れる(覚えている・無意識で、、、)、呼吸で乗れる、迷いや不安などなく「乗れる」という空気の中で乗れる、それだけ「人間の身体は優秀である」ということを宇城先生から伺って以来、すべてにおいての捉え方が大きく変わりました。例えば「倒立」を補助付きでやっていると、いつまで経っても自分一人で立つことはできません。一人で立つという身体はいつまで経っても身に付きません。まさに自転車に乗れるようになるのと同じです。何度も「できない」という経験を通して出来るようになる。「できる」にもレベルがあるように、「できない」にもレベルがあります。それが心の在り方だと思います。できるとは、中心ができる、中心でできるということであると今回の様々な実証の中で感じました。倒立も、ずっと補助付きでやっていると人の手を借りてできるという身体だけで、一人で立てるという身体にはなりません。倒立にしても、自転車に乗れるようになる過程でも、人の手を借りてできたことを続けていると、次元が高まるうちに人に頼っているだけでは「おもしろくない」と本来は気づくはずです。こけること、思い通りにいかないことから逃げない心が「真剣」だということだと思います。そういった中で宇城先生に「気」を通していただくと、一人でもできるし、人数は関係ない、気が人と人を繋げる実践実証では、まさに周りの人とも調和することができる。どちらもできる。誰とでも対立することなく仲良くなれる。いまの教育にもっとも必要なことではないかと実証を通して改めて感じます。

キェルケゴールの存在の哲学は、勇気と希望を与えていると、、、まさに宇城空手の根源と同じだといえます。「哲学は学ぶべきものにあらず、哲学することを学ぶべし」ということであり、実践・実証しなければ哲学ではない、ということだと感じます。まさに宇城先生からの学び、気づき、瞬時にその瞬間変化する。その空気にすでに包み込まれている。その人の存在が、場の空気をつくり、周りと調和し、人の心に伝播していく、それを実践・実証を通して気づかせていただくことができる。まずは自分がやって見せる。明らかに、始まる前、進んでいくと共に、そして終わった時の自分は違います。できた・できなかったの違いではなく、気を通していただく中で、「できない」ということがない自分に気づくことができます。そして、時間を止めているのは自分自身の思考中心の癖であるということを改めて気づかせていただく時間となりました。
「空気を変える、空気に入る」実証では、手を前に伸ばし、手を押さえてもらう実践。「間」というものを身体で捉える。固いものに手を入れる、柔らかいものに手を入れる、空気に手を入れる。明らかに変化した。抑える前に分かった(感じた)。その際に感じたのは「中心」であった。気が通ると、何も関係ない。できないもない。気が人と人を繋ぐ、連鎖する。それが教育。

気が通った人が倒れ、その人の足を掴むとどんどん簡単に投げられる。足の力は全く関係ない、むしろ気が通っている時は、自身の肚(中心)があり、間違った本来の力は一切要らない(力みもない)。足で投げているという感覚ではなく中心で気づけば投げている(勝手に相手が倒れている)。そして投げた者が勝ちで、投げられた者が負けではない。お互いが笑顔になれる。気が人と人を繋ぎ、本来ある自分に立ち返ることができる。

「対立からは何も生まれず、調和こそが無限の可能性をどこまでも広げていく」。そして人が人を繋ぎ、人を生かことに繋がっていく。
これからの教育とは、次世代の未来ある子供たちの夢、希望であると感じました。ありがとうございます。
今後とも、ご指導よろしくお願い申し上げます。

●奈良 高等学校 30代 男性 

今回の教師塾につきまして、ご多忙の中、貴重なお時間をありがとうございました。

特別支援学校の生徒が宇城先生を写し、1対複数人の腕相撲を返したり、大人のスクラムを押し倒したり、いろいろなことができるようになる動画を拝見させていただきました。大人(健常者)ができないが、その生徒はできる。違いは、素直で純粋な心でいることでできることを表しており、大人は知識、経験が邪魔をしてできない。大人より力を発揮する能力があるのに我々大人(社会)が、失礼な表現になりますが、障がいのある人を勝手に自分たちよりできないと思ってみている現実があります。情けない限りです。これもモノを見ている位置が低い証拠だと思います。子どもや障がいのある人ができて大人ができない。この世界を知っているのと知っていないのでは大きく違います。子どもへの見方、障がいのある人への見方が確実に変わります。私自身にも子どもが2人いますが、宇城先生にお会いしてから自分の子どもへの向き合い方も確実に変わっています。「どこでモノを見るかが大事」と先生がおっしゃっていましたが、先生に出会う前と出会った後のことを考えると本当にその通りだと思えています。自分のレベルを上げて見え方が変わると考え方や答えも変わってくるので、低いレベルでとどまることがないように、謙虚に学び続けないといけないと思います。

その後の話では、日本はタイやインドネシアより給料が安く、有能な技術者たちが海外へ出ていく。その結果、子ども世代は出稼ぎに行かないといけない時代が来るという現実的なお話もありました。メリケンサックを使った実証では、覚悟と真剣の大切さ、また、そこからくる信頼について教わりました。普段の生活、学校での生徒への対応を含め、覚悟と真剣さがまったく足りていないと感じさせていただきました。覚悟と真剣さを持って将来どういう生き方をしていくのか、生徒たち、子どもたちに伝えていかなければならないと思いますし、日々の一瞬一瞬を大切にしていきたいと思います。

やわらかいねんど、豆腐、空気に手を入れて腕を押さえてもらう実証では、人間は目に見えないモノを信じる力がないという体験し、目に見えないモノが大事であることを教えていただきました。目に見えないモノ、心、気、そこにつながっているんだと実感しました。先生がおっしゃった「生徒や子どもにワクワクを作らないといけない」この言葉が教師として身に染みましたし、できていないと感じました。生徒や子どもたちの意欲を掻き立てられるよう教師が勉強をし続ける必要があるので、この教師塾の場を大切にしながら、日々の生活に落とし込んでいかないといけないと思います。

筋トレの必要がなく、それでも体が強くなることを確認するため、普通の腕立てと復活体操の腕立てをした後に立って腕を前に伸ばし、腕を上から叩かれると痛いか痛くないという実証がありました。復活体操の後の腕を叩くときに、先生と目が合いましたが、痛いことがわかっていたので前に足が出ませんでした。次に普通の腕立ての後の腕を叩くときに再度先生と目が合い前に出て叩きました。その後、先生からさっき(叩けば自分が痛いとわかっているとき)は出て来なかったけど、今回(叩いても自分は痛くないとわかっているとき)は出てきて叩いたことについて、不登校生徒の対応に例えて話をしてくださいました。「学校に来なさい」ではダメで、「同じ目線に立ってあげる」「安心感を与える」ことが大事であることを手を引っ張る実証で確認させていただきました。今後の学校生活で先生という立場に浮かれることなく、活かしていきたいと思います。

その他、中心を作ること、決断は2進法でなど、今後の生活で取り組んでいけることがたくさん散りばめられていました。いろいろな実証を通して、先生に気を通していただき、そして、希望(ワクワク)をいただきました。生徒、子どもにも希望を与えることができるように日々邁進したいと思います。

貴重な時間をありがとうございました。

●三重 高等学校 30代 男性 

この度もご多用の中、貴重なご指導をいただき誠にありがとうございました。また、見えないところで様々なご準備をいただきました、教師塾の関係の先生方、二名中学校の先生方、誠にありがとうございました。

