季刊『道』 177号(2013年夏)
『道』177号 [詳細・購入ページ]
今回の「道」で、重度障害者のことばを聞き取るという記事を読み、感動しました。今、介護の勉強をし始めていることもあって、健常者側の都合や決めつけではなく、個々人の力や欲求をみて、ありのままに添っていくことが大切なんだと思いました。自分が、少しでも、気づき反応できる人間であるよう、努力したいと思います。
宇城先生と美輪明宏氏との対談を拝読させていただき、目に見えない世界の深いお話に感銘を受けました。
美輪氏も宇城先生と同様に、メディアの情報や嘘の情報に振り回されず冷静に真実を見極めて、かつブレのない安定感がすごいと思いました。美輪氏も宇城先生も「真理」の側にチャンネルが合っていて、そこから表面(目に見える世界)に現れる現象を見ているので何が嘘で何が今必要かを一瞬で理解することが出来るのだと思いました。自分に振り返ってみると、日頃の生活の中で情報に振り回されていると感じることが多数あります。
今回拝読させていただいたこの対談の内容が、その局面においての戒めとなってくださると思いました。
宇城先生と美輪明宏氏の対談を読んで、目に見えないものに対する疑心暗鬼について、気は目に見えないものだが、確実にあることが自分の中で立証されている。輪廻の話は、子供の頃、家族でも話し信じていたが、自分が死ぬのが恐くて納得させていたと思います。修身教育の話では、宇城先生が説いている日常生活で姿勢を正すことで身体の力が出てくることと通じるものがあると思いました。また、指導の話では、「技術的に貧しければビデオで記録しておいて、どんな原因で負けたかを冷静に分析して、どうすればいいか何度も何度も練習させてゆく。」という所が参考となり、「教育者になる為の勉強をしないと」いけないと思いました。
目には見えないからこそ、自分の感性を広げて本質を感じ取ることの大切さ、そして深さを教えてもらいました。
美輪明宏氏との対談では、一神教と多神教の話の中で、「八百万の神はあけっぴろげで肝が大きい」という話が興味深く、日本人の和の精神、和合性はそこから来ているのだなと思いました。
科学では「ありえない」ことに謙虚に向かい合って脳障害者から「ことば」を引き出した柴田保之氏の『(「回復はない」と言った医師について)しかしそれはお医者さんが悪いのではなくて、「常識」がそうだったからなのです』という言葉が印象的でした。
宇城先生と美輪明宏さんの対談の中で、従軍慰安婦に触れている記事がとても心に残りました。現実に見てきた人の話を聞くことの大切さ、今まで注意していた気になっていても、如何にメディアや誰かが頭で考えてきた意見を鵜呑みにして振り回されてきたかを気付かせて頂きました。
批判を受けると反射的に自分の身を守ろうとしてしまう。しかし戦争という行為はそうしたことを通り越したもので、ただただ悲劇を生むだけの愚かしいことであるということ、そしてその事実から一瞬でも目を離してはいけないのだという気持ちが生まれました。
この度も貴重な気付きをありがとうございました。
届いた夏号を開封して表紙を見た瞬間、掲載されている美輪明宏氏の強烈な人間を超えたエネルギーを感じて魅入ってしまいました。 魅入っているうちに、「観音様」を想像しました。もしかして、美輪さんは「観音様」の生れ変わりなのか・・・? そういうふうに感じました。
「見えないものを観る力」という夏号のテーマを読んで、表紙をめくると、巻頭対談に「見えない世界を観る」というテーマで、宇城先生との対談が載っているので夢中で読みました。一回読み終え、見えない世界を語るにふさわしい、そのレベルに達した人でなければ語れない内容で、素晴らしいの一言でした。2~3日置いてから、読みなおしましたが、二人の先生方の語る一言一言が身にしみて理解出来る深い内容の対談で、考えさせられました。もう、5~6回読みましたが、読めば読むほど心に届く内容で、本当に、テーマにふさわしい対談でした。
何といっても美輪明宏さんとの対談はインパクトがあり心に響きました。宇城先生と全く同じ「愛」の大切さを違った角度から教わった気がしました。いろんなことを体験されたからこそ、そのお話に重みがあり、先生の教えてくださる目に見えないものの大切さにあらためて気づかされました。
