「先日は、ご来訪、恩師植芝先生を向顔する
珍しい貴重なフィルムを見せていただき、
嬉し涙がこぼれました。
心から御礼申し上げます」
これは、植芝盛平翁に学びその後武田惣角に師事した大東流の久琢磨先生が、スタンレー・プラニンにあてた葉書の言葉です。
プラニンは、雑誌『合気ニュース』(季刊『道』の前身)の初代編集長で、植芝盛平翁の研究家でした。
おそらくこの葉書は40年前のものだと思われますが、どんな背景があったかというと――
1977年に来日以来、プラニンは、植芝盛平のありとあらゆる資料を集め歩いており、何かの情報から大阪朝日新聞社に1935年に撮られた植芝盛平翁の映画のフィルムが眠っていることをつきとめたのです。そして、プラニンは持ち前の粘り強さをもって大阪朝日新聞社に交渉し、この映画を世に送り出しました。
どのように久先生に会うことになったかはわかりませんが、久先生に会いに行ったプラニンは、この映画を久先生の前で上映したようです。なぜならば、この映画に盛平翁とともに出ているのが、久先生ご本人であったからです。
その時のことを、久先生は、朝日新聞の広報誌に掲載された『私の履歴書 ― 余生を合気道と大東流合気柔術の遺伝に―』に次のように書かれています。
「・・・寸暇を縫って自分の体力を養なうため、得意の相撲や柔道などの武道の修練を怠らなかった。
とくに石井先生からすすめられ、紹介された植芝盛平先生について、合気術という、関節の逆極め技を特長とする、柔術の勉強、練磨につとめた。
何事も熱中する性質の私は植芝先生とその高弟一門を自宅に迎え、寝食を共にして習練につとめるという熱中ぶりであった。
単に逆極柔術を習練するにとどまらず、この秘伝を後世に残すことを思い立ち、その技を一つ一つ写真にうつして技法の解説文をつけることを始めた。
また、この秘術を映画に撮って残しておきたいと写真部に頼み、自ら映画監督となってフィルムを完成した。
その後いろいろなことがあって、実は私自身こんな映画をとったことも、フィルムがどこかに残っていることもすっかり忘れていたが、最近、アメリカ人の篤志家、スタンレー・プラニンという人が、植芝合気道のことをいろいろ調べていて、このフィルムを発見し、私のところで映写して見せてくれた。
劈頭(へきとう)に「朝日新聞社撮影、監督久琢磨」の文字が現われた時の驚き。やがて現われた若き日の自分の姿に呆然とし、並んで映画を見た植芝道場生き残りの高弟の一人米川君と互いに「若いなぁ」「あんたこそ」と老爺二人がクックッ笑いをとめえず、しばしタイムマシンにのった思いであった」
記録映画『武道』より 中央 盛平翁 左側 黒い羽織を着ているのが久琢磨先生
後世のためにと残してくださった久先生、そしてその眠っていた資料を発掘したプラニン。
いろいろな人が関わるなかで、偶然や奇跡、そして執念も加わって、大事な歴的資料が残っていくのだとつくづく思います。
この1935年に撮影された映画は、弊社のDVD『植芝盛平と合気道』第1巻に収録されています。当時盛平翁は51歳、いまだ大東流の影響が色濃く残る技のなかに、現代合気道に通じるなめらかな円転の動きが見て取れます。
このDVDでは、この映像とともに、合気道開祖の生い立ちから合気道草創期までの翁の生涯を、これまたプラニンが執念で集めた記録写真を使い、詳細なドキュメンタリーとなっています。
ドキュメンタリーでは、プラニンが行なったインタビュー時の音声を使って、いろいろな先生方が当時の様子を語ってくださっています。
合気道普及のいきさつを植芝吉祥丸先生が、
盛平翁との衝撃的な出会いを塩田剛三先生が、
盛平翁を試した時のことを中倉清先生が、
第二次大本事件の時の植芝先生の様子を白田林二郎先生が、
そして戦前の合気道を修業した初期の女性の一人で1933(昭和8)年に出版された合気道技術書『武道練習』の挿絵を描いた経緯を、国越孝子先生が語っておられます。
自分の足で探索して手に入れ、自らまとめ上げで世に出し、残していく――
この『植芝盛平と合気道』という映像シリーズは、つくづくプラニンの志と執念の結晶だと思いました。
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