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『道』204号 連載 岩井喜代仁 「今日一日を生きる」
<新潟ダルク>
ダルクは薬物依存者が社会復帰を目指すためのリハビリ施設です。
岩井さんは、自ら薬物依存に苦しむなかで、ダルクに出会って救われ、今は茨城ダルクの代表として、たくさんの薬物依存者を救う側として活躍されています。
岩井さんには、薬物依存者というだけではなく、
元やくざの組長で、麻薬の密売人もやっていたという経歴があります。
本連載では、そんな岩井さんが、自ら回復の道を歩みながら、一人でも多くの仲間の回復を求めて各地にダルクを開設するまでの歩みを語っています。
開設されたダルクの施設長(同じく薬物依存者)による手記も紹介されていて、どのようにして薬物依存と向き合い、現在の責任を果たしているかが綴られています。
今号では新潟ダルク開設に至るまでのお話。
岩井さんは、どんな時でも、どんなに裏切られても、人を信じ抜く。
その忍耐と愛情が、その人を変えていく原動力になっている。
本連載は、そんな岩井さんの
人間 岩井喜代仁 の物語でもあります。
『道』204号 連載 金澤泰子「きょうも、いい日」
<翔子の不思議なカラクリ>
ダウン症の一人娘、翔子さんが独立してすでに3年。
独立前からの翔子さんとのやりとりを、本誌連載で綴ってくださっている金澤泰子さん。
今号では、泰子さんの気持ちを「翔子さんへの手紙」という形でつづっていただきました。
いつのまにか喫茶店で働くようになっていた翔子さんに驚きつつ、その姿に心から感動しているお母さんの愛情。
たくさんの心配や迷いがあっても、翔子さんを信じ続け、その成長を見守ってきたからこそ……。
その思いがじんじん伝わってきて、涙、涙でした。
翔子さんとお母さん、
本当に素敵なお二人のものがたりです。
『道』204号 連載 宇城憲治「気づく気づかせる」
<正のエネルギーを培う「豊かな心」>
「気づく、気づかせる」は、毎号、ジャンルを問わず、あらゆる分野で活躍しておられる方と対談してくださっているUK実践塾の宇城憲治氏の連載ページです。
対談と一口に言っても、自分の知っている分野、知らない分野、得意な分野、苦手な分野、いろいろあるものですが、
宇城氏は、対談相手としてどんなジャンルの、どんな方が登場されても全く動じることなく、しかも、あらゆる話題にすうっと入り込み、
いつの間にかそこに、一体感すら生じさせてしまいます。
目に見えなくても、そこに存在するもの。宇城氏は今回の連載で、「人は、自分が接した文化や、時代が醸し出す目に見えない『空気』によって育つ」と書いています。
なぜならば、私たちは、人間としての喜び、かなしみ、良い、悪いというものを、言葉より先に空気を通して感知しているからだと言います。
だからこそ、私たち大人は、今、蔓延している負のエネルギーに対し、それに打ち勝っていく正のエネルギーを自らに培わねばならない。
本記事で宇城氏は、対立構図から調和構図への変化こそ、正へのエネルギーを培う土台となると説いていきます。
『道』204号 新連載 前島由美 「愛の関わりと連携で輝きを取り戻す子どもたち」
今号より、新刊『輝きを取り戻す”発達障がい”と呼ばれる子どもたち』の著者 前島由美さんの新連載が始まりました。
新刊の発刊以来、そこに紹介された子どもたちの変化の実例に、大きな反響が寄せられていましたが、実は、本書に載せきれなかった実例がたくさんありました。
本連載では、そうした、ゆめの森こども園での、回復事例をひとつずつ、丁寧に紹介していきます。
お母さんと二人三脚で子どもたち回復に取り組む由美先生の、温かさ、やさしさあふれる
素敵な新連載です。
第一回は、
「お母さんの心がほどけたことで変わっていったリュウくん」のお話です。
『道』204号 連載 野村哲也 「地球を歩く」
<熊の王国>
てっちゃんこと野々村哲也さんが、アメリカアラスカ州にある世界屈指の熊の王国を訪れ、たくさんの個性あふれる熊の写真を紹介してくれました。
とにかく、てっちゃんが撮ってくる写真は、まるで「被写体と、構図を打ち合わせでもしたのですか?」と言いたいくらい、偶然にしては自然すぎる、表情豊かな写真ばかり。
夕日をじっと見つめる哀愁あふれる熊さんの後ろ姿があると思ったら、夕日に向かって合掌する熊さんがいたりと。
今号は、野村さんの愛すべきキャラクターがのりうつったかのような熊さんたちの写真が満載です。
とにかく癒されます!
