2022年 京都宇城教師塾( 2022.4.6 ならまちセンター)

●高等学校 奈良 50代 男性

1人で4人が持っている棒を動かそうとする「Aさん」。しかし、ビクともしない。そこで次のような検証があった。お腹を押さえ、しゃがみ込んでいる「Bさん」。そこを通りがかったAさんがBさんに対して、①しゃがんで同じ目線になり、②両手をBさんの身体に添え、③「大丈夫ですか」と声をかけた。すると、声をかけた直後のAさんの行動に変化が見られた。棒を持った4人の集団を軽く動かすことができた。そして、声をかけられたBさんまでがAさんと同じように棒を持つ4人を1人で軽く動かせた。「これだ!」希望そのものを見た。全てへの希望だ。

寝たきり老人と家族、意思表示できない病人と看病する人、障害者と健常者、後遺症を持つ方と介護者。いじめっ子といじめられっ子。不登校生徒とその保護者。生徒と教員。寄り添う側とされる側の立場。どちらがどうではない。一体、ひとつだ。それぞれが繋がっている。循環している。まさにお陰様、お陰様、そしてその先にある実体をみせていただいた。お互いだけではない。その時空に存在する全ての人に変化が見られた。例えばいくつかの事例の中のひとつが「投げられた人が別の人を投げられる。またその投げられた人が別の人を投げられる」などだ。他にも沢山、時空の変化による実体を見せていただいた。まさに次元上昇、先生が仰る5次元空間の形成だ。そこにある植物もよく育つという。育むとは羽で包むことだとも言われた。なるほど、羽毛布団は気持ちいいはずだ。温かい、高い安いではない。真(深)の価値というものだ。先生と自然と生き物は知(智)っているのだ。出来ているのだ。繋がりを切っているのはこの頭で生きている人、自分だ。

「弱者に声をかける」。すれば出来るも3回ほどやれば恐らく棒は動かせないだろう。しかし教員(=自分)は「いいこと聞いたぞ」とし、次の日、直ぐに子供や周囲に同じことをやってみせる。直ぐに実践する、行動が大事、やってみせるとはそういうことではないのだ。見た子供達はどのような印象をもつだろうか。私はこれまで何度も過ちを犯してきた。たぶん今も。自分で気付いていないだけなのだ。だから絶対に「絶対的な師」が必要なのだ。

このような自身の気付きを本来は書いてはいけないのだ。時間が無いと焦れば、浮いてしまえば教えてしまう。言ってしまう。気付かせる、気付く指導・・・。

直ぐに教える、直ぐに出来る、それが良い教員。信頼?評価か。教員・保護者・生徒・世間もそれを望んでいる、期待している、それでいい、それがいい。本当か?

「日本は3周遅れ」だといわれている。隣を走っている相手と競っているつもりでも実は周回遅れだと。教育においても例外どころかまさに教育の実態のことだ。

感想文からも共に学び合うことも必要だが、危険は常に背中合わせだ。これも一体、一つだ。いい悪いではない。心ありかなしかだ。

先ずは自分との信頼関係、この自身の身体を統一体に向かわせることだ。先生は前段階の「寄り添う実例からの身体の変化」などなくでも、しかも何十人と動かせる。しかも人数が多いほど簡単だと。納得だ。衝突ではなく調和であるから一人とより沢山の人と仲良くなることの方が楽しいし、エネルギーが出る。動かせ方も半端ではなかった。棒に触らなくても気をかけるだけ。触れず、申さず、念うだけ。棒を持つ大人数の集団が渦を巻くように回転して、その勢いがどんどん増していく。波及だ。その実体を見せていただいた。

自分は子供達をインスタントに仕立ててきた。子供達の素晴らしい人間性と人間力の循環というものを壊し、水たまりのように浅く、紙切れのごとく薄っぺらく加工し、心無しで粗末に扱ってきた。それは自分自身に対してもだ。実体のない思い込みの教師力、指導力を誇示してきた。勉強していると思い込んできた。自分は出来ると勘違いし続けてきた。

付け焼き刃の波動など一瞬で消え去ってしまう。身につけること。深めていくこと。死ぬ時が最高。そして、声をかける人を増やさなくても声をかける回数を自分自身が増やせばいいのだ。また、回数を増やさなくてもそこに存在するだけでいいようにしていくのだ。そこに存在しなくても想うだけで出来る、させられる、電波で何時でも何処へでも限りなく伝播させられる、そんな人間がいるのだ。いまだに増幅させスピードアップ中だ。先生は凄い。先生が凄いとは、すなわち人間は凄いという実証だ。まさに「人間性⇔人間力」の生き証人だ。

今回もたくさん実例を示していただいた。一人革命の意味、意義、深さ、希望を。「広める必要は無い。広まるだ。深めることだ。」と仰った。先生の持論「進歩・成長とは変化すること。変化するとは深さを知ること。深さを知るとは謙虚になること」変化から変容だと先生は言われた。

戦争がこの星で、この地球上で起こっている。この自分は何が出来るのか。どうあるべきなのか。子供達に何を伝えていくのか。自分にはその力があるのか。未来はどうなるのか。全ての答えが、ここ宇城教師塾にはある。出来る師、今まさに実証し、そして未来進行形である先生に導かれ、気に包まれ全てが可能になる。統一体に向かって走ればいいのだ。そこを向き、それを映せばいいのだ。元気を得て、しかしまた枯渇して、そしてまた映し、いただく。まるで日光浴だ。太陽(=師)の光と熱(=希望と勇気=エネルギー)を浴びるがごとく。

自家発電、自力はこの自分の人生だから当然だ。しかし他力(=謙虚な身体、自分だけ、自己中心ではできない)を練っていくこと。他力を練るとは「生(活)かされているということを身体で感じること=真の感謝」だ。何事も身体で問い、身体で確認し、身体で答えを出すということを繰り返すこと。

凧(弟子・塾生)が空高く飛べるのは 師(塾長)が糸を引っ張ってくださっているからだ。時に、その糸さえなければ、もっと自由に空を飛べると思っている我々。糸がなければ地上に落ちてしまうのも知らずに・・・。

「この忙しく慌ただしい時期に第1回か・・・。」腑に落ちた。

師が糸を緩めたり、張ったりしていただきながら強風の青空に昂然と舞える有り難さ。「自分の都合」「自我を出す」という自ら糸を切るような思いや行為。猛省だ。

できること、やれること、そして希望。もの凄い「元気の素」をいただいた。どんどん生まれ変わろうと思う。

力の反対は力を抜くではない。「力を入れるの反対は調和、調和するだ。」まさに、これこそ実体を示し、実証でき、他者に実体験させられる人間の、真の金言だ。頭から頭への「頭で感動する言葉」とは次元が違うし全く別物だ。さらに先生は速さが桁違いだ。この一瞬と一瞬の間、隙間も師にはない。だからくっつくのか。魅力・・・。

教員はおもしろいと感じた。幸せだ。大げさではない。

勉強することの面白さも先ずは教員が感じよう。そして教師、真の教師になろう。いや、気がつけば教師になっていたと。

統一体に向かって走ろう。統一体という山を登ろう。眺めていても考えていても頭では一歩も近付けない。また小さな山を何度も上り下りしながら大きな山には登れない。自分中心というちっぽけな山を、自分という我欲の山を降り続けよう。

