◆ 『合気ニュース』創刊号のメイン記事は、大先生の「変わり種日本人」
―― 『合気ニュース』を始めたのは。
プラニン 1974年、モントレーの時代にニュースレターという形態で始めました、つまり冊子ですね。
―― ニュースレターを出そうと思ったのは、合気道の情報を欲しがっている人たちがいたということですか?
プラニン はじめはそれがメインじゃなかった。当時植芝盛平のことを書いた「変わり種日本人」という記事が『東京タイムズ』というスポーツ雑誌に掲載されていて(1966年 17回シリーズ)、友人がその最初の記事をくれたのです。それを何人かに手伝ってもらって訳し、友達にも配りました。英語で大先生について書かれたものは、ほとんどなかったから貴重だったし、自分の勉強のためということもあった。当時は出版物にする気持ちは全然なかったんです。
―― 欲しい人に分ける気持ちで印刷したという感じですか?
プラニン そうね。その頃はガリ版刷りです。ガリ版刷りは作るのが大変で、2、3人ぐらいだったらいいけど、欲しいという人が100人近くになったので、じゃあ印刷しましょうということで、だんだん大きくなっていった。その翻訳記事を、ニュースレターの中に毎回入れて、他に地域のニュースも加えるという感じでした。
だから最初の『合気ニュース』は、もっぱらこの大先生の「変わり種日本人」の翻訳記事が中心でした。
―― 合気道師範にインタビューをするようになったのは、日本に移ってからですか。
プラニン いや、一番最初は、3回目の来日時に行なった富木謙治先生のインタビューです。
―― その時の、特に覚えていることといいますと?
プラニン 早稲田大学で行なったのですが、富木先生は通訳の人を呼んでくれたり、とても親切な方でした。演武をして技の説明もしてくださった。先生は、直接惣角先生にお会いになったことがあるそうで、歴史的なことや大先生の初期の頃について詳しく、お話はおもしろかったですね。
―― それを契機に積極的にいろいろな方にインタビューをするようになったのですね。つまりライフワークの植芝先生の研究を始めるようになった。
プラニン そうです。最初に来日した時は、吉祥丸先生と藤平先生への紹介状を持っていきました。その紹介状には、大きな目的はもちろん稽古することですが、植芝盛平先生の研究をしたいということも書いてありました。だけど本部道場からは、結局具体的な研究の協力はもらえなかった。当時出ていた本は宗教色が強いものか、技についてのものばかりで、植芝先生のことはよくわからなかった。だから自分で動いて研究するしかないと思ったわけです。
―― 最初に日本を訪れた時はすでに開祖は亡くなられていたのですよね?
プラニン 逝去の2ヵ月後です。開祖の奥様が亡くなった日に僕は日本に着いた、6月26日です。日付まで覚えてるよ。開祖にお会いしたかったですね。
―― 日本に移ってもニュースレターはずっと続けていたのですか?
プラニン そうです。来日して半年か1年たってから日英バイリンガル版にしました(『合気ニュース』30号より)。和文タイプを買って、自分で全部打ったんだよ。日本語もね! 自慢だったよ(笑)。
―― すごい! それは自慢していいと思います(笑)。
プラニン でも、僕が手に入れたのは中古で「いろは」順、順番を覚えるのが大変でね。
―― いろは順!活字は反転しているから「さ」とか「ち」とか、どっちかわからないですよね(笑)。
プラニン そう。50音のもあるけど、そのプレートをまた買わなきゃならない。それを貯金して、買おうかな、というところでやめた。あとは人に頼んで打ってもらった。でも2号は自分でがんばって打ったよ。