29 11月

季刊『道』174号 中嶌哲演氏「福井の祈り」より


私は、国策として推し進められた先の戦争と今回の原発事故との間に重なる部分がたくさんあるように思います。

 今の時点は、戦争の時代で言えば敗戦間近の、もう広島原爆まで経験してしまっている状況です。そして広島に相当するのが今の福島です。当時の日本は広島を経験してもなお戦争をやめようとしなかった。

 それと同じように、原発問題においての「広島」に相当する福島原発事故が起きてなお懲りていないのが今の日本の状況です。

ふるさと小浜に原発を建てさせてはならない――。西の原発銀座と呼ばれるなかにあって、一切の原発施設建設を阻止しつづけてきた「原発設置反対小浜市民の会」元事務局長・明通寺住職 中嶌哲演氏。
40年前から原発に向き合ってきた中嶌氏の経験・思いは、宮澤賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はありえない」――「自利利他円満」に集約される。


我々の世代のたかだか40~50年間の便利で豊かな生活のために、100万年も管理し続けなければならないような死の灰という巨大な負の遺産を未来に押し付けていいのかと思うのです。
 原発問題は、人類としてのもっとも本質的で倫理的な責任を私たちに問うていると思っています。今すぐ止めたとしても、いやというほど宿題を抱え込んでしまっているんです。ましてや福島のようにとんでもない汚染を抱え込んでしまったわけですから。

 私たち若狭の住民は、原発の電気を媒介に都市部に貢献したいと思っていません。

 ここには豊かな海の幸をもたらす、リアス式の素晴らしい海岸美を持ち国定公園の指定も受けている若狭湾があります。海水浴に家族連れで来てくれれば嬉しいわけです。
 私たちは安心して、中京や関西の都市圏に若狭の海の産物を送りたいわけです。どんどん観光で若狭の海にも来てほしいわけです。

 そうやって都市と若狭とが共存共栄していけることが、「自利利他円満」なのです。

全文は、最新号『道』174号でお読みください。

中嶌哲演(なかじま てつえん)
福井県小浜市 明通寺住職
1942年、福井県生まれ。東京藝術大学中退。高野山大学仏教学科卒。学生時代、日本宗教者平和協議会にかかわり、広島の被爆者支援をつづける。「世界一の原発銀座」である若狭・明通寺の住職として、原発現地での反原発市民運動を展開。「原発設置反対小浜市民の会」事務局長を務める。93年「原子力行政を問い直す宗教者の会」結成に参加

20 11月

季刊『道』174号 花輪英三氏「非行少年を育て直す」より


ここは単純に申し上げると、一般に少年法で「試験観察」と呼ばれる補導委託先として、私たちのような民間の施設や個人が、非行のある少年を家庭裁判所よりお預かりしているということです。

 施設というよりは、花輪の家で寝食を共にし、非行少年の多くが経験していない本来の家庭のしつけや家庭的な温かい愛情を体験させたいという熱意に期待した柔軟性のある制度です。少年法の理念・目的というのは少年の健全育成ですから、そのお手伝いをする場ということですね。

仏教慈徳学園では、少年たちが園長の花輪英三氏をはじめ奥様・お母様の愛情を注がれながら生活し、やがて回復・自立への道を歩みはじめます。「私」のない毎日の積み重ねでこそ成り立つ活動です。そこには、この活動を始められた父・花輪次郎氏の並々ならぬ信念と情熱がありました。


皆が同じ種をもらっているんです。
 あとはその種が播かれる場所、育ち方。
 その育ち方の栄養分が、教育なんです。
 大人になると今度は自分が作用する番。
 親の愛情をそのまま自分の子供に返す。それがもっと進むと、
 「人に成したるは我に成す」だけではなくて、
 「人類に成す」。
 自分に返ってこなくても結構じゃないかと。

 人間の進化というのはまさしく遺伝子の螺旋のように、
 ぐるぐる毎日同じようなことをやっていても知らない間に
 高みに上がっていくという法則があります。
 平々凡々とした中に奇跡はある。
 それをありがたいと思う気持ちを持たないと、天罰ではないけれど、
 やはり自分から招く不幸に見舞われるのではないかと思います。

 僕はいつも少年たちに言うのです
 一つの話題には二つの意味がある。
 それを一つしか感じられない人は間違っていると。

  「明日」
  はきだめに えんどう豆咲き
  泥池から 蓮の花育つ 
  人皆に美しき種あり
  明日何が咲くか

 安積得也先生の言葉です。父(花輪次郎)の非行観でもありました。
 いい言葉ですね。

 嫌われる掃き溜めに食べものであるえんどう豆の花が咲き、
 泥沼に美しい蓮の花が育つ。
 蓮の花は泥池にしか咲かないのです。
 とてもご縁を感じる言葉だと思います。

