―― 雑誌のスタイルになったのはどれぐらいからですか?
プラニン バイリンガル版にしたその30号ぐらいからかな。最初は12ページくらいだったよ。50号くらいから、さらに雑誌っぽくなったかな。
―― その頃にはまだ会社にはなってなかった?
プラニン そうね。会社にしたのは、1988年あたりだと思うけど。
それまでは、“趣味”という感じだった。当時僕は、技術翻訳をやっていたからね。『合気ニュース』は赤字でも出版は続けられた。購読料も取っていたけど、購読者は100人もいなかった。
―― 編集長自らまさに手作りの雑誌だったわけですね。そのような苦労をして出していくなかで、ページもだんだん増えていきました。その間のお話はまた次号でお聞きしたいと思います。
◆ 映写機かついで全国行脚の上映会
―― 前号では、本誌が生まれた頃のことをお聞きしましたが、本誌の出版を始めた頃から編集長は、開祖の古い映画などもずいぶん集め始めていらっしゃるのですよね。
プラニン 前にも言ったけど、高橋イサオ先生に見せてもらった開祖の8ミリフィルムが私が見た初めての開祖の映画です。その後、自分で入手したり、知り合いが持ってきてくれたりして、だんだんと集まっていきました。私はニュースレターを出して開祖のことを発表していたので、貴重な開祖のフィルムを手に入れた方には、じゃあ、これは彼のところに持っていこうか、というふうに考えてくれる人が多かったのが幸いだったと思う。1960年代以前の、日本がまだまだ貧しかった頃のフィルムは、ほとんどアメリカ人が撮ったものです。その頃ムービーカメラなんか持っていたのはアメリカ人のほうが多かったんじゃないかな。でも、1960年代以降は、日本人が撮影した資料も出てきました。
―― そうして集めたフィルムの上映会もされていますよね。
プラニン 最初の頃は友達が見たがれば、8ミリの映写機を出して自宅と道場で見せてあげてました。日本に来てからは、朝日新聞のフィルムを見つけた時に、岩間の自宅で上映しました。それが最初です。たしか大祭の時だったけど、その時は有川定輝先生や、スティーブン・セガールも来たよ。正式な上映会は、1983、4年頃、新宿文化センターでやったと思う。その時は、合気会師範の市橋紀彦先生とか、万生館の砂泊かん秀先生のお姉さんの砂泊扶妃子先生などもいらっしゃった。彼女との出会いはその日が最初かな。
―― 日本ではフィルムや映写機をかついで、日本全国行脚したとか・・・
プラニン それはね、来日してずいぶんたってからだけど。日本だけでなく世界をまわったよ。日本では、北海道から九州まで上映しに行ったし、海外は、アメリカはもちろん、フランスやイタリア、イギリス、ベルギーとか。
―― そのつどお客さんはけっこう集まったのですか?
プラニン 多い所では100人近く、少ないと2人ぐらいの時もあったかな。
―― ええっ!それは、経済的にもたいへんでしたね。
プラニン そうね。でも、その2人のうち1人がたくさん買ってくれたりして、けっこう助かったこともあったね(笑)。私は当時から上映したフィルムを売っていたから。私は、ただのコレクターになるつもりはなかった。自分のものとして、倉庫に大事にしまっていても、後世には残っていかないからね。それは失ったと同じことだから。見つけたら、欲しい人にわけていって、それで経済的に成り立っていけばいいかな、と。そうすれば、また次の映画を残していく資金にできる。でも当時はそれだけでぜんぜんやっていけなかった(笑)。
―― 当時、ビデオは出していたんですか?
プラニン いや最初は8ミリフィルムだよ。ビデオにしたのは1984、5年だと思う。たぶん第一回友好演武会の頃から・・・。
―― 映写会では、映写機とかも持って行くわけですよね?
プラニン そう。8ミリフィルムの時は、故障があるといけないから16ミリと8ミリ用の映写機を2台ずつ持って行った。重かった。30、40キロくらいあったかな。
―― すごい。それを何人で?
プラニン 二人か三人で、バックパックにしょってね。新幹線の駅での乗り降りが一番苦しかった。乗り遅れちゃうことだってあったよ(笑)。そのせいでヘルニアになったよ(笑)。
―― まるで、山登りですね(笑)。年に何回ぐらいあったのですか?
プラニン けっこうやったよ。ある年なんて、1年間で海外、国内を含めて60回ぐらいやったことがある。
それに私はその頃、斉藤守弘先生の通訳としていろいろ旅行もしてた。ヨーロッパを1ヵ月ぐらい先生と旅行したこともある。たしか1979年が一番最初で、1985年から89年くらいまでは毎年通訳として先生に同行していました。こういう時に上映会をやったこともあります。