宇城先生の真剣なお言葉から教育の未来と現状を危惧されていることを改めて感じました。未来の子どもたちのために指導する時間が足りない、スピードを加速させなくてはならないということを、宇城先生の行動から学ばせていただきました。お時間を延長していただいてまでご指導いただける私達は幸せです。それと同時に私達教師の向こう側に子ども達がいて、繋がっているからこそ、私達教師に課せられた使命はとても大きいものであることを感じました。

「ビルの屋上から見る視点」と「地上、地下から見る視点」の違いのお話をいただきました。私は確実に地下の方向へシフトしています。「忙しい。」毎日、何かに追われ、自分で勝手に疲弊しています。もちろん、私の目の前にいる生徒には「心なし」の行動が完全に映ってしまっています。2次元の狭い空間で生きる「間抜け」な自分です。平面や点ではなく全体を広く見る、見える身体にしたい、気が付いたらなっていたという身体にしたいと思います。

世界中で誰もできないこと、真似できないことが出来る力が今後、必要になると宇城先生は何度も言われました。「目に見えるもの」、「常識」にしか価値を見いだせない大人。さらに加速する、世界の対立や衝突。「目に見えないもの」にこそとてつもないエネルギーがあります。宇城先生に示していただく「目に見えない」エネルギーに触れることで自然と謙虚な身体になります。ここに全ての答えがあるのだと思います。冒頭に拝見しました特別支援学校の生徒が発揮する力の数々。「常識」とは何なのか。頭で考える狭い枠を取り払い、本来生まれながらにして持っている力を閉ざしてしまう、今の教育に対する矛盾と相対していきたいと思います。

様々な実践の中で「間を締める」「空気を変える」絶対に私にはできないことを経験させていただきました。宇城先生がおられる5次元の空間に包まれることで、自分のレベルの低さ、身体や心の弱さ、頭優先の自分に気付かせていただけます。これからも自分自身に寄り添い、弱い自分に問いかけていきたいと思います。今後ともご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

●米国 高等学校 50代 男性 

先日の教師塾の講義で私が一番強く考えさせられたのは、子供たちを指導教育していく上での教師としての覚悟です。列でスクラムを組んだり、輪になっているときに先生の気のパワーで動かされているとき、勢いに負けて輪を切ってしまったり、スクラムを崩してしまったとき、先生が「そういう人は裏切る」と言われたときすごくショックを受けました。私の列も崩れてしまったからです。いくら口で偉そうなことを言っても行動は嘘をつかない。先生の気のパワーを感じ、受け止めて、切らずにおくことができてない私です。そして私にはその覚悟がまだまだできてない。子供たちの未来を守っていくという、教師としての自覚と覚悟ができてないと痛切しました。生徒と目線を合わせたら列を引っ張ることができたり、中心を合わせたらスクラムを倒せたりするということも教えていただきました。本当にたくさんのヒントを教えていただきました。本当にありがとうございます。これから日々の実践の中で活かしていくように頑張ります。

  目に見えないものを感じるセンサーです。宇城先生の発する気のパワーや目に見えないものを感じ取る力です。粘土の中に手を入れれば強いのに空気だと弱い。頭で想像できないもの、目に見えないものを感じ取れないのは、頭のフィルターが毒されているからだと常日頃から宇城先生から教わっています。目や耳で感じるのではなく細胞で感じなければならない。まずそこから始めなければ、周りの空気を変えたり重力を重くしたりはできないのですよね。先生の実証に常に首を傾げてしまったり、どうしてだろうと思ってしまったりしてしまいます。子供たちのように素直に感動し目を輝かせるようになりたいです。技もすぐ自己中になり、かけてやろうとか倒してやろうとか考えてしまい、せっかくできていても気を切ってしまいます。

  講義の冒頭で流されたビデオで、いわゆる「ハンディキャップ」があると言われている方々や子供が、いとも簡単に塾生を腕相撲で倒したり、動かしたりできているのを目の当たりにした時、いわゆる「健常者」や大人と言われる私たちができない。東大や京大といった偏差値の高い大学を卒業した人達ができない。これは、全く「病気」に冒されているのはわたしたちで、能力が劣っているのは我々「健常者」である大人なのだと思い知らされました。そんな社会を作っている我々の罪は大きいですね。こんな社会を変えていかなければと決意を新たにさせていただきました。

  宇城先生、教師塾への参加を許していただきありがとうございました。空手実践塾を始め野球塾と多くの学ぶ場を与えていただき感動しかありません。宇城塾での学びの深さで自分はこれまでの人生一体何をやってきたのだろうかと考え込んでしまいます。まだまだ未熟な自分に気付かされ愕然とすると同時に、学び成長していける自分にワクワクもしています。宇城先生、これからも引き続きよろしくお願いいたします。

●奈良 中学校 40代 男性 

今年も教師塾を開催して頂き、誠にありがとうございます。また、お忙しい中、たくさんのお話をして頂き、本当に感謝しております。ありがとうございます。

最初に特別支援学校での指導の様子を見させて頂きましたが、本当に感動しました。生徒さんの言葉にとても温かさを感じ、ご家族の関係もすごく良いのだなと感じました。あの温かさを感じる関係が、先生のおっしゃる「信頼」なのかと思います。見守られている、守っている、守ってもらっている関係がすごく感じました。生徒さんも先生の気による指導を体で感じて、うつっていき、自分でもできるようになっていく様子は頭ではなく、体で感じていくんだと思いました。私は生徒さんが先生のどこを見ているのかと思っていましたが、先生の全体を見て、感じているのかなと思いました。生徒さんが指をクルクルと回して、人を動かしている時に、ほかの人がやっているとクルクルと回している指の速度が早く感じ、合っていないように感じたのですが、生徒さんはピタッと相手の指とつながって回っているように見えました。先生のおっしゃる「間」というのは、こういうことなんだろうなと思いました。言葉ではうまく説明できませんし、自分で出来るわけではありませんが、「間」が合う感覚が少し分かったような気がします。指を回すことで相手の指を回そうとしてしまうのですが、全体を回そうとなれば、回すことも可能な気がします。

「信頼」という言葉を聞いて、私は少しドキッとさせられました。やはり「信頼」を無くして、人間関係は築けません。私たちの仕事は人との関係を築くことが一番大切なのです。生徒はもちろん、教員との関係もしっかりとした信頼に基づいていかないといけません。自分にできているのか、自分の指はちゃんと「間」をもって動いているのかを考えさせられました。自分の「間」がちゃんとできていれば、信頼をもってできていることに心配や不安を感じることはないので、まだまだ実力がないんだなと思います。私はまだまだ部分的に物事を見てしまうことが多く、全体で見ることができていないように感じます。先生がおっしゃられていた高い位置が見ることは、本当に大事だなと思いました。全体が見えないと見えるものも見えなくなってしまいますし、「信頼」もなくなります。自分も無くなってしまうんだろうなと思いました。6人の列を前から押すことをさせて頂きましたが、相手の中心を押しても力は出ませんが、自分の中心を作れば、押すことができました。部分的に見ると、相手を押すことだけになって、自分勝手な行動になってしまいますが、全体的で考えれば、自分の中心と相手の中心が合えば、同じ方向に動くので、相手を押すことは簡単にできるように思いました。自分の中心と相手の中心が別のものだと感じてしまうことが駄目なんだと思いました。でも無意識になってしまうので、本当に難しいと思いました。