先生の教えはどの本を手にとっても教えが一貫していて、その時の自分の置かれた状況に応じて必要なことを学ぶことができます。今、感じるのは、自分がいかに恵まれた環境に生きていて、横着な暮らしをしているかを反省することから始めなけれないけないと思っています。
神道夢想流の松井先生の「普及と伝承は二律背反」という言葉に、何か気になるものを感じました。「伝承とは、変えてはならない心の姿がある」「免許とは、師の宿題ごとお預かりするもの」と知り、免許を与えられるということの重さ・深さを知りました。技術を体現するには、細胞から理解する「気づき」が必要なことや、弟子としての心構えや真の師弟関係など「どう」を読んでなければ、知りえなかったことを知り大変勉強になりました。
宇城先生のいつも言われている心が一番大事ということと、重複する事が多く心の大事さを再認識させていただきました。
季刊「どう」は、改めて深い本だと、思いました。ありがとうございました。
美輪さんとの対談で『見ない世界を観る』を読んで、いかに自分がまだまだ目に見えるものしか信用していないかということがわかりました。
目に見えない力はたくさん存在し、普段利用しているにも関わらずです。例えば重力や電波や空気などいろいろなものが目に見えなくともそこにあるという事実。それがなければ生きてもいけないのに見えないからと言って存在を忘れてしまっています。それくらい当たり前のように存在する力があるのにちょっとでも科学的にわからないことがあると否定してしまう愚かさがよくわかりました。
従軍慰安婦にしかり原発にしかり、知らない・観えていない事がこんなにもあるのだということ。自分の知らないという事の怖さを痛感しました。
そして常々宇城先生がおっしゃられるアンテナを張りなさい!自分を開きなさい!チャンネルが合わないと何も感じない、そこにちゃんと存在するにもかかわらず自分があっていないから感じることが出来ないのだということがすごく分かり易かったです。
普段は宇城先生がこちらに合わせてくださっている。だから気というものすごいパワーを実際に体感できる。この気というパワーのチャンネルを自分でしっかりと合わせていけるようにして行きたいと思います。それには自己中心的な考えではなく心のある考え方をして行きたいと思います。そうすれば正負の法則の負になる度合いも少なくなるのではないでしょうか。
美輪明宏さんとの対談では、地上の修行と転生の仕組みについて、興味深く読みました。「最初に落ちた時は、一番下までだったけど、次に落ちた時は紙一枚くらい上のところに落ちている。 とのお話からは、人は気の遠くなるような時間をかけて修行をしていくのであり、あせらずともどっしりと構えて目の前の課題をやっていけばよい、と教わった気がします。
しかし、この対談でより強く印象に残ったのは、霊的なお話というよりは、美輪さんの人としての裾野の広さでした。
戦争中、出征する息子に「生きて帰って来い」と叫んだ母親を「非国民め」と殴った憲兵の話、日本人が韓国人や中国人を強制連行した話、従軍慰安婦の話など、美輪さんは人間の負の部分をしっかりと見つめておられます。「事実は生き残った人、現場にいた人に話を聞くのが一番なんですよ。」とさらりとおっしゃっているのは、多くの人から直接話を聞いてこられたからだと思います。
美輪さんの演奏会にはこれまでに3度行き、歌で涙したこともありますが、そもそも歌う以前に、人間の醜い部分をもしっかりと捉えておられる美輪さんがおられるからこそ、人の心を震わせる歌をお歌いになるのだと思いました。「正負の法則」について、「腹八分」でなく「腹六分」とおっしゃるのも、負の部分をよく見つめておられるからこそではないか、と感じました。
目を背けたくなることも逃げずにありのまま見る、それを伝える、人に希望を与える、そういう生き方の中にある強さと厳しさが、じわりとにじんで見えるような対談だったと思います。