『道』204号 インタビュー 影山智洋 「写真が照らす家族の絆 父・影山光洋が刻んだ昭和の記録」
『道』204号 インタビュー 影山智洋 『写真が照らす家族の絆 父・影山光洋が刻んだ昭和の記録』
「戦後というと食糧事情ももちろん大変だったのですが、
その中には人間の生活があって、笑いもあった。
苦しい中にも日本人というのはちゃんと生活していたんだということを、
『昭和』という形で記録しておこうと、
父は家族をテーマに写真を撮ったのだと思うのです。」
これは、昭和の時代に報道写真家としてスクープをものにするなど活躍した、影山光洋氏を父にもつ影山智洋氏の言葉です。
記事では、お父様の光洋氏が撮った写真をふんだんに掲載しています。
光洋氏が、戦前、戦中、戦後に撮られてきた写真は、当時の社会情勢の記録だけでなく、人間の営みそのものに目が向けられていて、まさに、昭和という時代の空気を感じさせるものでした。
また、光洋氏が家族をテーマにしたアルバム『芋っ子ヨッチャンの一生』は、わずか5歳2ヵ月で亡くなった三男を記録したもの。
写真からは、あふれんばかりの家族愛と、貧しくも豊かだった昭和という時代が浮かび上がってきます。
同じく写真家で、光洋氏の次男である智洋氏に、お父様への思いとその足跡を語っていただきました。
『道』204号 インタビュー 比嘉照夫「微生物が教える共生する生き方」
EMの開発者で琉球大学名誉教授の比嘉照夫先生にお話を伺いました。
EM(Effective Microorganisms)とは、聞きなれない言葉ですが、一言でいうと、善玉菌の集合体
もう少し詳しく言えば、
農地や水環境の改善に威力を発揮する光合成細菌や、発酵型の乳酸菌、酵母など、人にも環境にもやさしい善玉菌の集合体のことを言うそうです。
この善玉菌たちのすごいところは、汚染された水や土を浄化させたりなど、実にいい働きをたくさんしてくれるところです。
一例をあげれば、
塩害被害を受けているところを再生させたり、
ヘドロが堆積して臭く汚い川をよみがえらせたり、
農作物の質や栄養を倍増させたり、
さらには放射能を消滅させたりもするのだそうで、本当にすごい。
1982年に比嘉照夫先生によって開発されたこのEMは、現在、農業はもとより河川浄化や環境、健康、建設、放射能対策などの分野で150ヵ国以上で利用されていると言います。
つまり、実績も長いし、多いのです。
しかし、様々な利権のために、これまでマスコミではほとんど報道されることがないのだそうです。
多くの誹謗中傷を受けたりもしたそうです。
私たちも、前号(203号)で、このEMについを映画化した、映画監督の白鳥哲氏に取材するまでは、EMのことを知りませんでした。
子供の頃から農業の指導者を志していた比嘉先生は、高校、大学、大学院と、沖縄農業の合理化と発展を目指し、徹底的に近代農業を研究実践されてきたそうですが、その過程で、自ら農薬中毒症になり、挫折してしまいます。
その体験から比嘉先生は
「原理はすべて自然にある」
と、一転、微生物研究に徹し、その研究のなか、まったくの偶然が重なって、EMの発見につながったと言います。
「EMの技術を活用して大宇宙に恥ずかしくない地球にしたい!」
と語る比嘉先生に現在の活動に至る思いと歩みをじっくり語っていただきました。
『道』204号 巻頭対談 内永豊「故郷が人を育てる 時代を生き抜く発想の力」
今号の巻頭対談にご登場いただいたのは、スカイラインGT-Rチューニングスペシャリストとして活躍する内永豊氏です。
スカイラインGT-Rといえば、車好きの方であれば、誰もが一度は手にしたいと願う名車中の名車。
ケン&メリーの歌声のコマーシャルで記憶している人も多いかもしれません。
宮崎県小林の出身で、宇城憲治氏の小学校、中学校の同級生でもある内永氏は、
高校の時は、不良仲間の番長を務めていたそうですが、ある騒動の責任を取って高校を一年で中退し単身横浜に出てきて17歳で兄たちが経営する星モータースに就職。