私は今の学校で幼い頃から教育、愛情が本当に大事だなと痛感しています。私は中学生と一緒に過ごしているので、その中で「信頼」「愛情」「自分の中心」をもって伝えていくことができればと思いますが、まだまだ自分には実力がないんだなと思います。自分にもっとエネルギーがあれば、助けることができる子どもも増えるのではないかと感じます。そのためには、二進法で行動することが本当に大切だなと思いました。

私の学校では、違法行為、深夜徘徊、授業に入れない生徒、不登校、ネグレクトなど問題がたくさんあります。今までのように一つひとつに取り組んでいくことももちろん大事ですが、量子力学のような大きなエネルギーが広がれば、問題は解決していくんだろうなと思います。特別支援学校の生徒さんとの指導をされている宇城先生の姿を見て感じました。温かさの中に厳しさを感じ、安心感も感じながらやってみる。できた感覚はエネルギーをもらった感覚なんだと思います。私自身も先生に御指導いただいた時に感じるものです。エネルギーを与えることができる指導ができれば、本当に良くなっていくんだろうと思います。私にはまだまだですが、少しでも周りの人を助けていけるように、また自分の中心を常に探しながら、頑張りたいと思っています。二進法で行動が出来るように頑張ります。

また今年度も御指導をして頂きまして、誠に有難うございます。今後とも何卒宜しくお願い致します。

●奈良 高等学校 30代 女性 

特別支援学校の二人の生徒さんの映像を見て、思わず笑顔になっていました。私は宇城先生の実践を体験させていただき、「これなら出来る」と思ったことは一度もありません。宇城先生に目の前で実践していただいても、触れて体感させていただいても、気づかない身体です。ですが、二人の生徒さんは「もうすでに出来ている」。「これなら出来る」と歩み寄り、行動に移すことができる大人(健常者)はいないでしょう。彼らは自分の身体でなにができるのか、どのようにしてできるのか知っていました。遥かに身体のレベルが高いです。お父さんが何度も言っていたように、すごいのです。見た物を素直に受け取り、写し出す。大変驚いたことは、その写す力です。ピタっと合うのでしょう。その場に居合わせたなら、きっとそういう感じなのかなと思いました。二人の映像を見て、彼らにできて、私たちが出来ないことがある。という事実を忘れてはいけない。調和が大切と口で言っているだけで、身体は傲慢で自己中です。何を以て健常で、何を以て障害なのか。また、映像でも宇城先生は常に「その先」を見せておられました。相手の「できる」を気づかせ、見えないエネルギーを増大させる「術」を示す。そしてご自身で「希望」を見せる。教育とはどういうことなのか・・・。

鉄をお腹に当てた状態で正拳突きや肘撃ちを行うと、両者とも当然痛いです。ですが宇城先生に掌を鉄と共に撃たれても痛みはありません。エネルギーは貫通します。信頼関係という目に見えない力は、人を護ることができます。空気が護ってくれる。その空気が教室内にあるか。今回は、その繋がりや信頼関係が切れてしまうことも実証されました。怯えや疑心=自分との衝突と傲慢は、人の繋がりだけでなく身体もバラバラにしてしまいます。繋がる身体を持てば、1人でも100人でも1000人でも同じ。すべてを動かせるし、思い通りに導くことができます。特別支援の2人もやって見せてくれました。やはり身体です。

宇城先生に学ばせていただき、5年となりました。本当に少しずつですが、5年前に「今」がすでにあり、これからの未来は5年目の「今」にあることが感じられるようになりました。最近は宇城先生が言われる、5次元の広がりがよく心に出てきます。まさに先生が仰ったように、迷子状態の私をビルの高さどころか宇宙から見てくださり、時間でも空間でも守っていただいているのだなと。私自身、高校3年間は毎日ソフトボールに明け暮れていました。休みはなく「打倒私学」を掲げ、昔ながらの根性論で育ちました。縁あって、その頃の監督と一緒に昨年現在の高校に異動し、今年から同じソフトボール部の顧問になりました。働き方改革で、練習時間は変わったものの指導方針の根本は変わっていません。懐かしい感覚もありますが、危機感を持っています。部活動(スポーツ)ですので、やはり衝突ありきの世界です。目に見えないものを引き出す世界をその監督に一番分かってもらいたいと、強く感じるようになりました。この感覚・気づきをくださったのは宇城先生です。教師塾では懇親会も含め、出会う先生方の実践や、苦しみ、葛藤など聞く機会があります。まずは自分が変わらないと、周囲は見向きもしないことに多くの先生方が悩んでいました。私には、影響力も人を引きつける魅力もありません。周囲に伝播しないのです。無意識に「なぜ?」ばかりなのでしょう。同じところをグルグル回るだけです。日本の経済や教育は酷い状況になるばかりです。本当に私たちの子どもの世代は海外へ出稼ぎに行かなくてはいけないでしょう。何を求めるか、となれば生き抜く「術」を求めるでしょう。答えはここにあります。宇城先生に学び、伝え広げ、世代を超えて護ることが私たちの役割です。目の前の生徒はスポーツの代償と受験と競争に押しつぶされています。今の学校での実践を重ね、「変化」を生み出したいです。目に見えるものだけで生きることほど、危険で未来がないということをどうにか伝えたいです。勉強いたします。

今年度も教師塾を開催いただきまして、ありがとうございます。今後ともご指導、よろしくお願い申し上げます。

●兵庫 高等学校 40代 男性 

教師塾でのご指導、ありがとうございました。

冒頭の映像で、一瞬で先生を映し、私たちができないことを簡単にやってしまう生徒さんたちが紹介されました。力が引き出され、自分に自信を持った人の姿、エネルギーに満ちた表情が強烈に印象に残りました。また、生徒さんが描かれた絵、私たちにはない感性で捉えられていました。

今回は「目に見えないもの」が私たちを大きく包んでいることを身を持って感じさせていただき、目に見えるものに大きく頼ったままでは今ある問題は解決しないことを教えていただきました。先生は「3世代で考える」ということをおっしゃっておられました。それは、私たち大人が変わることがいかに難しいかということですが、いつかほんの少しでも理解できるようになりたいと思います。また、自分の教え子達にも冒頭の生徒さんのような体験をさせてやりたいです。できるようになることは無いですが、目指して進んでいくことが私たちの責任であると教えていただいたと感じています。もっと真剣に、目指して行きます。

この4月から新たな学校で勤務しています。「まずは学校の様子をつかむこと」と思いながら過ごしていましたが、この期間、確実に時間が流れていることを感じられず、自分自身の時間が止まってしまっていたことに気づかせていただきました。甘い自分が情けなくなりますが、先取り、広がりを忘れず、スピード感を持って勤務していきます。今年度もご指導の程、よろしくお願いします。

