『気によって解き明かされる 心と身体の神秘』
宇城憲治 |
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自分は本書の中の「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かう所に応ずる」という言葉の中に、“言葉で表現することのできない、何かとても大きいもの”を感じました。この言葉の意味や本質は、後半に記載されているのですが、この言葉に対し、“未来への見通し”というものを感じました。宇城先生やM先生が使われる“気”と同じで、今現在のことに対して物事を見るのではなくて、先に対して物事を見る。すなわち先を見通すということが未来を見通すことにつながり、その先を見通すことがまた今へとつながってくる。だから“身体”という“今”は、“内なる気”という“未来への見通しの力”によってつながって動かされるのだと自分は解釈しました。
そしてその後、身体によって動かされた今は、行動を起こし、その行動は自らの未来への見通しによって見通された未来に、自分がこうなりたいとか、こういうことをしたいなどの夢や目標に向かって歩み出します。だから何かを成し遂げようと思ったら、夢を決め、その夢を叶えるためには自分が今何をしなければいけないのかを考え、それに対して自分がこうしたい、ああなりたいというパワーを未来への見通しの力へと変え、どんどん行動することが大切なのだ、という感想を自分はこの言葉を見て持ちました。
こう思ったことが正解なのか間違いなのかはわかりませんが、この感想がもし間違ったものであったとしても、自分はまだまだ浅いんだなと反省し、もし合っていてもこれでいいということではないので、もっともっと深いところまで考えを深めていきたいと思いました。
大人がスクラムを押しても動かないのに、子供が押すと動くのは、衝突の頭で考える「押そう」ではなくて、ただやってみたいと思う好奇心で押しているからだと思います。大人になっていくにつれて、失敗を恐れ、自分から動かなくなるので、いざ何かしたときに力みが生じるのだと思います。「自分から動いて、やるだけやって、失敗したら仕方ない。また次や」と、それくらいの気持ちで何事もしたらいいと思っています。頭で思う好奇心ではなく、心で思う好奇心が成功へと繋がると思いました。
宇城先生の講演会なども、子供はすぐに自分で試してみるのに対し、大人は他人がしているのを見るだけなので、そこに好奇心があったとしても、それは頭で思う好奇心なので、周りと調和したり気が使えないのは当たり前だと思います。いろいろなことを経験してみることこそ、成功や失敗に関係なく、一番大切なことだと思いました。ありがとうございます。
この本そのものに「気」があると思いました。気は、自然に対しての「調和力」、自分への調和、それは争い、衝突のない逆の世界あるいはその上にある世界だと感じました。僕達の体は60兆個の細胞からできていて、生まれた瞬間から「統一体」なのに、いつのまにか大人になって部分体に近づいてしまいます。これは、大人が子供に~しろと命令するとなっていくことですが、かといって今の世の中でそうしろという風に言ってしまうのは仕方ないと思います。なので、僕が親になったら言葉で言うのではなく、父親らしく背中で喋れるようになりたいと心から思いました。宇城先生のような指導者に出会えたことに本当に感謝しています。
僕達人間が、他の動物が絶滅していく中で生き残った理由は、「助け合う」という心があったからで、助け合うというのは強い者が弱い者を守るというだけでなく、弱い者も他の何か大事なものを守ることができるから「助け合う」だと思います。人はこの心を忘れて欲望を出してしまいがちですが、本当の敵は自分の中におり、その敵に打ち勝つことが日々の修業だと思います。
僕は、宇城先生の本を読ませていただいて、筋トレをしたところでそれは部分を鍛えているだけで、何の意味もないということを知りました。僕達人間は、本来生まれてきたときは誰もが統一体であるのに、大人になっていくにつれて部分体へとなっていくことは、とても残念なことだと思いました。僕達はロボットのように部品でできた集合体ではなく、一つの生命体であるから、人間とはとても素晴らしいものだと思いました。
また、相手と対立するのではなく、調和することにより生まれる力は、腕力などとは比べものにならないほどの力であると知りました。本の中の、大人が全力で押しても倒せないスクラムを、幼児は簡単に倒しているのを見て本当に驚きました。このことからも、部分体の大人よりも統一体の子供の方が強いとわかりました。だから、部分を鍛えるのではなく、全体を一つとして考え、鍛えることが大切だと思いました。
これまで宇城道塾で初級・中級・上級の中で体験させていただいた事を1つ1つ思い起こしながら、考えさせられるような内容でした。
章と章の合間には、同じ道塾の塾生や空手実践塾の方の感想文が掲載されており、宇城先生との出会いにより、内省し謙虚に変わっていく過程が自分自身と重なり、改めて日本人の謙虚な本質について、確信を覚えました。
その他、幕末に日本を訪れた外国人が、日本という国に対して驚きと尊敬の念を感じてくれていた事については、とても嬉しく思いました。昔の日本人は、共生することを美徳とした、文字通り周囲と共に生きることに幸せを見出した国民だったのだと思います。だとしたら、常に他人を出し抜こうと考え、足を引っ張り合うことに終始している今の日本人は何と不幸なのでしょうか。また、そんな今の日本人が昔の日本人に勝るものなんて、何1つ持っていないのだと思います。西欧の人が驚いた国家の品格や、ジャポニズムと憧れられた文化すら失ってしまったのでしょう。他人より1つでも多くの物を持とうと考えた結果、私たちは今幸せになるためのものを何1つ持っていない国民になってしまったようです。