●中学校・高等学校 男性

 今回は、ウクライナ情勢を踏まえての先生のお話がまず、印象に残りました。私はいろいろなことに直面したときに、自分なりに情報を集めた上で判断しようと考えますが、様々な情報があり、迷ったときにはいつも、自分の頭の中に宿っている恩師や先生たちのことを考えます。この件についても、宇城先生ならどう考えているのだろうと思っていたので、非常に興味深い内容でした。第一次情報大戦とも言われる中で、様々な情報が操作され、プロパガンダやフェイクニュースなどもあり、何が事実で、それぞれの真実、正義が何なのか、私には答えのない問いだと思っていました。また、どんな事実、真実であれ、戦争をすること、核をチラつかせることは違うということは誰もがわかりながらも、何もできていない世界をどう捉え、教育者として何ができるのかを考えていくことが大事だと思っていたので、本日の教師塾では、ヒントをいただけたような気持ちになりました。

 水の入った容器を机の隅に置いて持ち上げる検証、4本の棒が一気に閉まる検証など、先が見えないとまさに、先行き不安となり、怯えるということがわかりました。しかし、先生に気を通してもらうと、私たちにも先を感じることができ、自信をもって机を持ち上げることができたり、閉まる棒に対して受けとめることができたりしました。また、離れた集団に対して、エネルギーが伝搬する検証も体験することができました。今の世界に対して、何もできないかもしれませんが、教育者として、子どもたちに何ができるかという点において、まずは、子どもたちと関わる大人や自分が変わることが大事だと思いました。子どもは大人の鏡だと言いますが、まさに、自分のエネルギーの波動が良くも悪くも子どもたちに影響を与えていると再確認することができました。また環境が人を育てるという点において、子どもたちの周りの人やもののよいエネルギーが大事だと思いました。先生の言葉の中に、「太陽と同様に、エネルギーが伝わる。」というものがありました。太陽が地球へエネルギーを発しているように、先生が私たちにエネルギーを与えてくださっていることも、私たちだけでなく、私たちの先にある子どもたちのために与えてくださっているのだと思いました。

先がわかる身体になれば、怯えない、肚がきまる。あるいは、相手をゼロ化することもでき、対立ではなく、調和することができる。では、先にわかる身体にするにはどうしたらいいのか。それについてはわかりませんが、一つ言えることは、こうして先生のそばにいさせてもらうことで、光を照らしてもらい、エネルギーを移してもらっている、エネルギーを引き出してもらうことができていることが事実としてあるということです。ストッパーの検証でよくありますが、そのエネルギーの伝搬において、先生と子どもの間で、私が邪魔をするようなことのないようにしたいと思いました。

年度初めに先生から学びとエネルギーをいただける機会をつくっていただき、ありがとうございました。また1年間よろしくお願いします。

●学院 奈良 20代 男性

宇城先生、先日の教師塾でのご指導ありがとうございました。今年度も先生から学ばせていただけることとても幸せに思っています。私自身、初の異動ということで色々と悩みながら今回参加させていただきましたが、先生の温かいご指導のおかげで気持ちが晴れ、希望を持つことができました。

今回の教師塾の中で印象に残っていることは、変容することです。表だけでなく内面からの変容、それが外見を変える。その通りだと思いました。先生からご指導いただいた言葉を大切にしてきましたが、変化だけでなく変容することが大切と。とても難しいことだと感じました。まだまだ頭で考えてしまったり、力でなんとかしようとしている、部分体でしかありません。そうではなく、調和することグラデーション、壁をなくす、様々なことをご指導いただけて本当に幸せでした。今回の教師塾もとても濃厚な時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうございます。少しでも子どもたちに、宇城先生から学んだことを見せていけるよう、まずは1人革命これからも精進していきたいと思います。

●中学校 京都 30代 男性

この度も、お忙しい中ご指導いただきありがとうございました。今年度から、新しい学年で、自分自身にも不安があり、生徒たちも新しい関係などに不安があるだろうと思っていました。しかし、今回、先生のお話を聞いて、教師である自分自身が不安になってはいけないこと。新しいことに力んでいること、に気づくことができました。自然な自分で、生徒たちと関わることができました。そして、木曜日はとても良い形でスタートできた様に感じており、金曜日も良いリズムを掴むことができました。

まだまだ、不安な生徒たちもいますが、生徒たちにエネルギーを与えることができるようになりたい。頑張りたいと思います。

●大学 三重 30代 男性

今回の教師塾への車中で、ロシアとウクライナの戦争についてのテレビの報道がたくさんなされていた。とりわけロシアのウクライナへの侵略の酷さばかりが取り扱われていた。この映像だけ見れば、ロシアが悪い、ウクライナが可哀想・・・。そういうふうに見えてしまう。そこの本質が分からない自分、真理を追究しない自分。だから結局のところ他人事になっているのだ。

いつも宇城先生は「勝った、負けたではない」と言われる。きっとこの戦争もそういうものの見方ができれば捉え方が変わってくるし、もっと本質を知ろうとするはずである。

 そう思いながら会場に向かった。冒頭の宇城先生のお話からいきなり直球一五〇キロのボールがど真ん中に飛んできた。やはり・・・。そこからあっという間の二時間だった。

今回の教師塾で私自身が心がけたことは、できる限り傍にいるということ。近くでオーラも含め、いろんなものを感じたいということだった。当たり前だが、我々教師のために宇城先生は本気で向き合ってくださっている。それは、近くで感じる雰囲気、オーラももちろんのこと、全身全霊をもって接していただいている。額には汗をかかれ、体当たりで私たちに接していただいている。こんなに有難いことはない。

全てのことに真理がある。それは身体が一番分かっている。こうしたらこうなる、ああしたらああなるというのは方法論であり、ノウハウだ。巷ではこういう方法論・ノウハウが流行っているが、本当に大切なことは自分自身であり、日常生活の一つひとつが一番の自分自身の成長の場であることに気付かせていただいた。できるかできないか。実力があるかないか。それを周りの人であったり、物事であったり、いろんなものを通して確認することができる。そこに敬意を払い、そして自分でチャレンジすることこそ「他尊自信」ということなのだろう。

私事ですが、この四月から働きながら大学院にて数学の師の下で学生生活をさせていただける機会をいただきました。先日、大学に行き様々な手続きを行いました。今の自分の原点ともいえる大学。それを身体は覚えています。久しぶりに大学へ行き、久しぶりに先生方に再会し、何とも言えない気持ちになりました。自然とエネルギーが湧いてまいりました。二足の草鞋を履くことは決して簡単なことではないのかもしれません。しかし、今しか経験できないこと、今だからこそ経験できることがあると思います。自分自身が感じる「何か」を大切にしていきたいと思っております。

最後になりましたが、今回の教師塾開催にあたりご尽力いただきました全ての方々に心より感謝致します。そして、今回も厳しくも温かいご指導をいただきました宇城憲治先生、誠にありがとうございました。

●高等学校 奈良 20代 男性

私事ですが、今年度は個人的に探求の授業に注力しようと思っておりました。本校における探求の授業では、生徒が日本や世界で起こっている様々な問題に目を向けます。その中で何ができるのかを考え、行動に移していくというプロセスをとっています。世界を意識すればするほど、多様性について考える事は欠かせないと考えていたところで、先生からこの同じワードが聞こえてきた時には驚きがありました。

多様性とは、相手の視点から物事を見る事だと思います。年齢、国籍、人種などを問わずです。同じものを見ていても、それを誰が見ているかによって捉え方は大きく変わってきます。俯瞰的な目を持っていなければ、相手に寄り添う事はできません。逆に寄り添うことができれば、エネルギーが増すことを本会でも身をもって体感させて頂きました。