●奈良 高等学校 20代 男性 

先日は、「教師塾」に参加させていただき、また時間を超えてまでの熱いご指導ありがとうございました。9時半になって事務局の先生が時計に気づいたとき、終わってしまうのが悲しく、可能であれば、もっと長い時間同じ空間でご指導いただきたいと心から思っていました。冒頭で特別支援学校の生徒から、たくさんの事を気づかせていただきました。 大人はできないことを、見ただけで映すことができる。自分にはできない。もし私があの生徒の担任になれば、才能を閉じ込めてしまう現実に、情けなさや悔しさを感じました。 なぜ、才能を閉じ込めてしまう指導になるのか。自分自身ができないから、目に見えるルールや誰にでも教えれることしか教えることができない。それを当然のように生徒に言いつけて、理屈で教えている。先生と呼ばれる人は「やってみせる」ことができること、潜在能力を引き出すことができること、生徒の少し先を行っていること。生徒に対して、なぜ何回も言っているのにできないのか!ではなく、指導する自分の問題ということを気づかせて いただきました。腕を組んで、円になり、みんなで協力して回るという実践ではみんなで声をかけて回っているとき、全くそろっていませんでした。先生が真ん中に立たれると、一気 に加速し、頭では止められないエネルギーをみんな感じていました。クラスでこれができるとすごい集団になるなと思いました。これも全て先生次第、自分次第だなと思いました。 高い所から物事が見えることが大事で、学校で日々起きる問題も自分が低い所でしか見れていないから行き詰まり、結果的に判断が遅く誰にでも判断できる行き当たりばったりの 指導しかできていないと感じました。ではどうすれば、高いビルの上に行けるのか。自分で考えても答えは出ませんでした。宇城先生がおっしゃってくださった、「困っている人がいれば寄り添う」「同じ目線に立つ」ことを日々の生活で自然と実践できるまで自分を高めて いくしかないと思いました。列を前から引っ張る実践で列の先頭をさせていただいて、最初に前から引っ張られるときは、「他人」という感じがしましたが、同じ目線に立ってもらうと、学生の頃に感じていた「先生」を思い出しました。なぜか安心して、引っ張られるではなく、自分の方から「ついて行く」「引っ張ってもらう」そんな感覚になりました。 身体で感じることができ、私も生徒に対してそんな感じ方をしてもらえるよう自分を高めていこうと思いました。 また、宇城先生が型を見せていただきながら大きな声を出されたとき、完全に身体がびびっ てしまい、これが剣をもっている時代なら、「参りました」となっていました。 貴金属店に強盗が入り、銃を持っている人がいれば、犯罪は起こらないとおっしゃっていてそのときは頭だけの理解でしたが、宇城先生の気迫を感じたとき、これは絶対に悪いことをできない。心が手を引っ込めて万引きしないというお話の意味を理解させていただきました。これらは全て理屈では通らない。指導する人間が宇城先生のようにできなければ、希望が出てこない。今回の「教師塾」でより一層、自分の未熟さと、先生とはどうあるべきかを感じさせていただきました。このような素晴らしい体験をさせていただいているのに、行動に移さないのは、自分の甘え、いい加減さだと思います。 一生勉強し、先生になる。という気持ちを常に持ち、生活していきたいと思います。 今回も、ご指導ありがとうございます。今後ともご指導のほどよろしくお願い致します。

●奈良 高等学校 30代 男性 

今回の教師塾でもご指導頂きありがとうございました。今回も多くの気づきを与えて頂きました。

最初に視聴した映像で特別支援学校に行っている生徒の一言がとても印象に残っています。先生が肩に手を置いて列になった人たちを動かす様子を見て、「これだったらできるかも」と言いました。今回もそうですが、これまでに参加させていただいた会で自分も同じような感覚を持ったことがあったからです。例えば、同様に列になっている人を前に、自分が引っ張るという行動を起こす前に、引っ張れるのか、引っ張れないのか分かるという感覚です。今回について言えば、相撲のように相手と組んでいる時、これは倒れないな、と分かる一方で、先生と組んでいる時にはもうすでに倒されている未来が分かるというような感覚でした。このような感覚を自分は指導している時に生徒に与えられているのか考えると、答えはノーだと思います。自分が担当している教科を教えている時に、生徒のやる気に火をつけるような指導が出来ているのか。本当に信頼関係を築くことが出来ているのか。口では生徒に寄り添った指導を、と簡単に言えますが、それが本質的にできているのか怪しいです。

まず、寄り添うということについて考えてみました。ダブレットが一人一人の手に渡り、学びが個別最適化されていることが寄り添っている指導でしょうか。学習の進度が様々な生徒に対して、動画等の補助教材を使って勉強してもらうのが良いことでしょうか。私は違うと思います。基本は授業だと思っています。授業の中で寄り添うことは出来るのか考えてみたところ、次のようなことを思い浮かべました。ChatGPTのような生成AIが台頭してきている中で、変えなければならない部分がもちろんあります。ただ単に知識の伝達をするのは意味がないです。しかし、教員として変わらない部分は、教科の魅力を情熱を持って伝えること。そして、生徒の中にやる気の火をつけることだと思います。自分が面白いと思っているものを人に伝える時には自然と熱が入るものです。その熱が伝達して行って、興味を引くことが出来たら良いと思います。その為には、圧倒的な実力がないとダメだと思います。先を見据えた時に、どんな力を身につけておいて欲しいのか。これを生徒に直接伝えることができるのが授業だと思います。VUCA時代を生き抜くための力を身につける、またはその基礎を作るような展開をしたいと思います。これが今自分のできる寄り添いだと思います。

また、全体を見るためには視点を高くすることが必要だということは常々感じているところです。私の好きな風刺画に本をどれだけ読んでいるかによって見える景色が違うというようなものがあります。俯瞰的に見るという点において通じるものがあると思います。先を見通しての自己投資は現在進行形で行なっているところで、それをどうやって周囲に、または次世代に繋ぐのかが自分の中で課題になっています。まだ何も成し遂げたわけではないですが、この過程時代が楽しいです。大きな営みという視点から見れば、自分自身というのはあまりにも小さな存在ですが、それでも草の根で出来ることはあります。自己投資をして自分の視点を高め、自分が見たものを周りに伝えることは一つの社会貢献かと思います。現在の日本の低迷は各所で取り上げられています。超高齢化社会としてまだどの国も経験していない諸問題に立ち向かわなければならず、日本の取り組みが世界の参考になる可能性がありますが、このままでは心許ないのが本音です。一人一人の視点を高める必要性があり、ビジネス一辺倒のメディア、政策に踊らされず、自分の頭で考えて行動することが必要だと感じます。 今回もありがとうございました。

●奈良 中学校 30代 女性 

ご指導ありがとございました。

メリケンサックの前に手を置いているとき、近くに先生がいらっしゃることでとても安心感がありました。以前野球塾で体験させていただいたときは、先生以外の方が構えると不安があったのですが、今回はそれも全くありませんでした。以前と何が違うのだろうと不思議に思っていたのですが、宇城先生のお話を聞いて、信頼があるからなのだなと分かりました。うまく表現できないのですが、自然と絶対大丈夫だと思える、守られているという感じがしました。どれだけ、口で信頼していると言っても、それは頭で思っている部分体だったから、無意識に不安があったり恐怖心があったりしたのだと思います。統一体というのは、こういうことだったのだなとよく分かりました。よく教育現場で信頼関係や安心感という言葉が出てきますが、本当に信頼があるというのは、守ってもらえると感じ、自分も強くなることなのだと思いました。

そうやって思うと、宇城先生にお話ししてくださっていることは、すべて同じで、いつも私たちに伝わるようよう、様々な角度から実践をしてくださっていたのだなと恥ずかしながら今更気づきました。先生のエネルギーで包んでいただくことで、私はいつも元気になり明日からも頑張ろう、やってみようという思いが溢れます。子どもたちにも、同じような気持ちになって安心感を持ってもらえることができたら、いきいきとエネルギーに満ちた生活を送ることができるはずだと思います。その役目は、教育という場所で子どもたちと関わる大人が学んでいかないといけないと思います。

