実践躬行「やってみせる」で貫いた
研究・経営・人材育成
すべては人に役立つことを
北里大学特別栄誉教授
2015年ノーベル生理学・医学賞受賞 大村 智
VS UK実践塾 宇城 憲治
私としては自分が言ったことは
すべて実行している。
言った以上はやっていく。
やってきたことに対しては
自分できちっと評価しているのです。
いつだって『俺はこれがよかった』と
言えるようにしていなくてはならない。
土の中の微生物が生産するエバーメクチンから開発されたイベルメクチンは、寄生虫による感染症にかかったアフリカの何億人という人の命を救ってきた。その薬の発見・開発の功績で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村教授は、幼い頃から祖母に繰り返し「人のためになることをしなさい」と諭されてきたという。
夜間高校教師だった大村教授が、研究者として活躍するのみでなく、特許による収入を元に北里研究所の立て直しや運営、病院建設に役立てたり、人材育成に力を注ぐなど、そのまさに実践躬行、「言うだけではなく、実行する」信念。そこにある原動力とは何か――。
同時に劇的な効果のある新型コロナの治療薬として期待されたイベルメクチンがなぜ世界にさきがけて日本で活用されなかったのか。そこにある様々な課題についても語っていただいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本では報道されないイベルメクチンの真実
宇城 今日は先生の本を読破して大事なところに印をつけ、夜間高校教師から研究者となってノーベル賞を受賞され、何億人もの人を病気から救われた実践者としての先生にお話を伺えると、ワクワクしてまいりました。
大村 すごいですね。こんなに準備されてくる人は初めてだよ。
宇城 自分なりにこうして準備をすると話をする時にぶれないで済みます。
大村 そうそう。ぶれないで目標に向かって歩けるんだよ。準備がないとあっちいったり、こっちいったり、あとでまとめるのが大変ですよね(笑)。
この本『縁尋機妙』はご覧になったことがありますか? 差し上げます。
宇城 ありがとうございます。せっかくですから是非サインをしていただけたらと。
大村 私のサインはちょっと変わっているんですよ。これは私のSatoshi OmuraのSとOをくっつけている。おもしろいでしょう。ノーベル賞の前から使っていました。サインの時は重宝しています(笑)。ある時、歩いていると、「もしや大村教授では」と言って、自分の財布にサインしてと言われたのです。財布にサインしたらお金が入ってこなくなるんじゃないのと言ったんだけど(笑)。
宇城 バッジにしてもいいくらい素晴らしいサインですね。
大村 皆さんまだコロナははやっているので気をつけたほうがいいですね。私も7月に感染して、イベルメクチンで一発で回復しました。がーっと熱が上がったので測ったら高くて、抗原検査によって完全にコロナであることが分かったので、その夜にイベルメクチンを飲んだら翌朝にはもう平熱になっていました。初めて自分のつくった薬を飲みました。これで「効く」と自信を持って言えます(笑)。
宇城 イベルメクチンは先生が発見・開発された薬で、さすがですね。それにしても今、コロナワクチンは副作用がいっぱい出ていますね。
大村 これから問題になると思います。かなり早い時期にワクチンを打った人のほうが感染しやすくなるという論文が出ているんです。それを日本政府は見向きもしません。日本のジャーナリズムも全く無視している。危ないね。しかし仕方がないね。そういう社会になってしまったんだ。
宇城 本当にそう思います。残念なことに真実が見えないというか、隠す社会になってきていると思いますね。
大村 人づてに聞いたのですが、ご自身が医者でイベルメクチンの効果が分かっている代議士が、イベルメクチンのことで活動していると、アメリカの大手製薬会社から「イベルメクチンのことをやっているなら、これから我が社としては日本の医療に貢献しません」と。脅迫ですよ。だからイベルメクチンがぱっと日本から消えてしまったんです。製薬会社の圧力でつぶされてしまいました。