全文は、最新号『道』174号でお読みください。

花輪英三(はなわ えいぞう)
仏教慈徳学園園長
1961年生まれ。父・次郎が補導委託先として少年たちを家庭に迎え入れていたため、子供の頃から少年が回復する姿を見て育つ。
1984年立正大学哲学科卒、少年院に奉職。しかし少年の回復には家庭的な処遇が大切との考えから、1988年少年院を退職して学園の後継者となることを決意。1998年結婚、3人の子供に恵まれ、現在夫婦ともども後継者として少年たちと共に暮らす生活に専念。
神奈川県社会福祉協議会会員 
立教大学社会福祉研究所所員 
日本犯罪心理学会会員

15 11月

沖縄戦・語り部 山里和枝さんの思いを継ぐ高校生

季刊『道』174号で、「戦争は絶対にあってはならない」という信念のもと、山里和枝さんは19歳で体験した沖縄戦の実際を語ってくださいました。

この山里さんのインタビュー記事「沖縄の祈り ― 語り伝えるために生かされて」を、「戦争と人権」というテーマのホームルーム活動の資料として取り上げてくださった高校の先生から、生徒さんたちの感想文を送っていただきました。

「今、平和に生きられていることが本当に有り難い」
「戦争を身近に生々しく感じました。やはり戦争は何があってもしてはいけない」

山里さんのお話をしっかりと受け止めて、自分たちがどうするべきかを語れる高校生がいることは、希望であると思いました。

山里さんの願い、命の重さを伝えようとされる学校の先生方の思い。
この二つをつなげる架け橋に『道』がなったこと、とても嬉しく思います。


● 今まで戦争の話とか聞いてきて「むごたらしい」とか「残酷」とか思ったりしてきたけど、そんな言葉で片づくほどのものじゃないと思いました。戦争がどんなに醜いものか分かっていたつもりでいたけど、私の「分かっている」はほんの少しだったのだと思います。いくら授業で先生に聞いても、戦争について講演を開いてもどこか他人事のようで説得力に欠けます。でも、山里さんのような本当に経験している人は、思い出したくもないことを血の涙が出る思いで語ってくれれば、その思いは痛いほど伝わってくるはずです。

● 戦争はどんなものか知っていたつもりでした。怖いなって、ただ思ってるだけでした。けどこの話を読んでどれだけ怖いかよく分かりました。地上戦なので敵は同じ地上にいる。そのせいで、切られたり、撃たれたり、どこに敵がいるか分からない中で逃げ回って、でも逃げる場所なんてないと思えば本当に怖いです。壕に入っても味方に撃たれ、生きているのに捨てられ、人間の心も命もうばってしまうものだと思いました。私は目の前で人が死ぬなんて見たくないです。目の前には敵ばっかりの状況なんていやです。
 今、平和に生きられていることが本当に有り難いと思います。昔、そんな地獄の戦争があったから今があるんだと思います。ただの他人事ではなく、苦しい思いをした人の分、私は今を精一杯生きようと思いました。

● 中学校の修学旅行で沖縄に行きました。そこで平和の碑や壕にも入ったりしました。そこの記憶をたどりながらこの資料を読んで、あらためて戦争はすごく残酷なものだと感じました。
 いくつか心にとまった言葉の中で一番心に響いたのは、「戦争で即死した人は自分は死んでいるとは思わない。まだ生きていると思っているからあなたがどんなに思っても夢には出て来ないよ」という言葉でした。これを読んだ瞬間、まだ死んだとは気づかずに沖縄のいたるところをさまよっているのか、あるいは沖縄を守ろうとしている魂がさまよっているのかと思うと、胸がイタイです。これを読んで、この内容を忘れずに、日々一日を大切に生きていきたいです。