井口潔さんは、「ヒト」はなぜ人間が育てなければ「人間」にならないのかという問いを抱いてから、その問いをどんどん追及し、江戸時代の教育を再発見されたり、どうしたら親が良くなるかを考えられたりしておられ、92歳の今でも「ほかにもいろいろなことをやりたい」とおっしゃっておられます。その前に前に進む力がすごいと思いました。
「やれば必ず迷うのです。しかし、迷うこと自体がおもしろい」とおっしゃっているのは達観だと思います。迷いは行き止まりではなくて、通過点。やって始めて分からないことがでてくる。分からない、というのは進展である。何となくそんなことを思っていたところに、「やれば必ず迷う」と言い切ってもらえたのは、そうだよ、と背中を押してもらえたような気がしました。
柴田保之さんのインタビューでは、コミュニケーションのことを考えさせられました。言葉を持たないと思われていた障害者にも「言葉」があり、言語的なコミュニケーションの手段があることを「発見」されたのは、とても意義深いことだと思います。
微かな声であっても、あかさたなスキャン、50音表の指差し、筆談等のいくつかの方法を使って、「言葉」にしていくという作業は、熱心に話を聴こうとすることに他なりません。 どんな人にも気持ちがあって考えがあることを認め、その声に耳を傾けていく。 このことは、本当は、いわゆる健常者同士の対話にとっても必要なことです。
多くのトラブルの一因にコミュニケーションの問題があります。相手の話を聴かない、聴けないということがいかに多いことか。それは相手の人格を認めないということにつながります。
きんこんの会の活動は、障害者に対する見方・認識を変えていくことと思いますが、話を聴こうとする気持ち自体がコミュニケーションの第一歩であることをも、世の中に伝えていくことになるのではないかと思います。 柴田さんの本も読んでみたいと思いました。
井口潔先生の記事を読ませていただきました。
先生が子供の育て方を指導される際、若いお母さんや保育士さんはこんな時どうすればいいのかというノウハウばかり聞きたがるという一文に耳が痛くなる思いです。
悩んだ時にハウトゥーで目先の事に対応するのは簡単ですが、対症療法ばかりでは物事の本質が見えなくなってしまいます。基本的な考え方や軸がしっかりしていないと目先の利に惑わされたり、ブレたりします。
親がブレるのを子供はしっかり見ています。子供のいじめを心配しながら、大人のいじめや差別、誰かの失敗を笑う姿を見せてしまえば子供にはそのまま伝わってしまいます。
井口先生が仰る「子供を良い親に育てていく」という発想は、「良くない親」が変われないという負のスパイラルを断ち切るためのものです。 知識で学び、変わるのは大変です。学習したものは実践して自分のものにしなければ身につきません。
ひとりの親が変わり、その周りの親がいいなと感じてくれる正の循環が始まることを諦めたくはありません。できるなら自分がそのひとりになれたらと思います。井口先生の仰ること、宇城先生の仰ることはいろんな所で繋がっています。当たり前のように正しいことができるよう、日々修行していこうと思います。
柴田保之先生のインタビュー記事に感銘、衝撃を受けました。まさに「みんな言葉を持っている」ですね。現在、私自身の近くには植物状態や心身障害の人は居ませんが、 そういう人を介護されるご家族には本当に大きなエネルギーとなることだと感じました。私自身、今後、自分と関わる人がそういう状況になったときに、表面的な部分に惑わされる事なく、真心を持って接していきたいと感じました。 また井口先生の「科学で照らし出す日本の伝統教育」の記事には、日頃、宇城先生から教えて頂いている「伝統や型の大切さ」を改めて教えて頂いた気持ちです。
『重度障害者の思いを伝えるために みんな言葉を持っている』柴田保之氏。今回、柴田氏への取材記事を読んで、大変な衝撃と反省を抱きました。そしてこういう事を教えて頂けた事を嬉しく思いました。私は知的障害のある方々と関わる仕事をしています。また学生時代には、ボランティア等で重度心身障害の方々とも関わっていました。「言葉なんかなくても感じる心を持ちこれだけのことができるのだから素晴らしい」と全く同じように思っていました。