しかしインドだけは成功したんですよ。インドでは2021年4月に入り感染者が急に増えて5月には1日の新規感染者が40万人以上になったんです。これがイベルメクチンの配布を開始したことでさーっと消えた。ではなぜ消えたのかということを日本では何も報道していませんが、それはイベルメクチンで制圧したからです。
なぜインドかというと、インドではもともとリンパ系フィラリア症というすごい病気が蔓延していて、その病気用にイベルメクチンが普通の薬局で売られていたからです。幸いそういう状況だったから容易に手に入った。感染者がみなイベルメクチンを飲み、あっという間に消えたのです。それで経済の復興も早かった。そんなこともありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●プロフィール
◎ おおむら さとし
化学者。北里大学特別栄誉教授。1935年山梨県生まれ。1958年山梨大学学芸学部卒業。1963年東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了。1965年?北里研究所入所。米国ウェスレーヤン大学客員教授を経て、1975年北里大学薬学部教授。北里研究所監事、同副所長等を経て、1990年北里研究所理事・所長。2007年北里大学名誉教授。2008年北里研究所と?北里学園との統合により?北里研究所名誉理事長。
微生物が生産する天然有機化合物の研究が専門で、発見した化合物の一つイベルメクチンはオンコセルカ症やリンパ系フィラリア症など寄生虫感染症を予防・治療する特効薬となった。
その業績が評価され、2015年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
著書に、『縁尋機妙』(致知出版社)、『人をつくる言葉』(毎日新聞出版)、
『自然が答えを持っている』(潮出版社)など、多数。
◎ うしろ けんじ
1949年、宮崎県生まれ。
エレクトロニクス分野の技術者、経営者として活躍する一方で武道修行を積み、文武両道の生き様と、武術の究極「気」による指導で、人々に潜在力を気づかせる活動を展開中。「気」による「不可能が可能となる体験」は、目に見えないものを信じられない人にも気づきを与えるとともに、人間本来の自信と謙虚さを取り戻すきっかけとなっている。
空手実践塾、道塾、教師塾、企業・学校講演などで「気づく・気づかせる」指導を展開中。
㈱UK実践塾 代表取締役
創心館空手道 範士九段
全剣連居合道 教士七段
宇城塾総本部道場 創心館館長
古きを活かし、新たな価値へ
ドイツ人建築デザイナーが気づかせる
再生古民家の魅力と豊かな暮らし
建築デザイナー カール・ベンクス
なぜ日本人は古いものを簡単に壊して捨ててしまうのでしょう。
やはり価値があるものを作らなければなりません。
「子どもの荷物になるから古民家を壊したい」とよく言われるのですが、
「荷物」にならない建物、孫の代まで住んでもらえるような建物を作りたいのです。
ドイツでヨーロッパに日本の建築を移築する仕事を手掛けていた建築デザイナーのカール・ベンクスさんが、偶然仕事で訪れた新潟の竹所に魅了され、日本に移り住んだのが今から30年前のこと。
古い建物を大事にするドイツ文化で育ったカールさんは、昔ながらの古民家が壊され捨てられていく日本の現状に驚き残念に感じていたという。
自宅用に買い取った古民家の再生をきっかけに、日本各地で60軒以上の古民家再生を手掛けてきたカールさんに、今に至る歩みと、日本の古民家の魅力や日本文化の価値について語っていただいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
亡き父の影響で
日本文化に興味を持つ
―― 本日はお忙しいなかお時間をありがとうございます。実は昨年、ベルリンに行った際に、サムライミュージアムに行ったのですが、後日、そのミュージアムのリニューアルをカールさんが手伝われたと知り、ご縁がつながっていたことをとても嬉しく思いました。
カール・ベンクス そうですか。あれは3年前のコロナでつらい時期でしたね。大工さん二人と設計士を連れて行きました。館内では能舞台と茶室を手掛けたのですが、日本で仮組まで準備してからドイツに持って行きました。現地で組み立てるのにひと月くらいかかったでしょうか。
