◆ インターネットの可能性
―― 本誌は創刊以来ずっと日英のバイリンガル版で出版してきたわけですが、1990年の84号から英語版『Aiki News』と日本語版『合気ニュース』に分けましたね。それはどういう事情があったのでしょうか。
プラニン 初期の頃の号と違って、1980年当時は会見記事以外にイベント情報なども載せるようになり、国内と国外では興味の対象も異なるし、それとバイリンガルで掲載するにはスペース的にも無理があった。日本の読者からも分けてほしいという声もあった。
―― そして、その後英語版は、『Aikido Journal』という誌名変更を経て、現在のインターネットマガジンに生まれかわりました。これはどういう経緯で?
プラニン アメリカでは取次ぎの条件が大幅に変更になり、小さな会社が取次ぎを通して出版するには、あまりにも条件が厳しくなった。そこで、当時からすでに創案していたネットマガジンへの移行を早めたわけです。
ネットマガジンになって、いろいろな意味で、印刷の制約がなくなり自由になった。もちろん不利な点もあるけど、私から見ればほとんどプラスなことが多かった。掲示板なども雑誌とは違う概念で活用ができた。
一番のプラスはインターネットでは、私が死んでも自分の研究を残すことができる。だから私にしかできないことに力を入れることができる。
また、ネットのお陰でメディアとしても技術的な面で可能性がずいぶん大きくなった。たとえば『合気ニュース』の古い記事を読みたいと思っても、その多くは絶版になってしまっている。しかし今はDVDとして雑誌をそのままきれいに残すことができる。カラーもね。三十年前の取材も今に新しく読むことができる。それは楽しみなことだよ。
―― そうですね、昔の記事も時間が経って読むと新鮮ですね。
プラニン みんな財産だよ。昔と違って、誰でも興味があれば、その時代に戻っていくことができる。将来的には、実現するかわからないけど、インタビューテープを編集して、亡くなった先生たちの肉声も紹介していきたい。
―― ダイレクトに聞くことができるわけですね。過去のことではなくなりますよね。
プラニン そういうこと。現在の記事と過去の古い研究記事を同時に“読む”ことができるんだよ。二十年前に取材した内容を今日に活かす、現在の記事に甦らせることができる。
そういう意味では、百年、千年前のこと、あるいは小説のなかのフィクションだって、内容さえよければ、すべて材料にできるんです。そこに新しい古いはないと思う。
子供というのは大人になると、親のことを見直したり、どういう生き方をしたのだろうかとあらためて興味を持つものだけど、でも、そのときに、もう親はいないかもしれない。親のことを亡くなる前によく知っておけばよかったという話をよく耳にするよ。僕の場合は、『合気ニュース』には、僕がやった記事や論説がたくさん残されているから、これが僕の家族の財産になるよね。一般的に言えば、これからの人の財産になる。合気道の文化となる。そういう意味で合気会の発行している『合氣道新聞』も大事だし、今回のCD化(昭和三十四年の第一号から第五百九号までの合気道新聞が収録されている)はすごくいいことだと思っています。
―― ネットはそういう意味でも過去を未来につなぐ役割もあるわけですね。
プラニン ネットのような最近の技術の発展で人間の存在は根本的に変わってきている。一人がパソコンで発信した記事を何千人何万人が即座に読める時代にもなった。そういう情報の流れというのは、人間の歴史の中でははじめてだ。しかし、その効用またはその弊害を私たちはまだよく理解できていないと思うね。
◆ 武道の精神は国際的な舞台でこそ
―― そうですね。まだ歴史は浅いですからね。
プラニン だからモラル的なことが大事になってくるんだね。そのためにも武道が必要になってくる。ところが、今武道をやっている方々には、スポーツの影響が強いので、考え方もスポーツ的なような気がする。日本の武道の原理と考え方というのは、それとは根本的に違うと思う。昔の日本のいいところ(悪いところもたくさんありますが)、のエッセンスをまず理解することが大事じゃないかと思います。
武道には、時代や国境に関係なくどこでもいつでも応用できるエッセンスがある。それをよく理解して、毎日研究するという姿勢が必要ですね。それを今の武道家はほとんどやっていないんじゃないかと思う。
武道の精神は国際的な舞台でこそ応用しなきゃならないと思うよ。開祖の技を真似する必要はないけど、開祖にはどういう悩みがあったかとか、どういう苦労をしたとか、なぜ「武産合気」とか「正勝吾勝」とかいう理念みたいなものができたのかを知ることや、またそれを技にどうやって応用するかという現実のことも大事。そういう歴史を理解しなくてはならないと思うよ。
武道は、遊びじゃないし、レジャーでもない。武道をスポーツととらえるのは、若者に多いし、一生の修行ととらえていない人も多い。それだけレベルが低くなってしまっている。もし手本となる優れた人がまわりにいなければ、ある程度の努力でナンバーワンになり、それだけで満足してしまう。つまり人と比べた満足。自分の限界までいくということをしなくなる。そういうことでチャンピオンになった人は、明日になれば誰も注目しない、その程度のチャンピオンだと思う。
盛平合気道だけではなく、どんな武道も、創始者というのは、それを命がけでつくっているはずなんですね。その時の真剣な思いにたちかえる、それを学ぶという態度はどんな武道にも大切なことではないかと思います。
―― そのへんを本誌『合気ニュース』が発信していきたいですね。
プラニン そうだね。三十周年を迎えた今、ある意味でやっとスタート地点にたった気がするよ。私は一貫して言いつづけているのですが、合気道の理念と技を自分に吸収し、それを日常生活に具体的にどう応用できるかってところをこれからも注目していたいと思う。
―― 最後に、これからの日本武道、武術をやっている人へのメッセージを。
プラニン 人間には親がいて家族がいて自分のコミュニティーがある。その文化や社会から言葉、歴史、生活ぶり、食べ方とかいろいろなことを覚える。だからそこのなかでいろんな知恵がある。ナンセンスな面も、良くない面もある、素晴らしいところもある。それを普通は当たり前のこととしてそのまま真似する。
しかし自分が社会経験を積むなかで、あるいは様々な人との出会いのなかで、あるいは自分でよく勉強して、あらためてそういった常識を眺め、分析してみる。そうするとナンセンスな良くない否定的な面が少しずつわかってくる。そういうことをどんどん捨てる。逆にいいところ、知恵と言えるところを守って自分の子供たちに伝えるってことが大事です。私はみんなが当たり前と思っているところを捨てるから、人とは違って変人に思われ目立ってしまうけど、それは自分の幸せとつながっていくんだと思う。日本では私が外人だからそれができるけど、日本人がそういうふうに生きるのは難しいね。
メル・ギブソンはイエス・キリストの映画(「パッション」2004年アメリカ 監督・製作・脚本 メル・ギブソン)で世界を変えようとしているよ。たった一人の考えで。一人の人間がすごい影響力をもつ可能性がある。辛抱強さとか、鋭さとか、頑張る力とかそういうものがこれから一人ひとりに必要だと思います。
Stanley Pranin スタンレー・プラニン
1945年カリフォルニア州、サンペドロ生まれ。
1968年カリフォルニア大学(UCLA)にて修士号取得。
高校の時に合気道を始め、1965年に初段取得。
その後、十数年にわたりカリフォルニアやエチオピアの各地で合気道を指導。
現在5段。
武道交流の祭典「AIKI EXPO」を主催。
季刊誌『合気ニュース』編集長、インターネットマガジン『Aikido Journal』編集長。
アメリカ、ネバタ州ラスベガス在住。