季刊『道』 172号(2012年春)
『道』172号 [詳細・購入ページ]
毎回、『道』を読ませていただくたび、自分の心が痛くなったり、洗われたり、元気になったり、感動したりと様々な感情が湧いてきます。
佐々木先生の対談を読ませていただきました。その中で、「私は何もわかっていないな」と読んでいて思うばかりでした。私たちは宇宙があり地球の中で生命として生きている。それも当たり前のように。生きているのではなく、生かされていることに気づかされます。
佐々木先生がお話された内容で、地球から離れて地球を見る。上空に上がるほど人間の姿は見えなくなる。宇宙からすると地球はもっと小さい。その内容に触れ、その中で、私は小さな所で視野を狭くし、範囲を狭めているのだなと思い知らされました。時間が流れ、悩んだり居ついたりしている事が、頭で考える小さな事なんだなと思いました。また、自然の摂理に沿い感謝していく心がとても大切なんだと改めて思いました。
金澤泰子さんの「あふれる真心と愛」を読み、母である泰子さんと子の翔子さんの愛の深さに感じ入りました。大怪我による大手術で、痛い痛いと泣く翔子さんを抱いてあげるしかない母に、次の日ベッドから翔子さんが静けさをたたえた視線で泰子さんの目の奥に語りかけている。泰子さんがあとで携帯電話でどうしてあの時あんなに母様の目を見ていたのと聞くと、「お母様を愛していると伝えたかったのよ」と言いました。この言葉に私は胸が熱くなり、ああ親子の愛とは美しいものだと思い、心が動かされました。親子の絆、愛です。
また最後の文章の、最近「絆」という字をたくさん書いた。言葉は不思議なもので何度も何度も同じ字を真剣に書くと、その言葉の魂に出会うそれを言霊と言うのでしょう。「絆」の真言がわかった。この件では、普段の生活においても真剣に物事をくり返せば心からの行動となり、人として正しく生きることに繋がり、それもまた真言なのかなと思いました。
繰り返し何度も読み、読むほどに新しい発見がある。宇城道塾での体験が、再読した際の発見につながっている。始めは「空手の技術を知りたい。空手で強くなりたい」という思いばかりであったが、今は宇城先生や季刊誌『道』で紹介されている人の「生き方」に強い関心がある。金澤先生の影響もあって、「書」も始めた。
佐々木さんの写真は本当に圧倒されました。
子どもには、実際、満天の星を見てもらいたいと思いました。
平川さんの記事では、科学もスコップで土を掘ることから始まることがわかりました。平川さんのおっしゃる通り、この状況で大飯原発を稼働しようとするのは間違ってると思います。
今回の「道」春号も、いつもながら大感激し、勉強になりました。
まず初めの、佐々木隆さんと宇城先生との対談は、生かされている人間の「感覚」を素晴らしい写真を通じて表現されている、佐々木教諭の表現力、生き方に深い感動を覚えました。私も以前、長期間写真関係の仕事に携わっておりました。写真による表現は、他の芸術作品同様、作品(写真)を通じて作者の感性や思いを観る人にを伝えることにあります。見る人の感性にもよりますが、作品の内容が深ければ深いほど伝達力も強く、広く多くの人々へ伝えることが出来ます。大きな大きな宇宙、その中の銀河、またその中の地球とのつながり・・・ 大自然の中に生かされている人間の存在・・・生かされている価値や意味を、何度も考えてみました。数年前に、やはりオーストラリアに動物の撮影で出かけたことがあり、カカドゥで観た漆黒の中の銀河を見て大感動したことを昨日のことのように思い出しました。
現在の日本のように、「安心」「安全」の枠で囲われていて、本来の人間としての能力を使えなくなってしまっている状態は、やはり不自然な状態と感じます。危険が無い状態こそ、人間としては不自然なのかとも感じます。(危険をおかせと言っているのではありません)大きな宇宙の中では、全く考えもつかないことが発生するのが当たり前・・・ と謙虚に物事や現象を見ることが必要と感じました。
弓道の岡崎廣志藩士のお話もとても勉強になるものでした。弓道に関してはほとんど知識が無かったのですが、相手がいない武道である弓道は「動かない的だから、迷いや心の乱れというのは必ず自分に跳ね返ってくる・・・ 自分の心と対峙することが弓道の特徴・・・」という言葉で、初めて弓道の奥深さを知りました。他の武道同様、スポーツ化し点数化しわかりやすくしてしまったことが、人間の道の探究心をスポイルしてしまっている・・・ 逆に現代に普及させる難しさの大きな課題・・・ 日本人のDNAが持つ、大きな力を出し切れないという問題点が浮き出てきた気がします。
「的を狙うな!」という言葉は、本当に奥深く、感動いたしました。
金澤翔子さんが大怪我をされたとのこと・・・ 泰子お母様のご心配が、文章で手に取るようにわかりました。その後は大丈夫なのだろうか・・・ 私も凄く心配になりました。早く回復されることを、心からお祈り申し上げます。