甲冑のコレクションも侍の歴史もすばらしいものでしたね。
―― カールさんは今、日本の古民家を再生する仕事をされていますが、そもそもカールさんが日本文化に興味を持たれたのは、絵描きでいらしたお父様の影響だったそうですね。
カール・ベンクス そうです。父は私が生まれる2ヵ月前に戦争で亡くなりました。父は日本の大ファンでした。日本に行ったことはなかったのですが、絵描きだったので、日本の文化や日本独特のデザインに興味があったのです。ブルーノ・タウト(ドイツ人建築家1880~1938)の影響もあったようですし、浮世絵も家に何枚かありました。印籠とか日本に関するいろいろなものが家にあったのです。あのゴッホも日本の浮世絵版画のコレクションをたくさん持っていましたよね。
日本文化は、ロンドンの万博(1851年)やパリ万博(1900年)などで、昔の瀬戸物などが紹介されて、当時の資産家たちが多くコレクションしていました。
父だけではなくヨーロッパの美術関係の人たちはみな日本の特殊な文化、デザインに興味があって、いろいろな本を読んでいました。ですから私は子供の頃に、父が遺したものを見たり母から父の話を聞いたりして、日本はおもしろいなと思っていたんです。それで私は12歳から柔道を始めました。東西冷戦前から柔道と柔術はヨーロッパで学んでいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●プロフィール
◎ Karl Bengs(カール・ベンクス)
1942年 ドイツ・ベルリン生まれ。
絵画修復師の父の影響を受け、日本文化に関心を持つ。
ベルリン・パリで建築デザインオフィスに勤務。
1966年 空手を学ぶために日本大学に留学。以降建築デザイナーとしてヨーロッパや日本で活動。特に日本の民家に強く惹かれ、ドイツに移築する仕事に携わる。
1993年 新潟県十日町市竹所で現在の自宅(双鶴庵)となる古民家を購入、再生に着手する。
1999年 カールベンクスアンドアソシエイト㈲を設立。
2010年 歴史ある旅館を買い取り再生。『まつだいカールベンクスハウス』と名付け、事務所を移す。
受賞歴
2001年 新潟 木の住まいコンクール 入賞
2007年 第2回安吾賞 新潟市特別賞 受賞
2015年 十日町市市制施行10周年記念 感謝状 受領
2017年 平成28年度ふるさとづくり大賞 内閣総理大臣賞を夫婦で受賞
オフィシャルサイト https://karl-bengs.jp/
宇宙から生まれた人間は
計り知れないものを持っている
銀河浴写真家 佐々木 隆
宇宙が果てしなくとんでもない、
想像もつかないすごい世界であるというなら、
宇宙に作られた人間も計り知れないものを
持っていると思ったのです。
そういう人間のすごさと宇宙のつながり、
人間がどのように生きなければならないかを、
写真でつなげたいと思ったのです。
壮大な天体の世界と重厚な人間の歴史を毎号本誌連載で披露くださる佐々木隆先生。50代の時に旅したオーストラリアで、地平線から地平線まで続く天の川を見て、「自分たちは銀河に生かされている」ことに気づかされ、命の大切さを伝えたいと、高校教師の傍ら、銀河浴写真家としての活動を始めたという。
学校ではなく山に通った小学生時代、星に魅了された高校生時代、そして地球、生命、宇宙などを学び、壮大な宇宙を表現する写真に辿り着いた佐々木先生に、銀河浴写真に込める思いや、宇宙スケールをそのまま生かすような、おおらかでユニークな生徒指導について語っていただいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山に通った小学校時代
―― 佐々木先生は、子どもの頃から日食に感動したり、星に興味がおありの子ども時代を過ごされたそうですね。
佐々木 やんちゃな子どもでしたね。小学校2年生の途中から山に通うようになっていました。登校したらランドセルを学校に置き、学校の裏の山に登って遊んでいました。昼には学校に戻って給食を食べ、また山に行き、そしてランドセルを背負って家に帰っていました(笑)。
親が学校に呼ばれて注意を受けていましたが聞くはずもなく、先生も諦めたようでした(笑)。
―― 一人で山に?