「高校に行かなくなったから、その分頑張らないといけない」とその後は一生懸命に自動車整備の勉強をしたのだと言います。
そして2年後には、当時最もレベルの高かった二級自動車整備士の国家資格を習得。
その後、車好きな人の独特の世界のなかで、常に「その人が満足できるように」と最高を目指し、車を徹底的に追求。
現在は、スカイラインGT-Rという最強の名車のチューニングスペシャリストとして活躍されています。
内永さんは言います。
「GT-Rというのは、最強で最速というのがひとつの姿。
しかし、『最強』というのは、速いだけではなくて、
ふつうにゆっくり走っても、飛ばしても、
すべての面で最高、最強でないといけないのです」
最強だからこそ、強さだけではなく、中身を伴わなければならない。
そのために、エンジン本来のもつ性能を十分に発揮させ「最高」を引き出す。
学歴・肩書に関係なく、ただひたすらに自分のなかにある情熱と努力で「最高のものを提供する」ため、磨かれていった技術力、発想力。
内永さんの生き方は、今の厳しい時代を生き抜くヒントであり、また一つの模範となっていると思います。
戦後間もない時代に生まれた両者のお話からは、
貧しい時代であったけれども、勢いがあり、希望に満ち、何よりも心が豊かな時代が浮き彫りとなりました。
故郷、良き出会いがいかに人の活躍の土台となるか、教えられる対談でもありました。
〈訃報〉ねむの木学園 宮城まり子さんがお亡くなりになりました
ねむの木学園の宮城まり子さんがお亡くなりになりました。
2009年春の季刊『道』160号でインタビューを掲載させていただきました。
かわいらしくて、やさしくて、あったかい。
子どもたちのことが愛しくて愛しくてたまらない。
まり子さんが語ってくださる子どもたちのエピソードからは、そんなまり子さんの気持ちがまっすぐに伝わってきました。
インタビュー「ありったけの愛と命をこどもたちへ」からちょこっとご紹介。
・・・・・
(先生のやってこられたことは、こどもたちの絵が証拠です。誰にでもあんな才能があるんだって教えてくださいました。)
私、良かったなと思ったのは、私が施設を40年前に始めた時には、「なぜこんなかわいそうなこどものために」とか、そういう質問ばっかりだったの。だからなんて日本人は、ちびっちゃいなと思っていた。今のあなたのような質問、ぜんぜんなかったわ。今はそれだけ世の中広くなったわね。でも世の中広くなった代わりに、「感じる」ものがちょっと少ないかなぁって思うのね。
今、偉い先生方、たくさんいますが、その方々も、30歳の時、40歳の時、今とは違うことを思っていたのよ。
今忘れているから言わないだけ。
「あった」心。
こどもの頃、「なんでこれしたいのにお母さんはいけないって言うの!?」って抵抗したことが絶対あると思う。その時、そのこどもはもしかして「本当のこと」を感じていたかもわからないよ。
お母さんが、大人のほうが忙しくて、本当のことが分からなかっただけかもわからないのよ。
でもいつの間にか、長い年月の間にその子たちが大人になって、偉いことをちゃんとできる立派な先生方になっていらっしゃるんじゃないかなって思う。
今度出す本ね、「約束」っていうタイトルで出すの。「結婚しましょう」「明日の晩はこのおかずにしましょう」、そういう約束じゃないの。何か分からないけど、いろんなものとの約束、そういう「約束」。
お花が咲いて5歳の時に感じた綺麗さと、20歳の時の綺麗さと、30歳の時と感じ方が違うじゃない。だからその時その時を必死に生きていくことが、私は好き。
だから今の偉い方がこどもの時も偉かったとは思えない。私はペケだから、いつまでもこどもたちと同じ感覚でいられるのね。
・・・・・
「私はいつでもありったけ。
明日死んでも、
ありったけやるの」
お言葉通り、子どもたちのために「ありったけ」で生き抜いてこられたまり子さん。
心から、ご冥福をお祈りいたします。