多様性の根底には、他者への尊重があるのだと思います。しかし、自分に自信があって初めて、心の底から他者への尊重が生まれてくるのだと思います。生徒たちは元来、そういった素地があるはずなので、それを教師が壊すようなことはあってはならないと思います。生徒たちが怯えることなく、本来の力を発揮できるような環境を作りたいと強く思いました。そしてそのためには、教師こそが生徒を尊重して教育に携わるべきだという考えに至りました。

無力感を感じることは多々ありますが、教師塾に参加させて頂くことで、まさに未知の領域を体感させて頂いています。こういう世界があるということを知った上で、自分には何ができるのか考え、実践して行きたいと思います。

●私立 高等学校 兵庫 40代 男性

世界では戦争が行われている中、宇城先生のもとで学べることに感謝の思いしかありません。生かされている自分。人間は空気がないと生きていくことはできません。しかし、あるのが当たり前になっていて、生かされていることを忘れ、自分中心になっていたり、横着になっていたり、「人間」としての生き方が軽いものになっています。それは教師としての自分にも通じることがあります。教育とは?知識だけではなく思考の深さを求めていきたい。自分が変容していくことしか自分を守れない。自分を守ることができなければ周囲の人を守ることができない。対立の力ではなく調和の力。比べものにならないぐらいの大きな力を持っている。さらにその上の「気」の力も体験させていただき、師が太陽のように我々を照らして下さり5次元の世界を体験させていただける。人間の可能性のすばらしさを気付かせていただける。しかし、不安があり怯えている自分。覚悟も腹も据わっていない自分。それは波動として周りにも伝わっていている。そんなことでは信頼関係はできません。

「逃げない」覚悟を持って生きていきます。次回もご指導よろしくお願い致します。

●高等学校 奈良 女性

教師塾で宇城先生にご指導いただき、4年目を迎えました。人事異動という環境の変化で「気づき」が多くあり、新天地で数日を過ごすなかで先生が実証されることから学んだ一つ一つが自分の中に根付き、知らずと実践していることを周囲の様子から感じとれます。当然ですが、知識を伝えるだけの私たち教員の次元ではなく、「気づき、気づかせ、身につける」宇城先生の教育を感じることができ、幸せです。このように愛され護られているのだな、と感じます。

伏せて押さえつけられた状態での呼吸は苦しく、何かを動かす力は生まれません。身体の中身を大きく膨らまし、すぼめると力が出せる。今の日本人の危機的な状態、絶望的な教育の仕組みに押さえつけられても、「呼吸」のやり方ひとつで自身が変化し、相手が変化し、両方が強くなる。制度や環境に頼る前に、この身一つでできることがある。ということを伝える方法として、教育現場は重要です。一人改革を止めるわけにはいきません。また、目に見えないものへ目を向けられない、思考の深さがない、身体がない、エネルギー変換ができない。宇城先生に学ぶほどに自分や教育現場、社会に「ないこと」が浮き彫りになります。目に見えるものに飛びつき、学ぶことなく信用する。目に見えないものは恐れ、ないがしろにする。この恐れ=衝突が人間力の低下に直結すると感じます。その恐れを払拭できるものは、「愛情」です。水を入れたコップの実証において、不安=恐れを払拭するためには寄り添う行動でした。精神論でない証です。竹刀と木刀で首を挟む実証を体験させていただきました。目からの情報で挟まれるという「恐怖」が生まれ、いざ首を入れると肩がすくみ、手の指がめいっぱい力んでいましたが、宇城先生が寄り添ってくださると、絶対的な安心感で「私は大丈夫」とスーっと力が抜け、自然体になりました。心の底から信頼する、という目に見えないことを身体を通して学んだ経験は初めてです。宇城先生の気が「入った」というよりは「既に入っていた」という表現の方が近いです。今日この場に来た時から。それよりももっと前の教師塾開催のお知らせを受けた時から、そうなっていたと思います。つまり、実証の結果は現在から波紋のように広がって過去とつながり、未来も分かるということだと感じました。すべては繋がり、影響のあることで「今の中に未来がある」と仰ることに身体をもって納得しました。

先生は教師塾の開催ごとに「ここで学ぶのだから、他の先生と差がつくはず」と仰います。エールとして、と先生は話されますが、私とすれば現状維持=退化のご指摘であると受け止めています。新天地は県内偏差値上位の伝統校です。生徒も教員も常に何かに追われ、部活動に学校行事に塾にほとんどの時間を費やし、5人に1人が浪人生となります。日本の教育の仕組みを代表するような現場で、実践を重ねていきます。

この度も、多くの気づきと愛情をくださり、有り難うございました。今後とも、ご指導いただきますようお願い申し上げます。

●高等学校 奈良 20代 男性

宇城先生からご指摘いただいた通り、私は高校の時から頭で考える癖が抜けていません。自然体でいようとしても、頭の命令でそれをしようとしてしまいます。そのレベルから抜け出すことが、今の課題だと思っています。教師塾に参加させていただいて3年目になりますが、最初は宇城先生が言っていることのほとんどが分かりませんでした。それでも、宇城先生が言っていることにピンとくることが徐々に増えてきています。頭で考える癖はまだ抜けませんが、このまま少しずつでも成長していきたいです。

最近の生徒を見ていると、自己肯定感がとても低いと感じています。自分に自信がないように見えます。髪型の話がありましたが、自分に自信がないから髪型や化粧など、簡単に変えられるところで個性を出そうとするのではないかと思います。学校は、内面を磨いたり出来ることを増やして伸ばす場所ですが、伸び悩んでいるから外見を変えようとしているのだと思います。

しかし私たちは、宇城先生に気を通してもらえたら人間の本来の力を出すことができます。今までの教師塾を通して、私たちには凄い力があるのだと知っています。それを生徒達に伝え、実感してほしいと思っています。それが出来るのは、教師塾に参加している先生だけだと思っています。

最後に言っておられた、「出来ることをしていけばいい」という言葉に勇気をもらいました。宇城先生のレベルには到底追いつけていないのですが、教室に入る前に礼をすることや、生徒に愛情を持って接することを続けていきたいと思います。

●私立 中学校・高等学校 京都 30代 男性

宇城先生のお話しをうかがう度に、生徒の前に立つ教員としての私がいかにエネルギー不足であったかということ、生徒の力を引き出す視点、生徒を教え育む姿勢に欠けていたことを自覚させられます。また、私自身の教育活動が果たして、生徒の力を引き出すことができているのだろうかと再確認する機会もいただいております。

今回、「変化」「変容」のお話しがございました。内面・外面の「変化」。現在、部活動の中で、「変容」を促しているところです。生徒たちは、高い志を掲げながらも、「変容」することに後ろ向きであり、なかなか成長に繋げることができておらず、毎日投げかけながらも、もやもやしておるところであり、私自身がどのように指導をしていくべきか迷っているところであります。

一方で、自分の担任した、とある生徒が、6か月間という短い期間の中で、「外的環境」をうまく活用しながら、自分の力で「変容」した姿を目の当たりにしました。まるで別人のようで、衝撃を受けました。これを踏まえると、いかに自分が、生徒の力をはぐくんでいないかということを痛感しているところです。