また教職に復職し、元気を与えられるよう、日々勉強していきたいと思います。

ありがとうございました。

●奈良 高等学校 30代 男性 

第1回教師塾でのご教授ありがとうございました。

最初の動画には驚かされました。動画の中の子どもが、一度先生の実践を見ただけで再現できていました。社会的に障害をもつという表現をされますが、先生の仰る通り、どちらが障害をもっているのか。と疑問が頭の中によぎります。

また、冒頭にお話し頂いた、日本の現状についての内容では、日本の貧困化が急激に進んでいる事に衝撃を受けました。普段から目の前の生徒に対して、英語の必要性を話すことはしてますが、ここまで目の前に直面している課題となっていることに気づいておらず、社会経済界とのつながりのない学校環境に身を置いていることへの危うさを改めて感じました。

目の前にいる生徒に、どのような力を身につけさせたいのか、また、大人のせいで本来持っている子どもたちの可能性をつぶしてしまっていないか、振り返るきっかけにもなり、さっそく学校で生徒に対して問いかける機会を設けました。

毎度宇城先生のこの教師塾にて投影いただく準備資料の多さに驚かされ、自分が普段行っている授業に向けての教材研修の甘さに気付くことができます。

後半の実践では、やはり外から見ているだけでは分からない気づきが列の中に入ることで実感できました。特に驚いたのが、列自体が左右にうねっている状態であっても、先生が軸を捉えて押すと、エネルギーが全体に行き渡り、真っすぐ力を受けた点です。

メリケンサックを使用した信頼についての実践は、野球塾でも見させていただきましたが、やはりただただ驚くばかりでした。これが本当の信頼感であり、生徒の前に立つ者は、本気にならないといけないという事を学ぶことができます。

現在の学校での勤務が4年目になった今年は、小さなところからでも、本気で学校を変えたいという思いが強く、日々0から1をつくる作業をしています。その中で自然と、強引に物事を進めようとして、衝突してしまっていると感じることが多くなってしまっています。

なかなか難しい思いをする毎日ではありますが、今回も教師塾に参加させていただき、稚拙な表現とはなってしまいますが、元気が出ました。

教育現場にいる人たちですから、誰もが子どもの成長を望んでいるはずです。職場全体が一枚岩となってより良い環境に変えていけるよう、まずは自分のクラスや部活動、授業を受け持っているクラスに対して、本気になってぶつかっていき、そこから一歩ずつ進歩していきたいと思います。

大変な多忙の中、今回も教師塾でご教授いただき本当にありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします。

●奈良 中学校 50代 男性 

宇城先生、お多忙の中、奈良教師塾にてご講演いただき誠にありがとうございました。会場として本校にお越しいただき感謝申し上げます。

今回の講習会では、今の日本の現状と我々教育に携わるものの使命感や目指すべき指針を学ばせていただきました。まず、世界における日本の現状について、タイなどの東南アジアの国々よりも日本の平均月収がはるかに低いという事実により、人材がどんどん外国に出て行っているというのは危機的な状況にあると感じました。日本国内でも技術が継承できない状況にあるにも関わらず、それをつたえるべき経験豊富な人材が外国に流れている現実は更に深刻であると感じました。今までの慣例に従った固定的な価値観ではこれからの世界や世の中を生き抜いていけないのだと気づかせていただきました。ご指導の中で、先生は大人は変わらない、しかし子供は変わる、そして潜在的な能力が間違いなくある、それを宇城先生は実際に体験で示してくださっている。未来に向けての希望は子供たちで三代かけて教育していくことが大事である。だから、今の子供たちに向けての教育を変えていかなければいけない。私自身、子供たちの可能性を引き出す教育を実践する使命を強く感じさせていただきました。最初の映像で、特別支援学校での指導の中に、先生に気のエネルギーでできなかったことが出来るようになる実技を通して、自分の絵の才能を引き出し、それを発信する中で反響がひろがり、絵の指導をする、興味を持つ人がやってくるなど人生を大きく希望へと変換していかれた方の紹介がありました。これまでは、支援が必要というと悲観的な消極的な考えのもとに教育がされてきたと思います。しかし先生の指導を通して気のエネルギーによって出来ないと思われてきたことが、出来るようになるんだと、またそれ以上に無限の可能性、誰もが固有に持っている潜在能力を引き出すことが出来る。そのヒントを気の体験や先生のお話から強く学ばせていただきました。宇城先生から気を通して強大なエネルギーをいただいてできた事はまず高い所に登らせていただきより空間の広がりを経験させていたくことであると。そのために日々の生き方思考、所作、行動により実践を積み重ね自分自身の力を高めていくことが大事であると感じました。対立や衝突という小さい時空間の力ではなく、寄り添い調和することにより気という無限のエネルギーの空間を作り出すことができる、先生のご指導から自分自身の在り方、生き方、これからの教育の指針を示していただき実践目標が明確になりました。私の教育目標として子ども達が未来に夢や希望をもって生きていける力の育成するというテーマを持っております。学校経営としても未来を担う子どもたちの潜在的な力、可能性を信じそれを引き出す方向で物事を捉え、従来の固定観念や経験からくる狭い時空間的な思考を払拭し、どんな子も未来へ向かって希望という道も拓くことができると信じて教育をしていきたいと考えております。まずは自分自身少しでもより高いエネルギーを発散できるように日々調和を実践し、学校全体にその空気、雰囲気を作り出していけるように取り組んでいきたいと思っております。今回の講習会を通じて日本の危機的な状況を大きく転換していくには、子ども達の教育であり、力ではなく調和、助け合いなどを基板とした生き方の浸透が不可欠であると強く思いました。これからも自分自身のエネルギーを高める努力とともに、子ども達にそのようなことを取り入れた教育活動をすすめていきたいと考えております。宇城先生、今回も体験並びにご講話をいただき貴重な時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうございました。

●京都 私立中学校・高等学校 40代 男性 

2019年度から、この教師塾で宇城先生の御指導を賜るようになり、5年目を迎える事になりました。自分の中では1つの節目という気持ちもあり、また、昨年度はすべての回に出席できなかった事もあり、覚悟を新たに実践会場を目指しました。しかしながら(いつもの事ながら)、自分の甘さをはっきりと自覚させられる機会となりました。

冒頭で拝見した2名の若者の変容ぶりから、改めて自分自身の頭の固さと、宇城先生の気づかせる指導の在り方に、改めて気づかされました。10年以上前に読ませていただいた「子どもにできて大人にできないこと」を思い出しましたが、“思い出した”という事は即ち、読んだ事で“身に付いた”と勘違いしていた証拠で、日常の中で実践できていなかったという事です。「振り返り」と「日々の実践」、この2つの大切さに、改めて気づいた次第です。

また、時間と空間のお話の中で、物事を高い所から俯瞰する事の大切さを、ビルのイラストと共に説いていただきましたが、この時も「垂直に生きること」のお話を思い出しました。宇城塾・大阪教室での「水の中で同じ100mを行くのでも、水平に泳ぐのと、真下に100m潜るのとでは、命の危険性という意味では全く異なる行動。これが生き方における方向性の違いだとすれば、人間としての深さにおいて、どれだけの差が生まれるのか・・・」というお話でしたが、当時の“目から鱗”だった時の気持ちを思い出しました。あの当時、数日間は明確に心がけなからが生活していた筈ですが、その後も「剣豪や武士の覚悟」のお話を伺う度に、“ああ、そう言えば・・・”という反省が、常に脳裏を過りました。