佐々木 はい。一人で。アケビを採ったりトンボを捕まえたりして遊んでいました。蛇やガマ蛙を捕まえて、友達の机(当時は蓋つきの机でした)の中に入れておき、友達が驚く顔をおもしろがったり(笑)。そういうことを4年生までしていたのですが、5年生になると可愛い子が転校してきたので、それで教室にいるようになりました(笑)。
すると今度は授業を聞いていても分からない。まず漢字が読めない。これはあかんなと思い、勉強をし出したのです。
―― 山で虫捕りに夢中になるような佐々木先生が、植物学者や昆虫学者にならずに、宇宙のことに気持ちが向いたのは。
佐々木 うちの周りは江戸時代からの田園地帯で仙台平野なんです。田んぼがすごいんですよ。日が沈むのを見ながら帰ってくるのですが、まさに夕焼け小焼けの歌がピッタリくるのです。帰ったらお袋にご飯を食べさせてもらい、そのあとは、当時はキットで作る紙の望遠鏡でしたが、それで月を見てはスケッチをしたりしていました。クレーターも少しボケていましたが、見えるんです。「目で見る月とは違うのだな」と感じていました。
当時から夜空に興味があり、夜にはすごく不思議な世界が見られるなというのが子ども心にありました。それが本格的になったのは高校生からです。天文部に入り、高校1年の修学旅行で秋田県の男鹿半島に行ったのですが、行きも帰りも夜行バスで、その時に見た星空が本当にすごかった。
流れ星の観察から宇宙関連へ
佐々木 私は天文部でしたが、当時日本流星研究会にも入っていました。流れ星で、明るさの等級で言えば5等級や6等級の暗い流れ星―― 微小流星と言うのですが ―― を観測する人がなかなかいないということで、目が良い私に観測をやってくれないかと話がきて、毎晩、空を見ては星図に流れ星の図を書いて、何秒間出たとか、色や速さを記録していったのです。
高校2年の1968年9月21日未明、ぎょしゃ座β星付近から放射する流星群を記録、日本流星研究会に報告したところ新流星群の発見となった。周期を持つ新流星群の発見は稀で、これが報道されて、学校は当時高価だった15センチの望遠鏡を天文部に与えてくれました。その後アポロ11号の月面着陸につながります。
人が月に行ったんだ、と、もうそれが本当に衝撃でした。その頃はどのくらい距離が離れているのか感覚がないですから、本当にすごい時代に生かされているなと思って、そういう思いがずっと今につながっているんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<<< クリックで拡大
●プロフィール
◎ ささき たかし
1951年生まれ。宮城県仙台出身。高校時代に天文部に入部、天体写真を始める。東海大学海洋学部で海洋科学を専攻、その後大阪教育大学大学院理科教育学研究科で地学を専攻し、1981年より高校理科教諭となる。教材用の天体写真、地学関係写真を撮影する傍ら、アマチュア天体写真家として銀河と地球を一体化させた写真で新聞掲載多数、数々の賞を受賞。ソフトテニス部監督としても活躍し、ユニークな指導で全国大会等入賞多数。現在、銀河浴写真家として活動する傍ら非常勤講師として教壇にも立つ。
著書に、『銀河浴』『十万光年の詩』他がある。 各地で写真展、講演活動を展開中。
◆健康回復学研究所所長 工藤清敏
連載『塩から社会を見てみれば』
「ヨーロッパで神宝塩を」
怪我と病気をきっかけに、ミネラルバランスにすぐれた塩を摂る大切さを知り実践してきた工藤清敏さん。長年にわたる塩の研究と実績を土台に、自然治癒力の要が塩にあることを全国に伝え歩いている。
減塩が当たり前になっている今、人と塩の関係から見えてくる、さまざまな社会の矛盾や課題を見つめていきます。
◎ くどう きよとし
精神免疫学をページ・ベイリー博士に学び、心と体に最も優しい治療法を探求。生き方、考え方、言葉と塩と植物で生活習慣病が回復していくことを伝えている。