あの時の私がどのような態度で接していたのかを振り返ると、本当に失礼極まりないと思います。本当に反省しましたし、「いい人ではだめ」なんだというたけちゃんの言葉が突き刺さりました。 これ程凄い事が解ったという驚きの一方で、そうした障害者の言葉が疑われるという常識の壁 についても関心を持ちました。
自閉症の方などでも、もうすでにパソコン等を使って言葉を発しているにも関わらず、その言葉 だったりするのだと思います。 そうした現実がありながらも、中途障害者がコミュニケーションを回復していく姿等、様々な形 で突破していこうとされていて、これからの時代、彼らの放つ言葉がどういう形で広まっていく のかと思うと楽しみです。
今まで言葉がないと思われていた人たちの“言葉”。ほとんどすべて において、他者の力を借りざるを得ない状況に置かれている彼らの言葉。その発する言葉につい ても、大変時間と労力を使って発せられる言葉であることを考えると、何が語られるの だろうか 、と大変気になります。 とはいえ、今までどれほど多くの方が想いを持ちながら、耳を傾けられずに何十年も過ごしてい たのだろうと想像すると、胸が苦しくなります。私自身も耳を傾けようともしなかった一人でも あり、その事だけは絶対に忘れずにいようと思います。そして、今後はそうした活動に何らかの 形で携わっていきたいと思いました。
すぐにでも“きんこんの会”に伺いたい気持ちで一杯です 。
非常に貴重な事を教えて頂きました。ありがとうございました。
美輪明宏さんと宇城先生の対談。腹八分目は知っていたが、腹六分は知りませんでした。正負の法則と腹六分は欲を押さえることができると思います。
日本の精神は一神教ではなく、八百万神を大事にしている。八百万の神がいる国。目に見えないエネルギーが一杯あると考えると元気が出ます。
まず表紙の美輪さんから発せられる華やかで、深遠なるオーラに圧倒されました。昨年の紅白歌合戦での「ヨイトマケの唄」を見て、美輪さんの凄さを実感しましたが、このたびの対談ではその凄さの背景には、自らのご経験を通して“見えないもの”とのつながりを大切にして実践していることを知ることができました。テレビでは取扱われにくい深い内容が語られている、このたびの対談をとても興味深く読ませていただきました。
井口先生の「心の個体発生」という考え方もこれまで聞いたことはありませんでしたが、私が子どもの時に訳も分からないまま短歌などを暗唱させられたことが,大人になってから短歌を味わう時の基礎になっていることを実感した経験と重なり、腑に落ちました。
美輪明宏さんと宇城先生の対談。すべての言葉に芯があり重みを感じました。言葉自体に力があり一言ずつかみしめて読ませていただきました。また、書道家 金沢翔子さんのページを楽しみにしております。お母様の言葉にものすごい愛情を感じいつもホロリとしています。
「ヒト」は教育によって「人間」になるというタイトルに惹かれ、拝見いたしました。
今、教育の様々な問題が叫ばれる中、私はその教育界の中にいて日々子どもたちと接しております。指導者という立場で現場には立たなくてはならないのですが、今の子どもたちや親たちにどのような視点でアプローチしていけば、いいのか日々悩んでいます。幸い私は宇城先生という「師」に出会わせていただけたご縁のおかげで、自信を持って教壇に立たせていただいておりますが、ほとんどの教師は混迷を極めております。
その中で、井口先生は中学、高校生に「心の成長生理を教える」ことの必要性を説いていらっしゃいます。さらに道徳の必要性や子どもたちに「良い親」になるように教えていけばいいとおっしゃっています。さらに、以上のことを教えようとするならば、教師自体が人間的に完成しなければならないと教えられないと訴えていらっしゃいます。
今、私が直接、宇城先生に道塾で学ばせていただいていることや「道」を通じて真剣に生きていらっしゃる先生方の生き様にふれさせていただいていることが、自分の「人間」になる修行なのだなと感じています。さらに、部活動の「野球」を通して弱い自分と向き合うことの修行になっているのだなと実感しました。