●中学校 奈良 30代 男性

初めて宇城先生の教師塾に参加させていただいて、正直、「次元が違うな」と感じました。初めにロシアとウクライナの戦争の話の中で「教育は何の役にも立っていない」という宇城先生の言葉に「確かにそうだな。教育って何なのだろう。自分は何をやっているのだろう。何のために教師をやっているのだろう」と考えさせられましたし、やっぱり知能を育むのではなく、心を育むことが何よりも大切だと感じました。そのために私たち教員は何ができるのか、教育の「仕組み」が悪い中でもあきらめず目の前の子どもたちのために心から関わり、伝えていく必要があると思いました。言葉では伝わらない、心から出る電波、エネルギー、気が相手に届くことではじめて伝わるのだとよくわかりました。実際にこれまでの経験上どれだけ言葉をかけても、伝わらなかったのはエネルギーが籠ってなかったからなのだと痛感しました。現場で勤務しているとその日を乗り越えることでいっぱいになり、自分にエネルギーがなくなっていき、こなすだけの仕事になっていると感じることがあります。しかし、「寄り添い」「調和」することでエネルギーが大きくなっていくことを教えていただき、実際に目の前でそのエネルギーを操る場面を見させていただき、本当に驚き、言葉を失いました。対立ではなく調和することでエネルギーが大きくなることを学んだので、とにかく人に寄り添い、心から、大きなエネルギーを持って子どもたちと関わっていこうと思います。

●大学 大阪 60代 男性

『教育について』というテーマに、今回教育現場での在り方を我々にご教授、お示しいただきました。そして土台にあります「人間(じんかん)」とは、というところに今回も繋がりました。そこですべては日常にあり「教育」にある。その教育とは、ただ学校で教える授業だけのことではなく「生き方」という土台に繋げていくことこそが「教育」である。まさに「やり方」ではなく「在り方」(生き方)にある。気が細胞に働きかける中で身をもって実感すると共に、自身がまだまだ浅く、深さを知るということを身体を通してできていないことを痛感する場は他にはない。そして日々教育現場に身を置きます自身にとりまして、立場や肩書ではなく、自身の実践を通しての在り方を改めて気づかせていただけました。

「仕組み」の中で、規則や規律が大事なのではなく、生きる上での仕組み、間を通しての仕組み、そういったところが分かっていないために世の中、教育現場でのズレが今に至っている。そのズレは人間の在り方にあり、それは「間」のズレにあると実践を通して指摘いただきました。まさに人間とは「間」にある、間に生きている。生かされている。そこが身体を通して分かっていない。それが身体に出ている。そこにすら気づいていない。学生、子供たちのエネルギーを周りの大人(教育現場)が下げている。そういった意味でも、言葉ではなく実証の中で身体を通して本質を知る機会は他にはありません。一人でも多くの人をこの場に繋げていくのが教師塾。ただ「学ぶ」というレベルではなく「自ら…」という実践を通してという次元が必要であり、それは己を知り、己を「変容」させていく実践にあるとお示しいただいた。それは変える、変わるという浅いところではなく「変容する」というところに生きる力が養われ、生かされている自分への気づき、感謝、愛情がある。変化と変容の違いの中で、変容は内面からすべてを受け容れる(素直・愛情)が土台にある。それはまさに身体で…細胞レベルで…ということを気を通していただき実証していただいた。言葉だけではなく「瞬時に変わる」「元々ある自分に気づく」といったことを実践を通して体感できる場は他にはありません。更にそこには自身の「中心(肚)」がないと様々なところでの対応ができない(多様性と共生)。身体を通して気づかない限り、曖昧、中途半端、自信のなさ、不安、怯え…といった表面上だけのことになる。そして自身を信じる自信がないと、誤魔化し、言い訳、怯えがそのまま身体(行動)に表れる。それが理屈ではなく周り(世の中・教育現場)の空気を悪い方向に変え、本来のエネルギーが失われる。子供は一瞬のうちに波動を感じ取る、大人は頭で考えるので時間がかかる。疑う、素直になれない、行動が遅れる、信じることができない。何事も瞬時に変化する、変化を感じ取る力が必要。間を止めている自分、遅れている自分、変わろうとしているだけで「変容」していない自分。今回、膨大な板書を通して宇城先生が我々にお伝えいただけましたことは、単なるノウハウや実践ではなく、自身の内面からの気づき、実践を通して深めることにあり、今回のテーマでもあります「教育」という視点から、『未知の世界を切り拓く』というところに教育の奥深さ、教師の在り方を感じます。未知の世界を切り拓くとは、知識が真の教育ではなく、宇城先生の気(実践)を通して気づき、変化する自分自身に気づく。エネルギーが湧きあがり、空気が一変する。それと同時に、そこで学ぶ教師塾塾生のまさに現場での在り方が問われている。今回も様々な「実証」を通して気づかせていいただき、何も言葉が出ない程のスピード、頭で考えているうちは思考であって身体が止まっている、スピードが鈍る。そこに身体を通して気づく。頭ではなく細胞に働きかける途轍もないスピード。まさに間を通しいて「人」は「人間」になっていくのだとしたら、止まっている時間、考えている時間、怯えている時間はない。『実証』4人に囲まれた剣の枠の中に入る、普通であれば決して入ることができない、それは単に怖さ(怯え)かと思っていたが、実は「信用」「信頼」が無いからである。ここが非常に腑に落ちた。個々の波動・エネルギーが大切。日頃からどういった波動を出しているか、これは頭ではなく正に身体を通して。恐れ、怯えは身体に表れる。教育現場は今そうなっている。周りの評価、比較、人の顔色を伺い、周りの目に捉われている。『怯え』とは自信の無さ、実践が伴わない生き方、言い訳、逃げ、誤魔化し、横着。これがどんどんエネルギーを下げている。エネルギーの低い大人は、周りの人のエネルギーまでも下げてしまう。子供たちには計り知れない未知なる無限のエネルギーがある。しかし今の教育が本来ある子供たちのエネルギーを下げ、発揮できなくしていることも否めない。まさに狭い箱の中に押し込めているように。自身で感じ、考え、行動、実践に変えていくことこそが真の変容であり、成長であると言える。変容とは、自身の内面から変えていくもの。肚がない、自分がない、中心がない、日本のあるべき歴史が失われているのを強く感じる。「先を取る」がいかに大切か。先の見えない世の中になったのではなく、先の見えない人が多くなったと捉えると、満ち足りた満足に浸っていると(平和ボケ)、自分の事しか考えない人間がどんどん増えてくる。守る、寄り添うと身体が強くなる(実証)。守るものがないと弱くなる。そういった自分を守る力すら下がってしまっている、そういった世の中になっている。宇城先生は寝る時間すらも自身の勉強の時間にされている。寝ている時間すらも時間を止めておられない。時間ではなく「間」に生きておられると感じる。捉われがない、自信に溢れておられる、そして中心には深い愛情があり、気が細胞に働きかけ自身を動かしていると言われる。細胞が気を動かしているということなのか。どちらもが繋がりひとつである。そこに『多様性と共生』があると。何もしなければ(動かなければ)その時は楽であっても、良い人生には決してならないということ、良い人材は育たないということを教わった。日常を通しての気づき(空気を読む、異常を感じ取る、小さなゴミに気づく、寄り添う、心と心の挨拶を交わす、調和融合…)、そしてそういった気付いたことを行動に繋げていくと先が読める、先を取ることができるようになる。「細胞の隅々に届く」見守るとは、ただ見ているだけではない。対立ではなく、目先の結果でもなく、調和すること、相手を思いやる、寄り添うとは、エネルギーを生み出し、人を守り、救う、まさにお互いにということを実証していただいた。宇城先生のご指導は、「どちらか…」ではなく「どちらも…」「すべてが…」、空気までもというところに科学では証明できない真の気の深さにあると感じます。そして「日常が実践」「実践が日常」である。今回も身近にある足元(中心)を見つめ直す機会をいただきました。ただ思うで終わるのではく、自身が変容するために日々精進、前進して参ります。ありがとうございました。

