『合気ニュース』創刊30周年に思うこと
 スタンレー・プラニン インタビュー

◆ 30年間に通算300回以上の師範インタビュー!

井上鑑昭道主

1988年に本誌主催で行なわれた親英体道演武会後のパーティーで
野口英世記念館 井上鑑昭道主(中央)

―― 忙しいですね。その頃から季刊で本誌を出していたのですか?

プラニン  最初は毎月出してたけど、私が忙しくなった時は年2、3回くらいになったり、けっこうアバウトだった。人が入って、少しずつしっかりしてきて季刊誌になった。一人ではそこまでできないからね。

―― お聞きすると、ずいぶんマイペースでやってこられた感じですが(笑)、それなのになぜ会社組織にする必要があったのですか?

プラニン それは、個人だけでなく、書店でも販売しようとしたからね。いくら雑誌、ビデオ、本を出したといっても、個人相手となると書店販売は難しかった。私だけだったら書店販売はやってなかったと思うね。なにしろ私は“ガイジン”でしたから。それがなにかとネックになって難しかったから、会社組織にすることは、書店に商品を卸すには、必要なことだったね。

―― ・・・なるほど、つまり、最初に会社ありきというより、やりたいことをやるには必要にせまられて・・・なわけですね。

プラニン そうだね、もともと私の活動は研究がメインだから。それさえできれば形にはこだわらなかったけど、出版している以上、そういうわけにはいかないよね(笑)。

―― インタビューはわりと頻繁にしていたのですか?

プラニン 日本に来てからはよくしてました。年10~20回ぐらいかな。

―― もちろん、開祖を直接ご存じの師範方を中心にインタビューなさってきたと思いますが、これまで行なった回数、先生だけでもたいへんな数ですね。

プラニン そうね。30年以上だから。同じ人へのインタビューも含めると300回以上の会見をしたんじゃないかな。

―― 300回!とりわけ印象深い、忘れられないという会見は?

プラニン どれも思い出深いものがあります。私は斉藤先生の弟子だったし、通訳として何回も旅行に同行しているから、たくさんインタビューできたし、とても思い出があります。戦前の門人方は、皆ご高齢だから、盛平翁の伝説を聞いてるみたいですごく楽しかった。
 私が聞きたい一番の内容は開祖のことだし、当然話がその先生方が若くて元気な時の、開祖のもとで稽古していた当時のことになるから、すごくたくさんいい思い出を持っていらした。私自身も、いろいろな先生へのインタビューを重ねていくうちに、古い時代の人たちのお名前や人間関係、時代背景などもある程度まで理解できるようになって、鋭い質問だって多少できるようになった。それで先生方がたくさん喋ってくださった。

斉藤守弘師範

1999年 斉藤守弘師範(左)と デンバーにて

 時には、すごくのって話してくださるので、失礼しますって、帰れない感じになることもあったよ(笑)。一番長いインタビューは、望月稔先生の9時間ぶっとおしの会見だった。その時の模様はビデオでも撮ったよ。
 開祖の甥の井上方軒(鑑昭)先生には、何度もトライして断られたなか、やっと実現した時は嬉しかったし、その後、私をすごく信頼してくれていろいろな話をしてくれたのはとってもいい思い出です。大東流の佐川幸義先生にも、一人で会いに行ったら門前払いをくったけど(笑)、木村達雄先生のおかげで会うことができて、たいへんだったけど嬉しかった。お会いするまで苦労したということで印象に残っていますね。

 開祖の戦前の弟子の米川さんにも何度もインタビューしましたが、ある時、先生は、戦時中、何度か殺されかけた経験を私に語ってくださった。私の伯父は神風パイロットに殺されてる。そんな経験をお互いしているのに、今私は先生に会見している・・・ そう思ったら、とっても不思議だったし、感動したのを覚えているよ。

―― 合気道がとりもつ縁でつながっている・・・。 反面なかなかインタビューをオーケーしてくれない先生方もいらっしゃったわけですね。

植芝吉祥丸道主

1978年 植芝吉祥丸道主に初めてインタビューした時の写真

プラニン そうだね。私は当時、神のような存在に思われていた開祖を、“人間植芝盛平”の偉業として、記録に残したいと思っていたから、会見するなかで、開祖のいい話ばかりを記録するわけではなかった。そういうことで、『合気ニュース』はけしからん、というふうに思う先生もいたけど、それは仕方がないことだったと思います。

 しかし、そんななかで道主植芝吉祥丸先生は、私のインタビューのお願いを一度も断ることがなかったし、実際インタビュー回数が一番多いのが吉祥丸先生です。先生は、私に開祖や合気会の歴史、戦前のお弟子さんたちのことなど、たくさんの貴重な情報を提供してくださいました。先生には心から感謝しています。

―― 外国人だから取材が逆にやりやすかったこともあるのではないですか?

プラニン あると思うよ。日本人は外人に対して無防備なところもあるのではないかと思う。私は当時日本に住んでいたんだけど、会見に行くと、「この人はアメリカからわざわざ取材に来た」というように思われたこともたくさんあって、「はるばる遠いところからご苦労さん! 」とか(笑)。

―― 嬉しい勘違いをされたわけですね。

プラニン そうだね(笑)。私はどこへ行くにも、テープレコーダーを持ち歩いた。それが正式な会見になるかならないかは二の次で、とにかく生きた証言を残そうと思ってテープに録音しました。記録したテープは千本近くあると思います。

―― それはすごいですね!それだけプラニン編集長は盛平翁に魅了されたわけですね。そのあたりのお話や今後の『合気ニュース』についてなど次号でまたお聞きしたいと思います。