1859年10月10日~1943(昭和18)年。
会津(福島県)河沼郡広瀬村大字御池田63番地に武田惣吉の次男として生まれる。
2度結婚し先妻・こん との間に2人もうけた。長男の名は宗清という。後妻・すえとの間には、武宗、たえ、時宗(惣角を継ぐ)、榮子、宗光、しずか・宗吉をもうけた。
明治、大 正、昭和の三代にわたり日本で大東流合気柔術を広める。日本全国を回りながら陸海軍や警察関係、また家庭の裕福な者に指導した。長い武道人生の中で、約3 万人の門人に指導したと言われる。
植芝盛平には1915年、北海道遠軽で初めて教授した。著名な弟子に吉田幸太郎、佐川幸義、堀川幸道、久琢磨などがいる。
〈 関連書籍 〉
会津(福島県)河沼郡広瀬村大字御池田63番地に武田惣吉の次男として生まれる。
2度結婚し先妻・こん との間に2人もうけた。長男の名は宗清という。後妻・すえとの間には、武宗、たえ、時宗(惣角を継ぐ)、榮子、宗光、しずか・宗吉をもうけた。
明治、大 正、昭和の三代にわたり日本で大東流合気柔術を広める。日本全国を回りながら陸海軍や警察関係、また家庭の裕福な者に指導した。長い武道人生の中で、約3 万人の門人に指導したと言われる。
植芝盛平には1915年、北海道遠軽で初めて教授した。著名な弟子に吉田幸太郎、佐川幸義、堀川幸道、久琢磨などがいる。
〈 関連書籍 〉
〈 武田惣角 年譜 〉
西暦 | 年号 | (年齢) | 事 項 |
1859 | 安政6年 | 10月10日 福島県会津坂下町御池御伊勢の宮・武田屋敷において武田惣吉の次男として生まれる。 | |
1867 | 慶応3年頃 | (8) | 大東流、相撲、槍術を父・惣吉から学ぶ。郷士の惣吉は教育のある人物であり、また地方相撲の大関だった。小野派一刀流を会津坂下町養気館道場で渋谷東馬より学ぶ。剣は小野派一刀流、槍は宝蔵院流高田派。 |
1868 | 明治元年 | (9) | 会津戦争を目のあたりにして育つ。(母とみ没 惣角9歳)黒河内家の養子となる。 |
1873 | 明治6年 | (14) | 東京の直心影流榊原鍵吉道場の内弟子として入門。剣、棒、槍、半弓、鎖鎌、薙刀など武芸十八般を学ぶ。 |
1875 | 明治8年 | (16) | 春 榊原道場より会津の郷里へ向かう途中、暴漢同士の争いに巻き込まれる。4、5人を斬り倒してかろうじて脱出する。 |
1876 | 明治9年 | (17) | 秋 会津坂下、柳津間の山道に出没して旅人を困らせていた3人の山賊と闘い、打ち負かす。 9月2日 惣角兄・惣勝の死により、兄の跡を継ぐことになり、福島県白河郡都々古別神社の保科近悳(西郷頼母)のもとで神職見習を行なう。九州の西郷軍へ参加することを決意し、わずか2、3週で神職見習いを辞める。 11月 榊原鍵吉からの手紙をたずさえて大阪天満の鏡新明知流の桃井春蔵道場に到着。 |
1877 | 明治10年 | (18) | 西郷軍に参加しようとしたが、警戒が堅く失敗に終わる。 9月 西南戦争の後、武者修行のため九州に旅立つ。警察の厳しい武器取り締まりのため道場を閉めるところも多く、惣角は九州で軽業一座に加わる。熊本県において沖縄手の名手を剣槍で鍛えた素早い体捌きを使って破る。 |
1879 | 明治12年 | (20) | 沖縄諸島を武者修行してまわった後、九州に戻る。剣道は復活し、惣角は九州での剣道修行の旅を続ける。 |
1880 | 明治13年 | (21) | 九州熊本の坂井道場にて槍術を学ぶ。 7月 宮崎県日南市の鵜戸明神へ赴く。吾平山頂にて2週間、密教を学ぶ。 |
1882 | 明治15年 | (23) | 福島にて工事人夫たちを相手に一人で闘う。 |
1887 | 明治20年 | (28) | 西郷従道の警護のため北海道へ随行する。 |