●高等学校 奈良 40代 男性

教師塾での宇城先生からのご指導は教師としての責任の重さを教わるだけでなく、そこに希望を身体で感じさせていただきます。喜怒哀楽の4つでは表現できない、言葉にできない感情が身体、細胞に刻み込まれていくのを感じます。身体からにじみ出る宇城先生からのエネルギー、言葉を自然と身体で受け止めている自分がいました。HOP TOではなく、宇城先生ご自身が教師塾の教科書である、と感じます。

先日の教師塾のたくさんのご指導のなかで、「変容」という言葉がありました。組織は変わらない、でもそれにあらがうのではなく、そのなかでいかに自分が「変容」していくのか。教育現場は競争、修羅の道が中心です。順番、地位、メダル、対立の世界です。浮いています。先日の講義は、そんな日本の公立高校の教育システムのなかで、自分自身がしっかりと中心をつくり、既存の教育システムに寄り添い、包み込む実力をつけよ!!という宇城先生からの激励と受け止めました。宇城先生が、我々、教師塾生を照らす太陽であるように、我々、教師塾生がそれぞれの現場で太陽のような存在にならなければなりません。

そのためには、まずは自らの身体活動、そして内面の変化です。宇城先生のような凄まじい気で時空を包み込む、空間を支配することは出来ませんが、宇城先生を目指す、宇城先生の0.1%でも自らに映す、そこに心を向けていきます。

今、本校野球部は部員数が少ないため、県内の他の3校と合同でチームを組んでいます。他校の先生方と野球に取り組んでいますが、非常に違和感を覚えます。まずは自分から。自らが実践し、宇城先生からの学びを「広げる」ではなく、宇城先生からの教えが「広まる」ように自らが「変容」していきます。

新年度のスタートに激励をいただき誠にありがとうございました。この時期、このタイミングでの宇城先生からのご指導があって、はじめて新年度が始まる、と身体で気づかせていただきます。改めて今年度もご指導よろしくお願い致します。

●高等学校 三重 30代 男性

宇城先生、この度も貴重な学びのご機会をいただき誠にありがとうございました。

また、様々なご準備をいただきました、教師塾の関係の先生方、いつも細やかなご配慮、誠にありがとうございます。年度始めから自分自身に全く余裕がなく、時間が停止し、自分自身や周囲と衝突する毎日を送っていることにすら気が付けていませんでした。子どもや、関わっていただく全ての方に大変、失礼な毎日を送っていたことを教師塾で気が付かせていただきました。1+1=3と言わないといけない学校。誰のための仕事なのか分からず過ぎ去っていく日々。違和感しかなく、こなすだけの毎日でした。ですが宇城先生は、その中で何ができるか。何をするかと教師塾の中で言われました。今の私は「はい。」と言えば楽だから「はい。」と言っているだけの浅はかな人間です。何もできないから「はい。」と言っているだけです。「はい。」の中に自分の強い意思を持ち今までとは別次元の「はい。」になるように頭ではなく身体を作りたいと教師塾での学びから強く感じました。また、宇城先生は、自分を守ること、仲間を守ることの大切さを教えてくださいました。私には中心がありませんので、周囲の人を守れるほどの力はありませんが、先ずは一人の人間として全身全霊でできることを実践し、目の前で拝見し感じた波動を身体に刻み、いつか周囲を守れる人間になりたいと思います。全世界が安心で安全な世界であるためには、私達一人一人の守るという心の持ちようが必要不可欠であると存じます。

また、「変化」ではなく「変容」について学ばせていただきました。内面の意識や心の持ち方一つ。横着な余裕がない自分から、本当の意味で変容し成長し、自分の周囲の先生に差を付け、学校や地域や自分の周囲が今よりももっともっとよくなるようにこれからも精進していきます。今年度もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げま

●中学校 大阪 50代 男性

今春、新しい学校に転勤となり、部活動も(前任校の数学研究部から)テニス部の顧問のうちの1人となりました。当日は早速にテニス部の抽選会の出張があり、遅参することになってしまいましたが、何とか大幅に遅れることはなくて良かったです。

さて、既に講義が始まっていましたので、どういうお話しで講義が始まったのかは判りませんが、一番印象に残った言葉は“変容”です。宇城先生の持論である「進歩成長するとは変化することである」…の“変化”を,もっと実態に則した言い方をされたのが“変容”なのかな…と思いました。そして、そのことを実践をもって体験させて頂けることが素晴らしいです。しかし、果たして自分は、少しずつにでも“変容”出来ているのだろうか?せっかく体験させて頂く機会を与えて頂いているのに、それを上手く活かしきれていない自分がいるように思います。

うつ伏せになり、その上から4人の方々が押さえる。その状態でうつ伏せになっている人が、自分だけで呼吸しようとして、吸っても吐いても苦しくなるだけですが、宇城先生の気で身体の呼吸をさせてもらうと苦しくなくなり、上の4人の人も投げることが出来ます。しかし、自分でその状態を切ってしまい、上手くいかない方が指摘を受けておられました。そのときに(自分なら上手くいくのに…)と、思った自分がいます。でも、自分の番になってうつ伏せになったとき、宇城先生の気を頂き、宇城先生が「上から押されても苦しくないやろ」と仰られても…私自身は(あれ?少し苦しいぞ)と感じ、上手くいかずに少し力ずくで投げたようになりました。自分では「切っている」つもりはないのに「切れている」。その違いが何なのか?自分ではまだ解りません。そんな私を…、「まずは、できなくても構わない。こういう世界があるということを見て、知っているということが大事だ」と導いて下さる宇城先生。有り難う御座います。

結局、“寄り添う心”、“礼”、“姿勢”など、繰り返し繰り返し示して頂いていることを身につけていくことが大切なのだと改めて気づかせて頂いていると思います。

最後に、「“狼に育てられた少女“の話はまがい物だ」というお話しも少なからず驚きました。“アマラ”と“カマラ”のことだと思います。私が教員になった35年程前、先輩の教員に勧められて読んだ竹内敏晴氏の『ことばがひらかれるとき』。竹内氏がことばを獲得していく半生が記されており、(あぁ~、この人に教えてほしい!)と思い、一度だけ、合宿の「ワークショップ」に参加させて頂いたことがあります。そして、当時、もう亡くなっておられたと思いますが、教育哲学者で宮城教育大学の学長も務められた林竹二先生が「教育の再生を目指」し、全国の学校を授業行脚したのが「授業・人間について」です。学力の格差のない授業を指向し、“人間である”ということと“人間になる”ということの違いを考察する上で題材にされたのが、“アマラ”と“カマラ”だったのです。先に触れた演出家である竹内氏は、演劇を通して身体を捉え、生徒が変わる機会を与えられました。その竹内氏が林先生を「林先生が授業の中で、ビーバーの話をしていると、林先生がビーバーそのものになっている」と評しておられましたが、その林先生が題材としていた“アマラ”と“カマラ”の話がまがい物だったなんて…私は何度か生徒に“アマラ”と“カマラ”のことを話したことがあります。やはり、受け売りではダメですね。真実を見抜く目が必要だと思いました。