上記のような経過を、思い返せば10年近く繰り返しています。なんとも未熟で進歩のない自分自身に失望すら覚えてしまいますが、これが現実なので、受け入れなくてはなりません。しかし、もしも宇城先生に巡り会えてなければ、このような「気づき」さえ得られなかった筈です。そのように考えた時、“師の存在の、なんと有難い事か…”を痛感させられます。しかも、その手ほどきは“押しつけ”ではなく、すべてが実演と写しによる“納得指導”です。最後に実演していただいた“生徒と同じ方向を見れば、生徒は付いて来る”は、年齢を重ねる中で、自分自身の最も劣化している部分だと感じました。むしろ、あのような感性は、教師になりたての若者ほど敏感です。自分自身、50代を目前にして、後進を育てる視点もさることながら、後進から学ぶ姿勢…もっと言えば生徒から学ぶ姿勢を持ち合わせていないと、「先生、先生」と呼ばれているうちに劣化の一途を辿る“おめでたい人”で教師人生を終えてしまう…そのような危機感を覚えて、私の第1回宇城教師塾は幕を閉じました。第1回目から、本当に貴重な気づきが得られました。

未熟者ではございますが、引き続きご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします。(私の今年度の目標は、日々のふり返りと実践を継続し、毎回の教師塾に参加させていただく事です)

●京都 中学校 30代 男性 

今回もご指導いただきありがとうございます。

最初に見せていただいた、障害者ができて、障害を持たない者はできない。どちらが健常者と言えるべきか。物事を頭で考え、純粋な気持ちで受け入れることができない。目の前で起こっていることが事実であるにも関わらず、何が起こっているかわからない。頭でいろいろ考えているが、視野が狭く、全体を見ることができる高さにいない。など、たくさん課題を感じることができました。

純粋な気持ちで、日々子どもたちと接していきたい。エネルギーを与えられるような教師でありたいと思いました。

●大阪 中学校 60代 男性 

今年度も教師塾を開催して頂き、誠に有り難うございます。私は今春、定年退職となりましたが、引き続き再任用で勤めさせて頂け、教師塾にも参加させて頂き、有り難いことと思っております。

さて、講義の最初に特別支援学校の生徒さんが実践される動画を見せて頂きました。特別支援学校の生徒さんは、宇城先生が実践して見せて下さることを、同じように実践することが出来ていました。そこには、自然に(生来の)「見えないもの」を感じる、見る力があり、実践を再現出来ているのだな…と、思いました。

そして、この動画の内容に関して、宇城先生は「“素直”というフィルターでとらえられているから(出来るのだ)」と仰られました。

私は、自分では「素直」な部類だと、顕在意識では思っているのですが、(特別支援学校の生徒さんが再現したような)そのような実践を、今の自分では出来ません。ということは、顕在意識の自分では気付いていない”素直”を曇らせるものがあり、真の素直ではないのだと思います。

また、いくつかの実践の中で宇城先生から同じように気を入れて頂いているのに、「出来る」「出来ない」が分かれる場面がありました。

鉄製のメリケンサックへの打ち込み。両隣の人と腕を組んで全員で輪になった状態で、気を入れて頂き、回転する…等。それぞれの場面で、出来なかったり、手が離れてしまったりしていた方は、そのまま私の姿です。

また、気で投げられたときに、自分から手を離してしまうことは、自分から「絆」を切ることであることを、以前に教えて頂きました。それからは意識して手を離さないようにしていますし、そのことは、意識すれば簡単に出来ます。

しかし、腕を組んで輪になって回転したり、他の方と数珠繋ぎとなって気のエネルギーによって動かされるときは、そのエネルギーに耐え切れず、手が離れそうになります。それを必死でこらえてしまう自分がいるのですが、それで正しいのでしょうか?

私は今までに、自分も他人(ひと)も裏切って来ました。高校時代、課題として出された宿題を、友人数人と手分けして期日までに取り組もうと約束をしていたのに、私は面倒臭くていっさい取り組みませんでした。

就職してから…自分が取り組まなくてはならない仕事を先伸ばしにして、結局やらなかったり、(そしてやったにしても)おざなりな“やっつけ仕事”でこなすだけだったり…。宇城先生が生きてこられた「生き様」とは全然違います。それではダメだと思い、「道塾」や「教師塾」に参加させて頂いています。

宇城先生が示されるような実践を、大人は永遠に出来ないと仰います。それでも、宇城先生と同じ時空に身を置き、私の「身体」が体験することで、少しでも変わっていけたら…と思っています。これからも宜しくお願い申し上げます。

有り難うございました。

●奈良 高等学校 20代 男性 

お忙しい中、ご指導ありがとうございました。

予定時間とは別の部分でのご教授してくださる姿に教員への期待、教員への危機をすごく感じました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

今回、教えて頂いた話の中には様々な気づきがありました。

まず初めに、高い位置から見ると空間が広がるという話が有りました。様々な物事を同じ目線、同じ感覚で見ているからこそ見えてこない事が沢山あることに気づかせていただきました。高い位置から物事をみる、空間を広げるということをして問題が起きている所の裏での問題に気づいたりすることができるようにしていきたいです。

 また、今回実際に体験させていただいた大人、数人が肩を支え合って組んでいる所をはじめは力で解決しようと力いっぱい押してみたところ驚く程動かすということができなかった事がすごく印象的でした。しかし、三戦(サンチン)の動画を見させていただきながら力では解決しようとせずに調和され肩を支え合っていた人たちの列を崩せたような気がしました。あの瞬間は体感してみないと分からないものだと改めて思いました。やはり力は対立をうむだけで本質の解決には少しもなっていないことも分かりました。

 次に、心に深く残っていることがあります。それは、前から列を引っ張っても動かないが横に行き立場、目線を一緒にすることで人を動かすことができるというのを実際に見せていただいた事です。

普段教員をしていると非行に走ってしまう生徒に頭ごなしに叱ってしまっていた自分がいました。しかし、今回教えていただいた事を踏まえて考えてみるとそうなった原因を一緒の立場に合わし、目線を合わし、その生徒の心を動かしていく、考えていくことこそがその生徒の為には1番に大切なこと、教師力、師の力では無いのかと考えられるようになりました。

また、印象に残ったこととして「明日もやりたい、ワクワクする」という感覚を持たせることの重要さを学ばせていただいたということです。野球の練習では明日これをやってみたいという感覚になるような教え方ができていなかったりする事で生徒のやる気が無くなりただ練習をこなすだけになり技術が向上しないという悪循環になっているということも頻繁に起こっていると思います。時間をかけて変わるでは意味がない瞬時に変わるということがすごく大切であり、瞬時に変わるということこそ「明日もやりたい、ワクワクする」という感覚に繋げることになるのではないかと思います。なぜそのように思うかと言うと先日バッティング練習をしている生徒がいてその生徒は日頃力を入れれば打てる投げられるといった感覚で練習をしている姿が見受けられることが多いため、力での解決は無く衝突が生まれるだけだと肘を90度に曲げ手を抑えてもらいながら力を一生懸命入れて下におろそうとしても動かないがこのようにすると動くとやって見せて力での解決はないということを感じさせてからバッティング練習をさせてみると驚くほど瞬時にバッティングが変わりいい打球が飛ぶようになりました。その実演の感覚が言葉では表すことが難しいですが、実際にその感覚が少し自分にも分かってきており驚きました。そしてその時の生徒の目を見てみるとすごくワクワクした嬉しそうな目になっていました。そのような指導が日々出来れば必然的にその生徒自身が、チームが変わっていくのだと改めて感じさせていただくことができました。