◆ゆめの森こども園代表 前島由美
連載『愛の関わりと連携で、輝きを取り戻す子どもたち』
「新たな体験が子どもを成長させる」
療育支援施設「ゆめの森こども園」で、生き辛さを抱えている子どもたちに向き合う前島由美さん。愛情いっぱいの関わりと、親御さんや学校・地域と丁寧に連携によって本来の輝きを取り戻していく子どもたちの実例を紹介していきます。
◎ まえじま ゆみ
療育支援施設ゆめの森こども園を開き「発達障害」とされる子どもたちをサポート。子どもの食環境改革を目指す。
◆写真家・ネイチャーガイド 安藤誠
連載『日常の奇跡』
「キムンカムイ(豊かなる山・ひぐま)の目線」
ネイチャーガイドとして自然と向き合う安藤氏。
目に見えないものを見、声なき声を聞くプロフェッショナルとして、私たちが見過ごしている「日常の奇跡」を、一瞬を切り取った写真とともに届けます。
◎ あんどう まこと
写真家/ウィルダネスロッジ・ヒッコリーウィンドオーナー&ガイド
北海道アウトドアマスターガイド。
◆銀河浴写真家 佐々木隆
連載『私たちは銀河のなかに生きている』
「奇跡の島と、別れ」
生かされていることに気づけば、人生はもっと豊かになる。
銀河を舞台に生命の息吹を写しとる、佐々木隆氏の銀河浴写真。
◎ ささき たかし
銀河浴写真家。銀河と地球を一体化させた写真で新聞掲載多数、数々の賞を受賞。元公立高校教諭。
◆写真家 野村哲也
連載『地球を歩く ~知られざる絶景を求めて~』
「地球一の花園」
世界に飛び出し旅するからこそ見える、日本のこと、自分自身のこと。
秘境と絶景を求めて 150ヵ国以上を旅してきた写真家 野村哲也氏の連載。
◎ のむら てつや
写真家/高校時代から山岳地帯や野生動物を撮り始め、〝地球の息吹き〟をテーマに、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求める。渡航先は150ヵ国以上で著書は14作。
◆作家 山元加津子
連載『ありのままの私たち』
「忘れてはいけない言葉のちから」
人と違っていても、障がいがあっても、人はみな素晴らしい力を持っている。
植物も動物も人間も、みんなでひとつの命を一緒に生きている――。
長く特別支援学校で子供たちと接してきた山元加津子さんが伝える、生きる上で大切なこと。
◎ やまもと かつこ
長年、特別支援学校の教員を務める。作家。植物状態と思われる人も回復する方法があり、思いを伝える方法があることを広める「白雪姫プロジェクト」を推進中。古民家を中心とした「モナの森」で、生きる力を強くするための活動を行なう。
◆書家 金澤泰子
連載『きょうも、いい日』
「翔子の深いところにあるもの」
ダウン症の書家として活躍し、また生活面でも独り立ちをはじめた娘、翔子さん。その成長の日々を、母金澤泰子氏が綴ります。
母娘の絆に、胸が熱くなります。
◎ かなざわ やすこ
書家。久が原書道教室主宰。
一人娘、翔子さんをダウン症児として授かり苦悩の日々を送るが、その苦しみを越えて、翔子さんを立派な書家として育て上げた。
◆茨城ダルク代表 岩井喜代仁
連載『今日一日を生きる』
「『新しい生き方』で歩み始めた 茨城ダルク今日一日ハウス」
薬物依存者が社会復帰を目指すリハビリ施設として、薬物依存回復の確立した方法論を持つダルク。
自ら薬物依存症の道を歩みながら、今は仲間の回復のために茨城ダルク代表を務め、各施設を回り責任者やスタッフを育てる岩井喜代仁さん。
仲間に励まされ、支えられ、許され、受け止められながら、入寮者が回復に向かっていく姿は毎回感動です。
ともに苦しむ仲間の絆があるからこそ、人は前に進むことができるのだと教えてくれます。
◎ いわい きよひろ
薬物依存回復施設 茨城ダルク「今日一日ハウス」代表 女性シェルター代表