●中学校 奈良 30代 男性

先日は教師塾を開催いただきありがとうございました。今回私は初めて教師塾に参加させていただきました。会場に到着したその時から空気の違いに圧倒されました。私が到着した時には会場内にはどなたもいらっしゃいませんでしたが、整然としたなかに優しさと心地よい緊張感があり、自然と背筋が伸びていました。感動と同時に普段の自分の取り組みの甘さを感じました。

宇城憲治先生がご到着されてからの時間は今まで体験したどの時間よりも短く濃密なものに感じました。宇城先生のお話のなかに「教育」とは①「教え育てる」②「教え育む」という内容がありました。これまで教員として10年務めさせていただきましたが、過去の自分は自分の経験した物事や自分の頭で考えた価値観がすべてであるかのように一方的に生徒に押し付けていたように感じます。今振り返ると本当に情けなく、恥ずかしい限りです。

学校現場にいると多くのことを生徒たちが教えてくれます。A・B2人の教師が同じ内容を話しても生徒の心への入り方が全く違うという事実。宇城先生のお話を聞かせていただき、当然だなと感じました。生徒たちは耳で聞いているのではなく、その人の心(心から来るエネルギー)を感じ取っている。であるならば生徒との信頼関係が大前提である教師として生きていく以上、教師である自分自身が勉強し続け、心を磨き続けなければならない。そうしていきたいと強く感じさせていただきました。このような素晴らしい場にめぐり合わせていただいたことに感謝し、これからも謙虚に学び続けていきたいと考えます。今後ともよろしくお願い致します。

●小学校 京都 20代 男性

先日の教師塾では、宇城先生からたくさんのエネルギーをいただきました。本当にありがとうございます。この時期は、新学期準備など、普段以上にエネルギーが必要となります。ここで疲れてしまっては、子ども達のこれからの生活が崩れてしまいます。そんな中、先生からエネルギーをいただき、帰ってきてから、そして、次の日から身体に変化がありました。疲れを忘れるというか、内面から活気が溢れるような感じがします。この身体の感覚を、今後も稽古を通して求めていきたいです。

お話の中で感じたことは、怯え・不安が体の奥底から、無意識的に染み付いていると言うことです。それは、常に自分の生き方が中途半端だからだと思います。管理職の顔を伺い、保護者の顔を伺い、インスタントな教育をしてしまっているのではないかと思います。嘘・ごまかしが、身体に染み付いてしまっています。この怯え・不安を払拭するためには、ハウツーのことではなく、自分の生き方から見直さなければなりません。しかも、それはやってすぐできるインスタントなものでは、意味がありません。目先に囚われる自分、すぐに結果に一喜一憂してしまう自分、怯え・不安が染み付いている自分、全てを受け入れていくことが必要だと思いました。

また、学校の制度に甘えて、諦めている自分、逃げている自分がいると思いました。この4月から学校の中でも、主要な役割を担うことになりました。その中で、学校の制度や仕組みに、ぶつかってしまうことがあります。その際に、「仕方がない…」「去年もそうだったから…」と言った理由で、逃げている自分がいます。善・悪よりも、汚い道を歩んでしまっていると感じます。では、その仕組みに対して、どのように対応していくのか。今のままでは、衝突・対立のままになります。しかし、ご講義の中でもあったように、対立するのではなく、それよりも上の次元で物事を考えられるように、思考をより深めていくこと。教師塾・実践塾で、先生に目の前で実践を見せていただいています。それを仕事ではどういうことなのか、それを常に考えながら、励んでいきたいと思います。

新学期が間も無く始まります。子ども達の可能性を少しでも引き出せるように、日々、自分に矢印を向けて、稽古に励んでいきたいと思います。

●高等学校 兵庫 40代 男性

教師塾でのご指導、ありがとうございました。最初の実践において、みなさんが簡単にできたことを自分はできず、宇城先生から「頭でやろうとしている」というご指摘をいただきました。また、「パクリをやっているだけ」というお話も自分のことを言い当てられていると感じました。上辺の理解だけで深さに繋がらない、本質を捉えることができていない。ふがいない自分を情けなく思います。今回は教育について、「未来を切り開く」「多様性と共生」ということを教えていただきました。「未来を切り開く」について、竹刀と木刀の中に入る実践では、先生への絶対的信頼が一歩を踏み出させていました。また、中に入られた塾生の表情が安心へと変わっていき、生徒が自ら未来を切り開こうとするには、実力のある先生という存在が必要であることを感じました。「多様性と共生」は、調和、繋がり、それを広げていくことであると理解しました。宇城先生は「包み込む」と仰られましたが、境界を無くし、大きな視点で捉えることができれば繋がっていく、広がっていくということを学ばせていただきました。

前回の京都での教師塾から自分がどんな日常を過ごしてきたのかを振り返ると、まだまだ真剣さが足りませんでした。一人革命、調和、他人ではなく自分の問題であることを学ばせていただきましたが、覚悟が足りませんでした。今はふがいない自分ですが、宇城先生に教えていただいた人間に本来ある力をいつか自分ももてるようになることを信じて、日常を過ごしていきます。引き続き、ご指導よろしくお願いいたします。

●中学校 奈良 30代 男性

宇城先生、お忙しい中、先日の教師塾でのご指導ありがとうございました。今年度最初の教師塾。新学期への不安と期待の中、宇城先生や教師塾の先生方とお会いできることを楽しみにしていました。まず、最初の先生が板書をされている時の凛とした空気に背筋が伸びました。

今日の世界情勢の混乱と、その中の日本の置かれている位置とぬるま湯に浸かりきった教育。今、自分に何ができるのかを宇城先生のお話を聞きながらずっと考えていました。一人革命はもちろんですが、現場の先生方、生徒たちに対して自分ができることは何か。考えている時点で駄目なのか。それでも考えてしまうのが今の自分。まだまだ知識に頼る自分がいます。

「教え育むこと」小さな光がそこにある気がしました。愛と思いやり。自分に宇城先生と同じことはできません。それでも愛情で育む努力はできます。ふと気がつけば修羅の道を目指す生徒たちを肯定否定なく育む。指導の中で無意識に自分自身が修羅の道を進んでいる事に気づき、修正していく。いずれは頭で考えなくても修正できるように。毎日の行動、生き方の中心にこれまで以上に愛情を置きます。

宇城先生に気を流していただいた時、いつも不思議な感覚があります。相手とひとつになるような、そもそも触れられていないような。先日の教師塾の中でもがっちりロックした手を簡単にほどかれた時、私の手に宇城先生の手は触れていないくらいの感覚でした。全てを包み込むような感覚。あれが育むということなのか、愛の力なのか。宇城先生の中に宇宙が見えたような気がしました。

新年度が始まりますが、その前に教師塾で学ぶことができたことを感謝いたします。生徒、同僚の先生方、学校に対して「宇宙的な愛」を目標に生活していきます。宇城先生、お忙しい中、本当にありがとうございました。

●中学校 奈良 30代 男性

宇城先生にお会いして、たくさんの元気と愛情をいただきました。先生に照らされていると思うと、どんどんやる気がわいてきました。ありがとうございます。

印象に残っているのは、内的な実践によって外的を変容させる実践や、外的な実践から内的を変容させる実践です。心や思いの話をしますが、それは知識でしかなく、今の学校教育の形で、もっと先を行かなければいけないと感じました。とても分かりやすく、自分の中でワクワクした思いになりました。