最後に、今回教えていただいたことを生徒に伝えていけるように自分を成長させ自己改革を行い、日々の教育に携わっていきたいと考えます。衝突を避けて調和するということを忘れず生徒と一緒に日々学んでいきたいと思います。宇城先生、お忙しい中本当に多くの学びをありがとうございました。今後ともご指導宜しくお願い致します。

 

●奈良 高等学校 20代 男性 

この度は、教師塾でのご指導ありがとうございました。今年度も宇城先生に優しく、厳しくご指導いただき、元気が出てきました。

今回の教師塾を通して、生徒の見方を考えさせられました。私は学校で生徒達の姿を毎日見ています。一人ひとりの成長や変化に気付けるように見ているつもりでした。しかし、生徒の変化に自分で気付くことはほとんどありません。目に見える変化ばかりを見ようとしていました。変化は目に見えない中身で起こるのに…。宇城先生が数々の実証で、気を通されるときはありますが、目に見える変化はありません。それでも確かに身体は強くなっています。それを身体で体感しながらも、目で見えるものばかりを見ようとしていました。

「人間は目に見えるものばかりを信じる」という話がとても印象深く心に残っています。粘土、豆腐、空気、それぞれの中に手を入れると、確かに手を押されたときの感覚が変わりました。周りから見たら3回とも、ただ前に手を伸ばしているだけです。それでも変化があるのは、中身が変わっているからです。私たち教師は、その中身の変化に気づかなければならないのだと、今回の教師塾で気づかされました。目に見えるものばかり見ようとしても、変化に気づけるわけがありませんでした。

 私は高校まで野球をしていましたが、バットを振るとき、バットの周りの空気を感じることがありました。バットを振って空気を裂くのではなく、周りの空気ごとバットで振るのです。空振りすることが減り、打球は遠くに飛ばせました。自分より遠くに飛ばす人のバットの振り方を見ても、周りの空気ごとバットを振っているように見えました。目には見えない空気を感じられた、当時は不思議な感覚でした。

 教師塾に参加させていただくと、いつも自分の中でもやもやしていることが明確化します。見えないものを感じることは、今の自分ではしようと思ってもできることではありません。しかし、一つの目指すところは定まりました。これからは出来ない自分と向き合い、日々精進して参ります。

●奈良 中学校 30代 男性 

先日は、教師塾にて多くのことを学ばせていただきありがとうございました。対立すると力が発揮できないことや調和することの大切さを改めて感じることが出来ました。自分自身の普段の教育や生活面において対立せずに過ごせているかと振り返るとまだまだ出来ていないことが多く、反省点が多いなと感じました。もっともっと苦しい時や、悩んだ時、普段の行動から心がけないといけないなと思いました。また、日本と世界の企業、経済の状況についてもわかりやすくご説明していただきありがとうございました。どのような未来をつくり、目指していくべきなのか、どうすることで生き生きと皆が過ごせるのかをしっかりと考えていかないといけないなと思います。そして、生き生き過ごし力を発揮できるよう子どもたちと同じ目線に立ち教育を充実させていければなと思います。今後もたくさんのことを学ばせて頂き自分自身の成長にも繋げていけたらなと思います。本当にありがとうございました。

●奈良 私立中学校・高等学校 40代 男性 

今回も貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

特別支援学校の生徒ができる。健常者が健常者の当たり前、常識の中で学習していくことの怖さとは何かを知ることができました。大人、社会が、いかに邪魔しているのかということを再確認できました。そして、本当の素直さとは何かということを検証を通して考えることができました。

メリケンサックを持つ人に対して打ち込むという検証をさせてもらいました。完全に頭のスイッチが入り、痛いに決まっている、相手にも申し訳ないと怯えている自分がいました。先生に気を通してもらうも、自然体でやり切ることができていませんでした。一瞬、頭が働き、できると思い込ませてやろうとしていました。そんな自分を見透した上で、先生はその直後に、ご指導くださいました。これまでの自分の経験が自分の中にある素直さに対してサビのようについているような感覚になりました。これだけ先生からたくさんのことを教わってきていても、むしろ最初の頃よりも、今はまたサビついてしまっているのではないかと思いました。ここ数ヶ月、先生が私に対して助言してくださっていることの意味が少し理解できたような気がしました。

空気の存在を疑わない、信じるということも、できているようでできていないと思いました。ただ今回、検証を重ねていく中で、自然と心が明るくなり、気がついたら、空気の存在を素直に受け入れている状態ができていました。子どもたちにも、こんな間の中で、また大人が邪魔することのない空間の中で育てばいいようにしか育たないのだろうなと感じました。

子どもたちによい間で過ごしてもらうために、教員や大人が、覚悟を決めて、学び、実践することで、中心をつくることができ、それを実現できるのかなと思いました。今回購入できる新刊を中心に、学び直しをしていきます。

ありがとうございました。

●奈良 中学校 20代 男性 

今回、御縁をいただき、初めて参加させていただきました。

私自身、今年から教員として中学生とかかわることになりました。右も左もわからない中で、知らず知らずのうちに結果や起きる現象だけで生徒を評価をしている自分に歯痒さを感じていました。

宇城先生のお話を聞いたり、実践に参加させていただいたりする中で、自分の小ささを思い知りました。教育という仕事がどれほど重要なものであるかを感じ、今の自分では目先のことしか見えていないなと痛感しました。

私は、今年、特別支援学級の担任をさせていただいています。世間一般に、特別支援の生徒は、勉強面やそれ以外にもしんどい部分があると評価されていますが、話していて自然と引き込まれていくような感覚や様々なものを感じ取るアンテナはすごいものを持っています。今回見せていただいた、大人ができないことを軽々とやってしまう障害者と呼ばれる男の子の動画は本当に驚きの連続でした。大勢の列を動かすことができるとこに驚いたのはもちろんですが、なによりも宇城先生のされていることを見て「僕にもできる」と言って本当にやってしまうというところにすごさを感じました。自分もできるという未来が見えているように思いました。私は宇城先生の実演を見て、どうなっているのかわけがわからず、何が起きているのかと考えてしまいました。しかし、それではその場にとどまっているだけで、自分の中の時間は止まっていました。そこに、普段から素直に物事を見ることができていない自分がいるのだと思います。

また、実践での「粘土に手を入れる、豆腐に手を入れる、空気に手を入れる」というものでは、空気に手を入れた時が1番弱く、見えるものだけで判断、評価している普段の自分が映し出されたような気がしました。もっと自分自身が、目に見えないものに目を向けていかないといけないと感じました。しっかり目を見開いて、胸のライトで照らし、素直な自分で毎日を積み重ねていきます。そして生徒が未来に希望が持てるような、わくわくできる空間をつくれるよう精進します。

 貴重なお話や体験をさせていただき、誠にありがとうございました。今後ともご指導のほど、よろしくお願い致します。

 