1888 | 明治21年頃 | (29) | 福島県にてきくと結婚。 |
1889 | 明治22年頃 | (30) | 長女・照が生まれる。 |
1891 | 明治24年 | (32) | 12月 長男・宗清が生まれる。 |
1898 | 明治31年 | (39) | 東北地方にて武道教授。福島県霊山神社に保科近悳を訪ねる。 |
1899 | 明治32年 | (40) | 英名録に“大東流柔術”の字が見られる。 |
1903 | 明治36年 | (44) | 盲目の槍術家・下江秀太郎に伴い、仙台第二師団を教授する。三浦真陸軍少将、英名録に署名。 |
1904 | 明治38年 | (45) | 裁判所の要請により、裁判妨害阻止のため北海道函館に赴く。 1906 明治39年 1月2日 父・武田惣吉没。享年87歳。 1910 明治43年 秋田警察部長・財部實秀の北海道赴任に伴い網走に同行。 |
1912 | 大正元年頃 | (53) | 山田スエと結婚。以後、北海道は惣角の本籍地となる。 |
1915 | 大正4年 | (56) | 吉田幸太郎入門。 2月 吉田幸太郎の紹介により遠軽にて植芝盛平入門。 |
1916 | 大正5年 | (57) | 時宗生まれる。 白滝の植芝宅に滞在し、教授を行なう。植芝、惣角より秘伝目録を授与される。 |
1919 | 大正8年 | (60) | 植芝の和歌山への帰郷に際して、植芝の自宅を譲られる。 |
1922 | 大正11年 | (63) | 惣角、家族と共に綾部の植芝宅に6ヵ月滞在。植芝盛平に教授代理を授与する。 綾部の植芝塾にて大本教の信者および海軍士官たちに教授する。 浅野正恭中将ほか士官、英名録に署名。 |
1929 | 昭和4年 | (70) | 竹下勇海軍大将による『武田惣角武勇伝』が発表される。 |
1930 | 昭和5年 | (71) | 北海道にて東京朝日新聞社の記者による取材を受ける。 9月 妻・スエを白滝の火災で失なう。 |
1931 | 昭和6年 | (72) | 植芝の名前が惣角の入門帳に見られる。 3月~4月 植芝の皇武館道場にて教授。 |
1934 | 昭和9年 | (75) | この頃から惣角の東北、関東、関西地区での活動が見られる。関東地区では佐川幸義を助手として教授してまわった。 |
1936 | 昭和11年 | (77) | 2月 暗殺された齊藤実首相の葬儀に参列。 春 埼玉県各地の警察で教授。 5月 東京日日新聞社にて教授。 6月 植芝の大阪朝日新聞道場での教授を引き継ぐ。 |
1939 | 昭和14年 | (80) | 大阪の久琢磨に免許皆伝を授与する。この免許皆伝を記した英名録に惣角、時宗連名の「大東流合気柔術総務長」の署名が見られる。 |
1943 | 昭和18年 | (84) | 5月3日 青森にて死去。享年84歳。 |
大東流合気柔術および合気道の各流派の師範の方々に、武田惣角にまつわるエピソードをうかがいました。植芝盛平などその他の関係武道者についても語られた本書は、他に類を見ない貴重な資料としても広く求め続けられています。
[書籍] 合気修得への道 ― 佐川幸義先生に就いた二十年 ― (木村達雄 著)
筑波大学数学系教授として学問の道をきわめる一方、大東流合気武術佐川幸義師範に就き、合気の道をきわめること20年。著者が語る数学研究と合気修行人生、そして師・佐川幸義師範のこと。また、佐川幸義師範の技写真(写真解説:著者)も本書に迫力を添えている。
季刊『道』前身、季刊『合気ニュース』で行なってきた、木村達雄氏への会見をまとめ、さらに氏による合気についての書き下ろし、実弟・佐川廣氏の会見、そして未公開のものを含む所蔵の写真でつづる佐川幸義のすべて。巻末に一部英文訳を収録した。