國學院大学・柴田保之教授の重度障害者の思いを伝えるために、「みんな言葉を持っている」を読み、涙の出る思いがしました。
それは生まれつき重症心身障害者であり、言葉が理解されていないと思われていた小学4年の女子生徒が、ワープロスイッチにて「かあさんがすき、めいわくばかり」と言葉をつづった事でした。
この言葉には健常者の言葉より何十倍、何百倍もの親への愛情がこめられていると思いました。
又、障害者達がいろんな思いを持ち、回復の可能性があるのに、回復はないだろうという常識の壁をなくし、変えていこうという活動に共感を覚えました。
柴田教授他、プロジェクトの皆さんには頑張ってほしいです。
巻頭対談では、宇城先生と美輪氏の対照的なお写真とは裏腹に、お二人の根本的なお考えは驚くほど似ていると感じました。美輪氏が戦争中に見聞きした話には、あまりの悲惨さに言葉を失うばかりでした。まさに知らない怖さ、知らされない怖さで、その点は今なお変わっていない、マスコミの情報を鵜呑みにするのではなく真実を知る努力をしなければと思いました。大変な目にあった弱い立場の人々の気持ちを我が事のように慮り、その心に寄り添う美輪氏の大きな愛と優しさを感じました。
177号の美輪明宏さんと宇城先生の対談で見えないものの大切さを教えられました。
宇城先生から教わるようになって物事の本質を決める大事なことは見えないことの中にあるということが感じられるようになりました。 私自身が見えない「心」の世界を大切にし、物事の質を高めていけるよう精進していかねばならぬと感じました。
いつも届くのを心待ちに『道』を読ませていただいております。素晴らしい記事をありがとうございます。177号では 美輪明宏さんや柴田保之さんが、“見えないもの”についてさらりと語られています。『道』以外に、そんな不思議な話をさらりと掲載する本はないと思います。そして塾生の多くも、やはりさらりと心に受け止めていると思います。なんだか楽しいな、と思います。
美輪さんと宇城先生の対談は大変熱く、深い内容で息をつく暇もなく一気に読んでしまいました。美輪さんが語る戦中、戦後のお話は鳥肌が立つ程強烈で強く印象に残りました。「非国民」扱いされ殴り殺される母親と戦地でなくなる息子さんの話、従軍慰安婦として働かれる女性と平気で人を裏切る軍人の話などの話を伺っても憤りを感じずにはいられません。二度と同じ過ちを犯してはならぬと心から思いました。事実は当事者でないと分からないということも改めて感じました。戦争にしろ原発問題にしろ、当事者の声を聴かなくてはならぬと思いました。
「ぶれないもの」を求める気持ちは私にも強くあり、今回のお話に深く納得しました。宇城先生の元で学ぶことは「ぶれないもの」を作るためだということも記事を読んで再確認しました。お二人のように「ぶれない芯」のある生き方をしたいと強く感じました。
今回は「みんな言葉を持っている」を読んで、生まれつきの重症心身障害の小学生達が理解した言語で自らの気持ちを表わしていることに非常に驚きました。自ら言葉を発しないから言葉をもたないという思い込みは、相手が健常者でも障害者でもあり得ることだと思っています。とりわけ、大人は子どもに対して、「大人の世界はわからない」と高をくくることが多いように思います。相手が誰であっても心を寄り添わせ、気持が自然に引き出せるような関係を結ぶことが大事だと改めて感じました。
美輪さんの実際に生きてこられた戦時中のお話は、召集令状により出征する日に「死ぬな、生きて帰ってこい!」と息子さんにしがみつき叫んで、憲兵が「非国民め」とその母親を叩き投げ飛ばし、鉄柱に頭をぶつけ血を流したその母親を見ながら出征した、なんとも言いがたいお話など、戦争は外に対する戦いよりも、同じ日本人なのに自分のこと、立場、我がそうさせる醜いところが伝わってきました。また、宇城先生の目に見えない気、美輪さんの幽の幽気、悋気といったなかなか世間が認めたがらないけれども、今これからその部分がわかる人にはわかる、今の自分達にもあてはまることが語られていました。
井口先生のヒトの教育を、道徳でだとまたその話かと今の自分達も含め、そう思うことを心の成長、生理を生物学的に教えるといったことが不易流行的な教えではと思いました。