●奈良 中学校 30代 男性 

先日は第一回教師塾でのご指導ありがとうございました。

当日開始の時間を遅れ貴重な教えの時間を自分ので失ってしまったことをとても情けなく思います。

宇城先生が気によって輪になった集団を気によって高速でまわす指導をしていただいている時に、私は繋がりを切ってしまいました。その時、宇城先生から「気が抜けている」、「命がかかっていれば絶対に手を離さない」とご指摘を受けました。まさに油断している、気が抜けている。そして、謙虚さがなくなっていると自覚をしました。私の自分自身を見失っていることを宇城先生に見透かされたと思いました。そして、愛のある指導で気を通していただき、自分ではどうすることもできない気の力を感じました。こうして気を通していただいて改めて次元の違いを感じ、もっと学ばなければと停滞していてはダメだと、原点に立ち返ることができます。教師塾で宇城先生に進むべき道を示していただけるおかげで、もう一度進むことができることに感謝しもう一度謙虚に学んでいこうと思うことができました。

本当にありがとうございました。

●奈良 高等学校 30代 男性 

先日はご指導いただき誠にありがとうございました。この度も自分の身体で気づかせていただくことがたくさんありました。

まず冒頭の映像の中で、特別支援学校の2人の生徒が、大人にできないことを簡単にできることを示したり、宇城先生のお手本を見てすぐさま移ってできるようになったりする姿を見て感動を覚えました。担当の先生の「こんなにうれしそうな表情を見たのは初めてです」という言葉が印象的でした。私はあの2人の子どもを見るのは初めてでしたが、そんな私でも自信をつけていく様がありありと分かって嬉しくなりましたので、担当の先生や親はなおさら嬉しかったことと思います。できなかったことができるようになると周囲にもエネルギーを与えているようにも感じました。

そして教育のあるべき形が短い映像の中に凝縮されているように思いました。

できる見本を見せる。やってみようと思う。やってみる。できる。できることが分かる。またやりたいと思う。

 実証の中でも今度は私が身をもってこのサイクルに入る体験をさせていただきました。鉄を正拳で突く実証で、突くように言われて構えている時には怖さがあったのですが、宇城先生に肩をたたいていただいた瞬間、怖さが消え、気づけば正拳で突き、鉄をもっていた人と後ろで支えていた人にまで力が伝わっていました。できるはずがないと思っていたことが想像以上の結果となったので、感動とともに自信をもちました。次に自分だけで突くように言われたときには自信がありましたので、同じように突くと先ほどとは違い、力は伝わらず、手に激痛が走りました。自惚れとはこういうことかとこれ以上ないほど身をもって感じた次第です。ただ、できることがわかると自信がついてまたやってみたくなるという身体の内から湧いてくるエネルギーを感じると同時に、教員や親の立場としては、子どもにできることを気づかせることがいかに一歩を生み出させる原動力となるのかということを実感しました。次に鉄の前に人が手を置いた状態でそれを突くように言われた際には、1度目よりも大きな恐怖がありました。けがをさせてしまうのではないか。本当に突いて大丈夫か。葛藤を抱えながら構えている中で宇城先生が肩をたたいていただいた瞬間、身体が勝手に反応し、気づけば突いて、力が伝わっていました。鉄の前に置いた手も少しも痛くないようでした。気が通った状態のエネルギーは莫大であり、しかもそれは間に何があっても貫通する。間にあった物や人との間に強い信頼が生まれる。非常に貴重な学びを自分の身をもって体感させていただいたことは、本当にありがたいことだと感じています。

頭でいくら考えても思いもつかないことが目の前で起こるとどんなことでも驚くものですが、それが自分の身体が引き起こしたことであると大きな自信になります。できないと思っていたことができると分かる。それが次に向かうエネルギーとなる。力を引き出す、気づかせることで前進する大きな活力となります。

今回受講させていただく前は、生徒の主体性をいかに引き出すか思い悩んでいたのですが、大きなヒントをいただきました。私自身もいただいたエネルギーを活力として前進して参ります。今後ともご指導のほどよろしくお願いします。この度のご指導、誠にありがとうございました。

 

●奈良 高等学校 50代 男性 

この度の教師塾におけるご指導、誠にありがとうございました。

引き出す、導くとは何か。どうするのか。先生の「気づかせる・気づく」の構造はどうなっているのか。今直ぐか、先でなのか。意図的なのか、偶発的なのか。どちらでもなく、そしてどちらでもある。統一体が先生の自然体。先生のご指導されるお心は、まさに見えませんが気によって見えます。身体で感じられます。空気感を身体で感じられます。先生そのものが気です。すなわち、先生は見えないが実態としてここにある。おられる。遠隔操作、遠隔治療、電波、波動。見せていただき、していただいているのに、ずっときたのに・・・。

確信いたしました。永遠…。

先生は引き出す雰囲気、時空間を形成されます。気付ける雰囲気・時空間を創られます。気付ける方向に導かれます。気づけるように持って行ってくださいます。流れを創ってくださいます。まるで自分で修正ができたかのように。自分が出来たかのように。このことは、この自身の身体で経験していることですので私のみならず、皆さんも実態として何度も目の前で見ている、見させていただいていることです。見てきたはずですが、恥ずかしいを通り越して、初めて感じられたかもしれません。勘違いしない身体を形成すること、し続けること。ゼロ・・・。ゼロは最も大きい数字かもしれません。(ゼロは最も大きな数字の最後か・・・、ゼロからスタートする。ゼロに向かう。・・・。)

深くて見えません。しかし、この自分の中の「なんとなく」を育てていきます。思い続けていきます。腑に落ちるまで。いや、落ちても。深化とはそういうでしょうか。

「寄り添う」・「指導」という意味も頭と身体、出来ている人の「よみ、ゆとり、奥深さ」と出来ていない人のそれでは結果は全く逆です。今回、「気付かせる・気付く」指導は頭からでは絶対にあり得ないのだと思いました。

「えっ、今、俺、何ゆうた。何故そんなこと感じられた。」自分でありながら自分でない感覚。はっきりと導かれているという感覚」。先生のおかげであることが身体で感じられました。自分が日々学校で行っている「気付かせる・気付く」指導。それは気付かせているのではなく、ただ押しつけているだけ、いただけでした。

押しつけ。それも必要な時があるでしょう。ただし、それは「真の気付かせる・気付く指導が出来てこそ」。身体からの押しつけ。気付く方向に導く、気づけるように整える。まるで自分で出来たかのようにもっていける。主導、しゅどう、主導権・・・。

引っ張るのではなく添えただけでその方向に導ける。押すのではなく思った方向に動かせる。全部見せていただいてきたことなのに、正直、初めて身体で感じたような気がいたします。

「自分は情けないと思うことですら無駄ではないよ。」そんな卑屈で無意識下の自傷行為に及んでいる時ですら宝物のような経験に感じさせていただける導き。それは今、未来の希望を見させてくださったからです。エネルギーとは出るものでも出すものでも与えるものでもなく、自然と感じるもの。自然と感じさせるもの。エネルギーを感じること自体が自然。感じられる身体が本来。自然体。

人間の際限ない可能性と真剣が歩いているような人が師。「方向、流れ、勢い」。指導者としてこの見えない、見にくい、感じ取りにくいものを今回はいつも以上にはっきりと身体を通して変化する人間の実態を映像と目の前でお示しいただきました。そして、この身体で感じさせてくださいました。

自分で申し上げるのも変ですが、今回の感想文、今、自分で読み返してみてまるで初めて先生に気をかけていただいて見た者、出来た者が書いたかのようだと思いました。自分の遅さと愚かさと横着さを認め、受け入れます。なのに、こんなに元気といいますか、心地がいいのは本当に不思議です。感謝申し上げます。

ありがとうございます。また奔ります。お陰様で走れます。この「自分の人生スゴロク、ふりだし」に戻ります。

引き続きご指導、何卒よろしくお願い申し上げます。