合気道とは (文 スタンレー・プラニン Stanley Pranin )
近年、合気道は発生の地・日本のみならず海外においても知られるようになった。これは戦後、合気道が着実に発展してきた当然の結果ともいえよう。しかし、伝統武道として認識されてはいるものの、柔道、空手、カンフー、テコンドーといったポピュラーな武道と混同される場合が多い。
合気道がこうした武道と異なる点は、歴然とした技の違いは別として、護身術に徹しているという点である。ほかの東洋武術が攻撃技と防御技の両者を織り込むのに対し、合気道は、その哲理と理念により、自ら攻撃する技をもたない。
武術が攻撃技と防御技を持つと、当然、スポーツ的な面が強調されるようになる。1964年以来のオリンピック種目である柔道はもとより、空手、テコンドーなどがその例である。これらの武術の稽古生にとっては、護身術を稽古するよりも試合に参加し勝つことがより重要な課題となる。
一方、合気道の修行は、護身技の修得を通じて精神的な成長を目指す。この合気道の精神性は、稽古しているときも道場を離れているときも、稽古生の態度にあらわれる。開祖・植芝盛平はその哲理の中で、「合気とは敵と闘い敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめるもの」と定義づけている。
熟練した合気道家は、暴力に出合ったらその攻撃を制するだけにして、相手を傷つけない配慮をするのを理想とする。真剣に合気道の道をいく人は、さらに高いレベルを目指す。対人関係においても、社会生活においても、そこに潜在する争いや暴力に対しては、常に敏感であるよう心掛ける。稽古により自信や油断のない心構え、洞察力などを養成することで、争い事を事前に予測し避けるのである。もちろん、このような高度の目的を達成するには、何年にもわたるたゆみない修行が必要であることはいうまでもない。合気道は一生続けられる修行である。真面目に励めば技をどこまでも伸ばし、人間への理解を一層深めることができるであろう。
合気道開祖 ・ 植芝盛平
今日の日本武道全体から合気道の特異性を把握するには、開祖植芝盛平を知ることなしには不可能である。我々が、盛平という人物に興味をそそられるのは、彼が今日とは異なった時代の人間である上に、彼の生きた時代、文化的背景においても異彩をはなった存在であるからである。
盛平に見られる神懸かり的思想は大本教教理の影響が強く、今日の日本人さえ理解しがたい。もし、合気道技が存在しなかったら、その理解はほとんど絶望的ともいえる。技があるからこそ、言葉や文化の違いを越えて、合気道神髄への道を誰もが歩めるのである。
合気道に影響を与えた 大東流合気柔術
植芝盛平が武田惣角に初めて会ったのは、1915年2月、入植先の北海道遠軽においてである。
武田惣角は盛平より数年早く北海道に居住しており、柔術を指導しながら北海道内をまわっていた。当時、盛平は32歳、武道の才に恵まれ、ひとかどの武道家だった。しかし、武術家として最盛期の惣角には、まったく太刀打ちできなかった。惣角の力強い、複雑な大東流技に魅せられた盛平は、これを学ぶためには時間も出費もおしまず、惣角を自宅に宿泊させて個人教授を受けるほどであった。
惣角の高弟の一人となった盛平は、道内をまわる惣角の供をすることもあった。この北海道時代に盛平は惣角から巻物『秘伝目録』を授与され、かなりの大東流技を修得している。大東流には関節技や抑え技などの複雑な柔術技が数百種類ほどある。また惣角は攻撃者の気を制御して攻撃力を緩和させる「合気」の使い手でもあった。さらに、惣角は剣、手裏剣、鉄扇、その他の武器技に優れていた。
大東流柔術技は盛平に決定的な影響を与え、後の合気道技の基礎となったといっても過言ではない。
スタンレー・プラニン略歴
Stanley Pranin
1945年 アメリカ・カリフォルニア州、サンペドロに生まれる。
1968年 カリフォルニア大学(UCLA)にて修士号取得。
1962年 高校の時に合気道を始め、1965年に初段取得。その後、十数年にわたり北カリフォルニア、南カリフォルニア、エチオピアの各地で合気道を指導。
現在5段。
1974年 カリフォルニアにて英語版『合気ニュース』を創刊。
1977年 日本に移住。『合気ニュース』を日英版とする。
1990年 『合気ニュース』を英語版、日本語版に分けて出版。
2001年 英語版『合気ニュース』『Aikido Journal』をメールマガジンとする。武道交流の祭典「AIKI EXPO」を主催。季刊誌『合気ニュース』編集長(のちに季刊『道』と誌名変更)。
現在は、インターネットマガジン『Aikido Journal』編集長。アメリカ、ネバダ州ラスベガス在住。