金澤泰子さんの、翔子さんの育て方には今の効率ばかり重んじる社会に一つ教えられました。文化的な書ではなく、孤独に耐えられる子になりますようにと母の思いを感じました。
今回の『道』で、重度障害者のことばを聞き取るという記事を読み、感動しました。今、介護の勉強をし始めていることもあって、健常者側の都合や決めつけではなく個々人の力や欲求を見て、ありのままに添っていくことが大切なんだと思いました。自分が少しでも気づき、反応できる人間であるよう、努力したいと思います。
美輪明宏氏と宇城氏の対談はとても楽しみにしておりました。表紙の美しさに目が奪われました。
現在の部分的な捉え方の科学のありかた、現象の後追いなのにどこかで依存(科学信仰)している自分の愚かさがよくわかります。
終戦後に「日本の恥と誇り」を教育から捨ててしまったために起きている民族としての品格の低下がいろいろな形で問題になっているという構造がわかりました。
従軍慰安婦、拉致問題、特攻隊、全ては心なしの人間が生み出した悲劇の事実だということも初めて知った気がいたします。
仏教の話から生命、宇宙のエネルギーの話では「気」がとてつもなく早い時間の中に存在していて、それは真心に繋がっているという事に人間の奥深さと可能性を感じました。
地球という星があること、人類の存在、現在の人間は繁栄に向かっているのか、滅亡に向かっているのか?対談全体から今まさに瀬戸際なのではないかという雰囲気を感じました。
何度読み返しても奥が深くて新しい感動があります。
また、宇城塾の気の実践(P.65)の中に、「日本人の身体に本来自然にあった記憶回路が、日本文化、伝統が消え去っていくなかで、回路もろとも捨て去られてしまったのではないか」という宇城先生の言葉を読んで、自分が生まれ変わるようにするにはもっと努力をしなければいけないと思いました。
私が子供の頃は電車内で化粧をしたり、路上でカップラーメンを食べている人は見かけませんでした。それが悪いというわけではありませんが、徐々に何かが崩れていっているように見えます。
『道』を何度も読み返し、自らの日常に生かしてブレない生き方をしたいと思います。
今回の『道』を読み、普段いかに見えることにのみ心を奪われており、「見えないもの」をいかに疎かにしているかということを反省させられました。
金銭・科学・身体は目に見えることであり、「霊」「気」「心」「道徳」は見えないものです。現代社会に生きるうちに、見えないものは「ない」ものとする態度がいつのまにか自分に染みついていることに気付かされました。「霊」や「気」については自分には語るすべがありませんが、修行や道徳の大切さが美輪氏や井口博士から実感を伴って語られているのを読み、力をいただきました。
今号の特集は「見えないものを観る力」ということで、全体を通じて、いかに現代の科学が人間の潜在能力や可能性、生命力を封じ込める深刻な原因となっているかを学びました。
國學院大學教授 柴田保之教授の「植物状態の人も、心身障害の人も、すべての人に言葉がある」では、実際に目の前で「植物状態」の方の通訳をできているという事実があるにも関わらず、それを認めようとしない、嘘だという人たちがいるという現実に驚きと悲しみを感じました。植物状態、という定義でさえ、現在の科学・医療で分かっている範囲での判断でしかないのにも関わらず、そういう理屈が先行し、実態としての人間が軽んじられるということは、あってはならないことだと思います。こういうことで可能性を閉ざされた、未来を閉ざされた人たちの人生は取り返しがつきません。だからこそ、美輪明宏氏、宇城憲治師範の対談にあるように「科学はもっと謙虚にならなければならない」ということだと思います。