最近、新年度になり周囲の環境も変わり、自分が頑張ればいいと思うことがあり、それが頑張っている証のような気になりがちでした。先生がおっしゃっていたように、不安になっていたり逃げ腰になっていたりするのは、子どもたちは気付いているのだと思います。先生に教えていただいているのに、小さな視点で自己中心的に行動していて、今は恥ずかしい限りです。自分だけが頑張る自分中心ではなく、人に寄り添い、調和することで、子どもたちや保護者や、周りの先生がたが良くなっていくようになっていきたいです。

言い訳や理由は後からつけられるけれど、自分の実力がないことを分かった上で、肚を据えて逃げずに向き合っていくことが必要で、そのエネルギーは、信頼であったり愛情だったりするのかなと思います。先生のお話を聞きながら、学級の子どもたちの顔が思い浮かんで、彼らを教え育むために、逃げている場合ではないし、まだまだですが、先生の愛情を感じ、私が今ここにいるからできることをしていきたいと思います。

●私立 中学校・高等学校 京都 30代 男性

昨日は、教師塾でのご指導ありがとうございました。本日本校は入学式ということもあり、前日にこうして先生からご指導いただけたこと。高校1年生担任としてエネルギーをいただき今日を迎えることができました。

塾のはじめに今の教育の在り方に対する問いを投げかけられ、実際今の日本の学校教育の無力さをロシア・ウクライナ情勢から考えても痛感しているところです。今起こっている状況は説明できても、「なぜ」起きているのかという本質を説明することが出来ない。本質がみえている人がいない。教育の意味はどこにあるのかと「このままでいい訳がない」とご指導を受ければ受けるほど危機感が募っていき、自然と先生のご指導で内面からエネルギーがわいてくるのが自分でもわかりました。これが『変容』ということで、教師である私が生徒に心から湧いてくる「なぜ?」や「こうしたい!」という外面的な変化ではなく、内面から想いを引き出すことが役割であり、使命だと。ただ単に教科の知識を教える。伝えるということはもう既に価値を持たないレベルまできている。ましてや戦争を前にすると全く意味を持たない。生きるか死ぬかそこに知識など通用することなどなく、本来は戦争が起こる前に手をうつ。「戦わず勝つ」という教えの深さに触れることができました。

頭で考えることの無力さについては、『弓と禅』オイゲン・ヘリゲルのお話をしていただき、暗闇の中にあっても弓が的に刺さり、さらにその刺さった弓に刺さる。「的を狙おうとしない。無心になる」内なるエネルギーが自然とそうさせ、出来る自分に出会う。それまでの自分の生き様がそのままでるのかと。波動が空気を作り、「できる」という場になれば、何をやってもできる。先生の気はまさにそのもの。そこには愛情があり、出来るという空気のグラデーションが広がっていきうつ伏せになって上から4人に押さえられてもひっくり返すことが出来ました。ひっくり返すことはもちろん押さえられながら自分で呼吸するということは不可能で、気を通していただくと身体で呼吸しているような感覚になり、相手の手が一体になる感覚になりました。

これまで自分も「できる」という経験を気を通して体験させていただいてきましたが、結局日常の積み重ねと内面にもつぶれない信念あってこそ、自然といい循環になっていくのかと気づかせていただきました。倒した人がまた倒れる。できたことが連鎖する。学校も中心が動き出すといい意味でスピードが加速していくのは、棒を6名ぐらいで押さえて渦のようにどんどん加速していく検証からもハッとさせていただき、これまでの経験が点から線に、線から円になり、原点中心に返りながらまた進むということの大切さを学びました。

昨日ご指導いただいたことから、即実践ということで、相手を受けいれる。寄り添うこと。敵をつくらない。ということは意識してのレベルにはなりますが、心がけること。相手を想うこと。全ては自分の中に答えがあること。今日という日をワクワクして迎えられ、8年ぶりの担任の仕事は本当に充実したものになりました。早く生徒に明日会いたい。共に同じ空間を創っていきたいと思えた1日でした。

●中学校 奈良 40代 男性

コロナ禍の中、今年度も教師塾を開催してくださり、誠に有難うございます。

今回は学校の校務で遅れてしまい、ご迷惑をかけました。途中からで少しの時間の参加でしたが、心に残る話を聞かせて頂きました。有難う御座いました。

「逃げない」という言葉が私自身にすごく響きました。私事ですが、今年度から中学校が異動になり、10年前に勤務させていただいていた学校ですが、いろんな子どもたちがおり、勉強に興味を持てない子どもが多いのですが、話を聞いてくれない子どもに対して、愛情を感じない先生方がいるのが現状で、不登校の生徒も多く、学校に魅力がないのかなと感じました。先生がいつも「人は魅力で惹きつけられる」とおっしゃられますが、先生の魅力が子どもたちに感じ取れないのではないかと思います。宇城先生が、「何かの縁じゃないか」「先生だったら大丈夫」と仰っていただいて、本当に嬉しかったです。エネルギーを頂きました。今日のお話を聞かせて頂いて、どんなことがあっても子どもたちから逃げないこと、寄り添っていくことの覚悟ができました。「逃げない」ことが肚を作り、教員として実力をつけることが必要だと感じました。力に頼らず、相手と調和をして、周りに良い波動が出て、良い影響を与えることができるように、少しずつ努力をしていきたいと思います。」

新しい学校に移動させていただくと、心が大事であることをいつも再認識させてもらいます。実践や経験といった目の前のことが大事であるにもかかわらず、学校では頭の指導がすごく多く、またそれが良いように思っている人が多いように思います。私自身も頭の指導になりがちなんですが、でも地球に根を張って、先生がお話されていた「多様性」と「共生」をしていくように毎日、修行していきたいと思います。周りの人と調和をして、心を大切に思いやりを持って、教育活動をしていきたいと思います。本当にエネルギーを頂きました。ありがとうございました。今年度も教師塾を開催していただき、本当に有難うございます。今後ともご指導のほど、何卒宜しくお願い致します。

●高等学校 岐阜 40代 男性

この4月より異動となり、大垣養老高校という学校に勤めることになりました。学校の現場に戻るにあたり、改めて大切なことを教えていただくことができました。

私が生徒の前に立った時、どんな自分であるか、どんな人間であるか、その人間性がまさに問われるのだと感じ、緊張感が高まってきました。正しそうなことや、耳障りのいいことや、理想論はどれだけでも語ることができます。しかしそこに人間力、実力があるのかどうか。子どもが相手であるからこそごまかしは利かないのだということを再認識することができました。

 思えば以前の私は生徒の忖度のうえにあぐらをかいていたようなものでした。また、深さのない経験を重ねるにつれて「うまく仕事をこなす」ことが中心になっていたように思います。それでいて自分にも実力がついてきたような錯覚を覚えていましたので始末が悪い。しかし一度学校を離れたことで、自分の小ささや実力のなさ、また、学校を取り巻く世の中の問題の根の深さを感じました。もう一度初心に戻って自分を鍛えなおさなければならないと痛感しています。それこそ挨拶、返事から、掃除やその他雑用までを率先して行おうと思っています。

首を挟まれる状態での検証で見せていただいた、宇城先生の迫力。宇城先生から、竹刀の閉じられるまさにその瞬間、目には見えないのに、確かに見えたように感じる波動がバッと放たれていました。すごかったです。竹刀を閉じるどころか、竹刀を持つ4人、周りにいた私たちが吹っ飛ばされそうでした。