弓道範士岡崎廣志先生の武道の役割のお話は、大変理解しやすかったです。武とは前進していくこと、心身を強くしていくこと。そして究極の目標として、優しく豊かな人間になるための修行であると私は理解しました。『道』に掲載されている方々は、まさしく武の達人でおられる、つまり人間性の豊かな優しい方々ばかりです。私も頑張りたいと思います。
今季の『道』も、とても充実した内容と美しい誌面で、どんどん読み進めることができました。
いろいろな分野のプロフェッショナルな方から発せられる情報は、私にとって貴重な財産となっています。
銀河浴写真というものを始めて見ました。こんな写真が撮れるんだ、というか自分が住んでいる日本においてこんな景色があることに愕然としました。本当に知らないことばかりだなぁと。ただ、やはりこの写真を撮るのは簡単なことではなく、自然と対峙し厳しさを味わい、感謝し、受け入れることができる人だけが撮らせてもらえるんだと思いました。
坪井さんのお話は、今まで聞いた原爆の話の中でも、さらにリアルに迫ってくるものでした。実際に原爆の爆風を体に受け、何度も命を落としかけたのに、運良く救われて・・・。まさに命について語り継ぐために生かされているように感じました。坪井さんの話の中で、「実現せんでもいい、それを“やる”ということを一生懸命やっておるんだと言うんです。自分が生きている間にできなかったら駄目、というような考えはとらんつもりなんです」というところ、とても心に響きました。私のいる職場でも、「どうせ・・・」という言葉がよく聞かれますし、実際に私たち下々の声が上に届かないことが数多くあります。そんな時、腹立ちや悔しさや悲しみや失望やらの感情に巻き込まれ、投げ出したい気持ちになることもあります。「あきらめない」は確かにどちらかといえば消極的な言葉かもしれません。でも、坪井さんが語られている内容を聞いて、「あきらめない」は未来につながっている力強い言葉だと感じました。もっと、広い視野でみれば、自分の命が尽きてもそこで終わりではないのだから、「あきらめない」で進んでいきたいと思いました。
平川さんのすごさは、スコップ1本とご自分の足と目だけでデータを集めて、重大な研究結果を導き出されていることだと思いました。その平川さんが「今、子供が自然のなかで育っていないことが一番深刻でしょう。人間が自然から切り離されているのですからね」とおっしゃったこと、とても重要なことだと思いました。佐々木さんの言葉にもあったように「宇宙の中で生きている」私たちが、共に生きている仲間である自然と切り離されてしまっている。だから、時に驚異となる自然から身を守る手段が準備できていなかったりするのではないかと。今回の3.11の震災は不幸なことではあったけども、同じ宇宙に生きる自然と人間、動物など命あるもの全てをもう一度結びつける意味があるのではないかと思います。
宇宙を感じること、自然と共に生きること、人間以外の命あるものに想いを馳せること。今、自分の中で大切にしたいと思っていることが、今回の『道』にはたくさん書かれてあるように感じました。
表紙の「縄文杉と天の川」の写真をひと目見た時に何か身体の奥底に伝わってくるものを感じました。巻頭の佐々木先生と宇城先生の対談、そして坪井先生のお話と引き込まれるように読み進めるうちに、この『道』という本が他の本と異なる雰囲気を持っていることに気付きました。もちろん、紙と文字と写真で構成された「本」であることは変わりないのですが、他の本が過去形の知識が記述され、それを伝えようとしているのに対し、『道』は執筆者の方々が目の前に立ち、私の目を見て、その熱い想いを伝えようとするかのような、紙面の上で時間が進んでいるかのような不思議なエネルギーを感じます。私の拙い語彙力では上手く言葉にできませんが、この時間が進んでいるような感覚は読み返すたびに速く深くなるような気がします。震災による厳しい現実、まるで変わらない社会、そして己の日常生活の狭間で、無駄に心を浪費し動けなくなっている私に『道』は高いエネルギーを注ぎ込んでくれます。私はこのエネルギーを自分自身の駆動力に変え、このかけがえのない一つの命をもって、あきらめずに行動して参りたいと思います。
このような素晴らしい本に出会えたことに心より感謝いたします。
『道』は濃密な内容だけを厳選して掲載しています。文の重みが違います。心を揺さぶり、読む人に生き方を問いかけます。
「広島の証人」坪井さんのお話。
被爆し、余命いくばくも無い人が見捨てられたように入れられる病院に、お母様が迎えにきたシーン。坪井さんを呼ぶお母様の声に、意識がないはずの坪井さんが手を挙げられるシーン。胸が詰まり、涙があふれてきました。以前『道』に掲載された神風特攻隊の浜園さんや、ルバングの小野田さん。戦争を極限まで体験された方はみな「母の愛」について語られます。心から、両親を大事にしなければならないと思いました。