また、一般に健常者と呼ばれている人たちにも、教育や環境によって、その潜在的な可能性や創造性が台無しにされているということに警告を発し、そこから脱却し、新たな人生を歩むことを指導なさっているのが宇城師範だと思います。気や霊は、現在の科学では明らかにすることができないというだけで、その存在自体を否定する権利も権限も、科学には本来ないはずです。むしろ、そういった事実を虚心坦懐に受け入れ、あらたな法則性の発見に歩んでいくことこそが、科学の本来のあるべき姿だったのではないかと思います。まさにヒトの教育の会井口 潔会長の引用された「科学は自然を克服するのではなく、人間が服従すべき法則を発見することにある」という言葉の通りだと学びました。例えば17世紀にレーウェンフックが細菌を「発見」するはるか前、有史以前から細菌が存在していたことを考えれば、科学はただ、事実の後追いをするしかない存在であることは明らかだと思います。だからこそ、科学には謙虚な姿勢が求められる。事実を否定してしまう科学というのは本末転倒で、それは科学とは呼ばない、美輪氏の仰る「わけのわかならいものの崇拝」というのに近いと思いました。
深刻なのは、大勢が「わけのわからないものの崇拝」に侵されていて、人間の可能性、未知に向かう発信が閉ざされてしまっている状況です。さらに、より深刻なことは、その崇拝によってこの瞬間にも我々の可能性や未来、そして未来ある子供たちの希望や夢が次々と損なわれているという事実だと思います。こういった時代だからこそ『道』の発信が非常に貴重であると、あらためて勉強させていただきました。
美輪明宏さんの修行に対するお話が大変印象に残りました。
「最初に落ちた時は一番下までだったけど、次に落ちた時は紙一枚ぐらいうえのところに落ちている。その次は紙二枚・・・」というお話は、どんなに過ちを繰り返してもめげず、一生本物を目指して成長していくんだという、生きる姿勢を示していただきました。
過去にこだわったり、怠惰な自分を嘆いたりするよりも、先を見て、常に上を目指して生きていきたいと思います。
いつも身を正す思いで読ませていただいております。巻頭対談では、美輪明宏さんの人生経験からなる真実の雰囲気が溢れていました。また、誌面から来る美輪さんの存在感に圧倒されました。美輪さんというと芸能の世界でも異彩を放っており、その根底には目に見えないエネルギーの存在があった事が今回の対談で良く分かりました。
井口潔さんの人間の教育に対する真摯な姿勢、日本には武士道という心の規範があったという事、また悩みからは逃げないというお言葉が印象に残っています。そして元々あった素晴らしい事を科学の言葉に言い換えて伝えるという事、そして子供から親を教育していくという事が良いとはっきりと答えが出ている点が、本当の科学者の姿であると感じました。
柴田保之さんの記事では、重度の障害をもたれた小学四年生のお子さんが柴田さんの通訳を通して「かあさんがすきわいわくばかり」と言葉を述べられたという所を読んだ時、涙が出ました。そして人間は身体と気持ちを察する感覚で、柴田さんのように素晴らしい力を出せるという事が本当に凄い事だと思いました。またそれに対する心無い意見もあるのも事実であり、そういう批判をされる方はまさに人間という存在を信じる事ができないのだと思います。
「被災地の今」では、小澤さんの無念さが伝わってきます。生まれ故郷を除染して最後を迎える、という真実の心、そういった真実の心がスムーズに反映させる事ができるのが良い世の中ということだと思います。また、若い人達にどんどん前に進んで欲しいというお言葉も、本当に故郷や若者の未来を思っているからこそのお言葉なのだと思います。
根本益伊さんのお話では、戦争で右足を無くされたにも関わらず「国もアメリカも誰も恨まない、弱音をはいたらおしまい。生きていればこその今、死んだら駄目です。生きていなきゃね」というお言葉がとても重く、真実だけが持つエネルギーを感じます。またそのような心をお持ちだからこそ通常ならばハンデを背負う身にもかかわらず、それを感じさせることの無い人生を歩まれてきたのだと思います。
宇城先生の連載では、今号の記事のまとめのように感じられ、それまで読んできた内容が脳の中で神経が繋がり、自分の脳でも感覚的にも一つになるような感じがしました。