「力」ではなくエネルギー。「衝突」ではなく「調和」。

「調和」はまさにエネルギー。一瞬にして4人を押せるようになった塾生の、あの表情。気負いもなく、恐れもなく、緊張もなく、4人のなかにすっと入っていくあの表情。あの状態で生徒の前に立つことができれば…。

ところが、実際には相変わらずな自分。恐れ、怯え、ごまかし、目の泳ぐ自分。それを悟られないように理屈で塗り固めてしまう横着さ。だからこそもう一度初心に…。いや、初心どころかもう一度子どものような無邪気さで仕事をしなければならないのかもしれません。

現実にある制度やシステムとの向き合い方も教えていただきました。変えられないとあきらめるのも、熱く語って体制を批判するのも、どちらも同じです。制度を変えるためではなく、システムを批判するためでもなく、子どもたちの未来のため、日本の未来のために働こうと思います。

今年度は学年主任を任されたということもあり、子どもだけでなく担任の先生方をまとめる役割を与えていただきました。正直に申し上げて不安も大きいです。ですが、こうして原点に戻り、思考、学びを深められる教師塾という場があることで勇気をもって立ち向かっていけると感じています。今後ともご指導よろしくお願いいたします。

●私立 中学校・高等学校 京都 女性

本日の実践を通して「覚悟」の持ち方、示し方について改めて考えるきっかけをいただきました。学校には様々な仕組みが存在します。本当に今自分がやっている教育が生徒たちの未来の希望を育む教育になっているのかどうか。仕組みのせいにしてできない理由を探し逃げていないか。自分に問い直す機会となりました。

竹刀の十字の中に入り、ワン・ツー・スリーの掛け声と同時に竹刀を閉じる実践では、怯えることで身体が弱くなるということがよくわかりました。いくら教師が表向きでは強がって誤魔化しても、生徒には怯えが伝わるということも納得しました。自然体でなければ生徒たちは見抜きます。知識だけ、口だけではなく実践で示せてこそ内面からも変化をしていきます。そのためにはただひたすらに学び、行動すること。それしかないということが宇城先生にお会いするたびに自分の中で確信に変わっていきます。変わることを恐れずに、学び続けることが私たち大人が生徒たちに見せるべき姿です。そう考えると、学校という場所は特に変化を嫌う場所であり、宇城先生の教えに逆行していることがよくわかります。今の教育制度では駄目だと分かっていても変えられない国の現状。おかしいと思っていても、これまでやってきたことを変えられない教師。大人ができないから子どもたちもできなくなる。子どもたちの可能性を引き出すことなく、蓋をしてしまっているということがよくわかりました。

机にコップを置いて持ち上げる実践でも、不安があると思考が停止し、身体が止まるということがわかりました。その際、苦しんでいる人に寄り添い助けることで身体が強くなるという実践の中で、せっかく身体が強くなっても「よっしゃ!」と気合を入れると一気に弱くなるということがありました。「自分がなんとかしてやる」という自分中心の考えでは自分だけでなく周りも弱くしてしまうということです。自分のためではなく、自分がいる場所や周りの人、国、地球のために何ができるのか。そういった思考でなければ自然体ではなく部分体になってしまいます。寄り添う心を育まなければ独りよがりの大人を増やしてしまうということになってしまいます。その現状を打破するには、まずは自分が変容するしかありません。宇城先生のように、太陽のように周りを照らす存在に少しでも近づけるよう日々精進いたします。

未来が見えるから自分を信じることができるようになる。宇城先生に気を通していただくと、行動するよりも前にその先の結果を身体が感じ取っているのがわかります。頭でばかり考えているから本来人間にあるはずの能力に蓋をしてしまっているということです。そんな私に対し、自分の中には確実にその力があるということを宇城先生は気を通して気付かせてくださいます。自分の中にそのような力があるということがわかるだけでも、自分を信じ、前に進む勇気が出てきます。言葉ではなくできる事実があることがどれだけの勇気に変わるのか。宇城先生に出会い、教育のあるべき姿はそこにあるということがよくわかりました。言葉でうまくやろうとするのではなく、実践を大切にする。そのような教育と学校を創っていくことが、教師塾で宇城先生にご教授いただいている私が目指すべきことです。まだまだ未熟で理解できないことも多いですが、少しでも宇城先生に近づけるように、これからも思考を深め、学びを深める努力を続けていきます。

ウクライナの問題や日本の政治の堕落、自然災害の脅威など様々な課題を通じて、人間の愚かさ、覚悟のなさ、平和ボケの怖さなど、これまで宇城先生が私たちに投げかけてくださっていたことが全て現実になってきていることがよくわかります。後から気づくのでは遅いことがある。気づいた時には手遅れだ。先生がいつもおっしゃる言葉です。この言葉をこれまで以上に重く受け止め、自分自身のスピードを上げていかなければならないと強く感じています。不安になることばかりが続く今だからこそ、宇城先生のように人々に希望と勇気を与え、人々を笑顔に変えられる人でありたいです。宇城先生が手を組んでいる人たちの手をほどくとき、ほどかれる皆さんに共通していたのは「笑顔」でした。たくさんの人を笑顔にする。これほど素晴らしい実践はありません。手遅れになる前に、自分の大切な人たちを守るために、自分にできることに全力で取り組みます。まずは新学期。目の前の生徒たち、そして職場の仲間たちと真剣に向き合います。貴重な学びの機会をいただき本当にありがとうございました。今後ともご指導よろしくお願い致します。

●中学校 京都 40代 男性

宇城先生この度は教師塾を開催して頂きありがとうございます。教育の大切さ、あり方、全てが自分次第。やれば出来る。様々な気付きを頂きました。明日から学校が始業する前日に参加させて頂き、改めて教師としての在り方、ぶらしてはいけない中心を見せて頂きました。自分、相手(子ども)何を大切にしなければいけないのか、餓鬼道、修羅の道。その中にも、思いやりの心や労りの心がある。また、相手との競争によるエネルギーが生まれるしんどい人生もある。しかし、それが正しい、またそれしかないような偽りの世の中がある。頭ではありますが、全てが実に繋がる本物の話しでした。頭で理解させてもらい。真実を知り、駄目なことも知りました。その後、実際に身体を使った体験をさせてもらいました。頭では駄目だと分かっていることを私はしていました。それが事実です。何故、何故、、、結局身に付いていないという事がよく分かりました。本物のエネルギーは自分勝手、己の欲からは生み出せない。できるかや俺がではなく、中心をブラさず(師)ただ信じる(師)頭は騙せても自分の心、目、身体全て分かっている。今日の検証でもよく分かりました。あの中に入っていく勇気とかではなく、あの行動がどこから出るのか。それこそが信頼。その信頼の電波は、周りに伝わる。エネルギーを人間は持って生まれてきている。今も持っている。使えるか、使えないかは自分の在り方次第。頭で理解ではなく、身体が分かった。そんな濃密な2時間でした。それは、我々、子どもの未来を本気で思う師がいるからです。私自身が出来ることしたいこと、すべきことは何か、見守ること、手を差し伸べていること。忙しくて、しんどくなるのは仕事のせいでも周りのせいでもない。私の在り方のせいだと感じました。この1番と言って良いほど忙しい時期だからこそ知れた、気付たと思います。身につくまでの稽古という日常。我々塾生は先生に身体で出来る自分をインプットして頂いています。ニュートラルに与えてもらったエネルギーを切らさぬよう、広げていきます。本日は御指導ありがとうございました。