自身が薬物依存症となり、苦しみ抜いた末にダルクと出合う。以来、救う側へと生まれ変わり、薬物依存に苦しむ子供たちを預かり、共に生きて回復を目指す。
◆UK実践塾代表 宇城憲治
連載『気づく気づかせる』
「『気』は今ある問題解決と
未来の希望づくりのヒントを持ち合わせた重要なエネルギー」
最先端のエレクトロニクス技術者として、さらには企業のトップとして活躍してきた宇城憲治氏は、現在徹底した文武両道の生き様と、武術を通して得た「気」によって、人間の潜在能力の開発とその指導に専念。
現在、氏は目に見えないものを目に見える形にするために、「普遍性、再現性、客観性」の実践検証をもって「目に見えないもの」の存在を解き明かす研究を先行させている。
◎ うしろ けんじ
㈱UK実践塾 代表取締役 エレクトロニクス分野の技術者、経営者として活躍すう一方で、武術の究極「気」の指導で人々に潜在能力を気づかせる活動を展開中。
創心館空手道 範士九段。全剣連居合道教士七段。宇城塾総本部道場 創心館館長
◆編集部コラム 『心の奥の取材ノート』
「教育者・僧侶 無着成恭先生のこと」
交わした言葉、ちょっとした仕草、振る舞い ――
今もありありと思い出す、取材で出会った人たちの思い出を綴ります。
対談で宇城先生がお話しされていたように、偉大な賞を受賞された方でいながら、まったく偉ぶるところのない大村智先生の自然体の気さくさ、始終ユーモアたっぷりの、それでいてきっぱり言うべきことは言い切る緩急あるお話にすっかり魅了されました。数々のご苦労があっても、「もっと新しいよいものを」と進まれる姿に感動しました。見せていただいた3冊のノートからは、その時々のご自分と向き合いながら、過ごされた先生の嘘のない日々が伝わってきました。
「人間ってすごいんだよ」繰り返し会見で語ってくださった佐々木隆先生。お話を伺っていると、不思議と人間も捨てたものじゃない、頑張らねば!という気持ちになるのです。常に銀河と向き合ってこられたからこそ、先生の心に大きく広がった宇宙。まるでその宇宙が私たちを諭してくださっているようでした。
事務所で取材を終えたあと、カール・ベンクスさんが一目ぼれして買ってしまったというご自宅の双鶴庵に案内していただきました。ご自宅をバックにカールさんの写真を撮ろうとしていると、カールさんの大ファンだという男の子二人とご両親が歩み寄られて、カールさんにサインをしてもらっていました。古民家再生という建築技術だけでなく、常に地域を大事に、人を大事にされているカールさんの人柄を感じました。
(木村郁子)
越後湯沢駅からレンタカーで山を越え、カール・ベンクスさんの事務所を目指しました。宿場町らしい街並みに入ると、べんがら色の古民家が。車を停めるやいなやカールさんがニコニコと出迎えてくれました。扉、柱、階段、梁……どれも黒光りして重みを感じます。こういうものを大切に扱い、その良さを最大限に活かし残すカールさんのお仕事は、確かに使い捨てにはならず、代々継がれていくだろうと思いました。
大阪にお住まいの佐々木隆先生。今回はぜひにインタビューをと大阪に向かう気持ちで日程を伺うと「では仙台で」「?!」。学校で授業をして、夜は銀河を追いかけ、全国で展覧会&講演をこなす……。このバイタリティーはどこからくるのか? それが今回よく分かりました。「銀河の中で地球に乗って回っている!」という〝実感〟を、いつか私もしてみたい!
大村智先生を訪ね、大村智記念研究所へ。エントランスには大村先生の功績を紹介するパネルや、大村先生の等身大パネルが。高まる緊張の中お部屋に通していただき、宇城先生とのお話が進むにつれ、本当に気さくで、日々を大いに楽しみ使命に燃えている方であることが伝わってきました。一方、イベルメクチンをめぐる世の中の動きには疑問を持たざるを得ませんでした。すべてが「人のために」行なわれる社会であることを願ってやみません。
(千葉由利枝)