すべての方に共通して思ったのが、自身の体験、実体験であり、それこそ身体を通して学ばれて、生きてこられていると思いました。巷ではそれこそ、何千、何万と頭脳で書かれた自己啓発本やビジネス本が溢れています。それは実体験も多少はあると思いますが、大部分が知識を切り貼りしてくっつけただけの内容で、それこそ星の数だけ、いくらでもできるような気がします。本というのは読者を飽きさせないで、利益という面で分からない事もないですが、そればかりでは真実がどんどん失われていってしまうと思います。
季刊『道』は、届くたびに今の自分に読む資格があるのかと自問自答させられます。そして自分が駄目な状態でもとりあえず読んでみると心が洗われ、魂が浄化され、また頑張ろうという気持ちが湧いてきます。このような雑誌は他ではないのではないでしょうか。『道』と向き合うだけで修行になります。どんな政治家や有名人の言葉よりも道に出られる方々は真実だけが持つエネルギー、迫力を放っています。読み続けていくうちにそれが分かるようになってきた気がします。それが日常でも何かと役立つ場面が出てきました。これからも日本の真の成長、発展の為に頑張ってください。
宇城先生と美輪明宏さんの対談の中で、従軍慰安婦に触れている記事がとても心に残りました。現実に見てきた人の話を聞くことの大切さ、今まで注意していた気になっていても、如何にメディアや誰かが頭で考えてきた意見を鵜呑みにして振り回されてきたかを気付かせていただきました。批判を受けると反射的に自分の身を守ろうとしてしまう。しかし、戦争という行為はそうしたことを通り越したもので、ただただ悲劇を生むだけの愚かしいことであるということ、そしてその事実から一瞬でも目を離してはいけないのだという気持ちが生まれました。
この度も貴重な気付きをありがとうございました。
井口先生の対談を読み、江戸時代の教育と現代との違いをはっきり感じることが出来ました。
「ヒトは教育によって「人間」になる」
親にとって、非常に重い使命だと思います。その使命から逃げずに、自身の子供を教育していきたいと思います。
松井先生の連載は、とてもうれしく思います。「追求者なら死に至るまでが追求であり、これで良いと言うことはない」という言葉には、非常に感銘を受けました。私自身も芸術系の習い事をしておりますが、真剣に取り組むほど深さを感じております。先生のお言葉がまさに当てはまります。
日頃の鍛錬を怠らずにいきたいと思います。
「日本の伝統教育」を読んで、普段私達が教育について何かおかしいなと思っても、そんな考えは現実の中では潰されてしまいます。ズバッと言ってくれる人もなかなかいないです。井口先生のように、こうはっきり言える方がいるのは胸がスカッとするし、またドンドン悪いものに染まっていく自分の姿がよくわかりました。それも氷山の一角でしかなく、自分の気付かない所で本当に間違った考えで自分が凝り固まっているのだろうなと思いました。自然を操ろうとする愚かしさを感じ、自然との調和を学んでいかなければならないと思いました。教育者として現在の教育を覆していくのは想像を絶する重圧だと思います。しかしそれをモノともせず楽しんでいるかのような強さとエネルギーに感動いたしました。
「みんな言葉を持っている」を読んで、とにかく驚きました。これを読んで障害者の方達への見方や接し方が変わりました。どうせわかってないんだではなく、みんな解っている。話し合う事もできる。もし読まなかったらずっと分からなかった事だと思います。「いいこと見つけたと言っても信じてもらえない。今まで言っていた事が間違いだった。これまで関わった人に申し訳がない」こんな偉い方でもそんな思いをして今があるのだとよくわかりました。それでもやはり私は無くすのは怖いし、波風は立てなくても生きてはいけると思ってしまいます。あまりにひ弱ですが、各先生方のような絶対的な強さを持てるようになりたいと思いました。
今号の全体を通じて、目に見えないものがたくさんあるのだと痛感いたしました。
柴田先生の「みんな言葉を持っている」を読んで、ショックを受けました。
我々が勝手に思い込んでいる、重度障害の方は意識や心も障害のために未発達である、という想像は全くの間違いであったことを知り、どんなにか歯痒かっただろうという思いと、他にも我々の暗黙の了解が多くの弱い立場の方々を苦しめているのではないかという罪の意識を呼び起こされました。