自問して変化し成長することにより、「日本人としての正直さ、素直さ、謙虚さ」を取り戻し、何者にも奪われない真の独立を今こそ取り戻さなければならなければと、本を読ませていただいて改めて感じました。
宇城道塾で繰り返し教えていただいたことを再度ゆっくりと語り聞かせていただいた、そんな思いで読みました。また、先生ご自身が今でも“気”によって可能になる“事実”に対して、こういうことかな?と吟味をなさっているご様子が伝わって参りました。日々、先生が私たちに見せて下さっているのは先生が辿られた跡ではなく、先生のリアルタイムの生き様だと改めて感じました。
本の初めに書かれていた二つの言葉、未知の世界を分母に置き自分を見ること、自分自身に対しての『調和力』、これらが胸に強く残りました。心にしっくりと入りました。アメリカ在住の方の感想からは、先生の教えを自分の日常生活に照らし、「先生のあの言葉は、自分の生活の中ではこういう事に当てはまるな」、あるいは「こういう振る舞いや心がけが先生の教えに叶うのかな」といった真剣な思いが伝わって参ります。季刊『道』で出会わせていただいた夢多工房 秋吉さんの学びの姿と重なりました。学びを即、日々の生活のフィードバックさせる速さを感じます。国内の塾生仲間も、授業を受けるような姿勢から自分の生活に反映させる学びへと変わってきていることを感じます。私にその速さが欠けている原因は、自分の本性と日々の出来事を調和させる力の弱さです。読み終えて、自分の輪郭がよりはっきりした感じがあります。自分の内面との調和を思いながら何度もページをめくりました。無力化や中心についてはまだまだぼんやりとした感覚しか持てずにいます。けれど、これからもこの本を一つの試金石として側に置いて自分磨きをして参ります。
気や統一体というものは、体の変化であって、頭で理解するものではないから「わかる」ことはできないのではないかと思いました。本を読んでも、先生の話を聞いても、いつも「なるほど、わかった。これから実践しよう」と思ってしまっていましたが、わかってしようとする、というのは頭の中の話なので、まさに部分体にはまってしまっていました。そして、できないからといって考え、それも頭の中での考えで、どんどん部分体にはまっていく循環になってしまっているように感じます。成功した、失敗した、目に見える、見えないに、特に自分はこだわりすぎていた気がします。うまくいこうがいくまいが、身体は正直に結果を出しているだけなので、それをありのままに受け入れるしかないし、そこで余計な事を考えないのが謙虚であるということではないかと思いました。執着を捨てることが謙虚になるために必要であり、それが一番難しいと感じました。
タイトル、写真、目次から始まり完璧なレポートを読ませていただいた感じがします。目指すのは目に見える空手の技ではなく統一体としての身体、思考そして生き方であると思いました。
人間の心の戦いをアンコールワットの歴史から学ぶと、現代の社会が人にとって幸せになる方向に向かっているのだろうかと疑問を持ちます。
また、写真で説明されている統一体の信じられないような事実は、自分が知らないうちに決め付けてしまった常識の殻を根底から打ち破っております。
皆様の感想文の「生きてきた中で今が一番いい、過去に戻りたいとは思いません」 という言葉から未来への希望が感じられて、人は誰でも変わることができるのだと嬉しくなります。
現代の常識にとらわれている自分の器を大きくするには「真心」が大切で、限られた時間を謙虚と感謝を持って精一杯に生きることが基本だと心に響きました。
潜在的なメッセージは無意識なので頭で考える心では捉えきれませんが、行動、実践を通して心を創り「心の発動が技となり、形となる」人生に向かって少しづつでも近づけていきたいと思いました。
事象は客観的に書かれておりますが、どのページからも宇城先生の暖かい心のメッセージを感じる本です。
宇城先生の新著『気によって解き明かされる心と身体の神秘』が仕事から帰ってくると家に届いておりました。梱包の封を切り、本を取り出すと、何かに押されるように一気に読んでしまいました。文中で紹介されていた、アンコールワット研究書の「人間の内面の善性と悪性」と、一刀斎先生剣法書の「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かうところに応ずる」この2点が特に心に残りました。
人の内面が外面として顕在化することは、道塾・実践塾での宇城先生の直接のご指導を戴くようになり、仕事や日常生活の人間付き合いの中で表情や言葉以上に伝わる何かを感じる事が多くなりました。また、同じように震災・原発事故後の政府、行政、東電、経済界の対応から悪しき何かを感じます。表面上は被災地のため、日本のためと当たり前の素晴らしいことを口にはしますが、今この時に必要な行動が伴わず、また、本当に大切なことを覆い隠し蔑ろにしてでも何らかの思惑を通そうとしているのを強く感じます。これが宇城先生の仰る「心なし」の状況なのだと思います。
今のこの現状をどうすればいいのか問題が大きすぎて、この福島の地で当面の問題を処理することだけに奔走する自分だけでは何も考える事ができません。しかし、宇城先生という師と、共に学ぶ多くの塾生の方々がこんな自分に力を与えてくれます。宇城先生は人の内面の善性を指し示していただける大きな絶対的な尺度となり、仲間たちは日本各地のみならず世界中から被災地、そして福島に住む我々を見守っていてくれます。
被災地の現実として、震災と原発事故からの復旧復興とは言っても「虚」と「実」の事業が混在する混沌とした状況です。そんな中で、いかに実の事業効果を高め、虚を実の事業に変えていけるか、行政という変わらない組織の中で悩み、衝突するばかりの自分ですが、宇城先生の仰る「一人革命」を少しでも実践できるよう、常に宇城先生と仲間たちの思いを胸に抱き、自分自身の内面の善性を高め、顕在化する我欲を消し、調和を持って、一人でも多くの方に喜んでいただける心ある復興事業を目指し、日々努めて参りたいと思います。