平川さんの、スコップ一つで津波堆積物調査を行なう姿。決して大型の調査だけでは明らかにできない津波の爪痕。それを取りまとめ、学会に問う氏の姿勢の根底には、今回の3.11の衝撃的な体験に突き動かされる愛と思いやりがあるのだと感動しました。前号の肥田先生の内部被爆の会見も同様ですが、心ある学者の方々の真摯な研究に根ざした否定できない証拠に我々や国がどれだけ真剣に向き合うかで、日本の未来は希望にも暗闇にも変わるのではないかと思います。
「文化を生き抜く力に」の黒木先生の御写真、愛情にあふれた眼差しで、ガラスの誕生を見守るお姿に、心が清々しい思いになりました。
巻頭の佐々木先生と宇城先生の対談。宇宙という非常に大きなスケールの中で「生かされている」喜び、感謝に気付く。それが、困難の中にある我々にとっての最優先事項ではないかと思いました。
宇宙や自然、生命という観点から見つめたとき、世界の方向性は違和感に満ち溢れています。特に原子力の問題については、人類全体への問いかけだと思います。肥田先生の御著書にありましたが「プルトニウム」の語源は、西洋で「地獄の冥王」と呼ばれる「プルート」にあるそうです。まさに我々が生きる地上に降り立った地獄の冥王。私たちは、彼の支配から逃れられない未来を生きなければならなくなってしまいました。経済最優先の考え方から、一刻も早く脱却しなければならないと思います。困難は大きく、立ち向かうべき構造も底が知れませんが、若い人と手を組んで上の世代を巻き込み、少しでも世界が生命にとって良いものになるよう、行動していきます。
今回の『道』は、心の細部にスーッと入っていくような内容に感じました。佐々木隆さんの星の写真を見て、身体全体が感動に包まれるような感じがして、「美しい」とただそれだけの感動がありました。対談の内容を読んでいても、佐々木さんが身体全体で感じて生きている方のように感じ、また文章から「湧水のような感じ」を受けました。・・・自分が「撮って」いるのではなくて、何かに「撮らせていただいている」という感じがしています。それに対して純粋な気持ちがあるからこそ、動かされるのかな・・・ と思いました。星たちから選ばれた方なんだなぁと、思いました。
宇城先生の言葉の「ジョブズ氏の話」の中で、「キーボードに固執せず・・・ 思いやりから創造性が生まれる」とありました。この言葉に大変、惹き付けられました。佐々木さんの手記の中で、「勝ち負けが大切なのではなく、生きて試合ができることがありがたいことである」の言葉に感動しました。勝った負けた等の優劣にこだわる小さな世界の人間にはなりたくないな・・・ と思いました。
佐々木さんがご自分の写真を多くの方に見てもらいたくて新聞に投稿したとありましたが、自分の知る世界を自分だけで終わりにするのではなく、「人と共有する」ことに喜びのひとつがある、と教えていただいたように思います。
ガラス工芸作家の黒木国昭さんのお話について。「私にとってガラスが師である。ガラスの美しさが私を育て、ガラスの素材から教わることがある」とありました。音楽の世界なら、楽譜に聞け、楽器に聞け・・・ と言います。医学の世界なら、患者の体に聞け・・・ となります。そのような心、感性に目を向けなさいと、この言葉から教えていただいたように思います。
「お前は生かしてくれる世の中の為に、何でお返しするんだ」とありました。黒木さんは、それがガラスの仕事だった・・・ と。
子供を産み育てることも、世の中に貢献していると思います。
私に何が出来るかと問うと、今までやってきたことを捨て、新たに見つけていこうかと思い、また、この言葉に励まされました。
『道』に掲載されている方々の活動は、大変、励まされます。生かされている・・・ の意味がまだ未熟な私にはわからない。生きていかなきゃならないんだ。とまだ、低レベルなところにいる。
いつか、自分は生かされているんだ・・・ 生かされていたんだ・・・ と、心の奥底から思えるときがくるのを自分自身、楽しみにしています。毎号『道』が届くことがとても楽しみです。『道』がより多くの人に愛読されるよう心から祈っています。
表紙の佐々木先生の写真にぐっと引き込まれました。と同時に、自分がどこにいるんだろうという自分をちっぽけに思う感覚に襲われ、そしてゾクゾクっとくるものがありました。
本を開いてみても、「銀河浴写真」の数々に、自分が吸い込まれていく感覚がありました。
早速、佐々木先生のホームページも拝見しましたが、自分の周りが宇宙になっている感覚になり、心地よい感覚にもなりました。言葉に表せないというのは、今の自分のような感じなのだと思いました。
一方で、同じ高校の教師として自分の情熱はどこにあるのか、そして身体を通して子どもたちに感動を共有させてあげられているだろうかと自問させられました。