● 私はこの資料を読んで、正直今まで沖縄戦のことについては何度も習ったし、沖縄にも行ったことがあるので、新たに学ぶことはもうないだろうと思っていました。でもこの資料を読んでいくうちに自分は無知なんだなと思いしらされました。戦争でケガをした人に対する治療法があんな残酷だなんて全く知らなかったし、生きている人を平気で捨てるなんてことも知りませんでした。県民は何も悪くないのにどんどん殺されていくなんて、現代の私たちには想像できません。自分の身を守るために子供を殺す・・・。敵軍に殺されるならまだしも、味方の軍に殺されるなんて、その子の親族の人たちはとても屈辱だったと思います。
 ただ、その中でも島田さんは唯一、県民のことを考えたすばらしい人だと思います。今でも「島守之塔」として沖縄のことを見守っているのかなと私は思います。このような残酷なことを後世に伝えるのはとてもよいことであり、また、その残酷さをみんなが理解しているのもとてもいいことだと思います。
 今、尖閣諸島や竹島が問題になっていますが、中国の挑発にはのらず、このまま平和な日本がずっと続いてほしいです。

● 実際に戦争を体験した人のお話をみると、現代に生まれたことが幸せなのかそうでないのかと考えさせられました。今はあまりにも平和すぎて、平和ボケしているところもあると思います。戦争系のゲーム(人を撃ち殺したりする)があるのがそのいい例だと思います。目の前で人が死ぬなんていうことは、全く想像できません。だけど、それが普通だった沖縄戦のようなものはくりかえしてはいけないと思います。

● 今までに読んだ沖縄戦の資料には、米軍がどれ程残虐か、一般市民に対してどれ程むごいことをしたのかが結構強調されて書かれていましたが、日本軍も十分にむごい仕打ちを沖縄市民に対して行ったことが分かりました。
 唯一の安全所の壕から出れば米軍に見つかり、壕の中にいても食料もなく不衛生、更には方言の通じない本土の友軍が子供に銃を向ける。まさに地獄、生き地獄です。
 今まで戦争に対しては過去のこと、他人事ということを前提として聞いたり調べたりしているところがありましたが、この資料で戦争を身近に生々しく感じました。やはり戦争は何があってもしてはいけないです。戦争を風化させずに、後世へ語り継いでいくことが現代の我々の役目だと思います。

● 日本で唯一行われた地上戦。中学校のときの修学旅行や家族旅行で戦争に関連する場所にはたくさん行ってきました。戦争体験者の人の話も聞いてきました。そこでの戦争はもはや戦争というものを逸脱するものだと思いました。戦争ではなく、虐殺。誰かvs誰かという明確な敵対関係はすでに崩壊して、一方的になぶられ、殺されるだけの殺戮。山里さんが友人の死体をきちんと埋葬することもできずに、艦砲射撃であけられた穴に埋めたときの気持ちはすごくいたたまれない気持ちにちがいなかったと思います。
 戦争はいけない、本当に怖いと思います。私たちの役割は戦争の悲惨さを語り継ぐことだと思います。かつて日本で悲劇があったということを、決して根絶やしにしてはいけないと思います。

● たくさんの人の尊い命をうばった沖縄戦。山里さんの語りを読んで、何とも言えない気持ちでいっぱいになった。中学のときに沖縄戦のことを学んでいたけれど、山里さんの話ではなかったため、また新しく思ったことなどもありました。
 山里さんはじめ、本当に多くの人の心と身体に傷を負わせた沖縄戦。その戦争から生きのびた人の数だけ戦中の体験話があり、戦中に感じた様々な気持ちがあるのだと思うと、もっと勉強しなければと思う。山里さんの話にあったように、自分の子供を自分で殺すという最悪なこともおこなわれ、自らの命を絶つほうが楽だとか、同じ日本人同士が殺し合うだとか、そんな精神状態にならざるを得なかったであろう「戦争」という行為は在るべきではないと思う。そして「生きる」という強い意思をもつべきだと思った。

● 今、日本では親が子供を殺すというニュースを聞きます。その時いつもそんな簡単にできるもんじゃないと思います。沖縄の戦争中に母親が自分の子供、それも赤ちゃんを殺すということは断腸の思いだったと思います。人を殺すのが当たり前だった戦争で多くの人の命が奪われました。その人々がそこまでして守りたかった日本で、今平和に暮らしている私たちは、平和に対してもっと考えるべきであり、今、中国と戦争になるかもしれないという状況の中で二度と戦争を起こさないで欲しいという山里さんの気持ちも込めて、どう取り組むべきか考える必要があると思った。

● 僕は中学校のときからずっと平和学習をしてきて、中学の修学旅行では、実際に壕には入りました。そこは真っ暗でとても怖かったです。そして平和記念公園にも行きました。そこには数え切れないほどの名前が刻まれた石碑がたくさんあったことを今でもはっきりとおぼえています。
 中学校のときから忘れられない言葉は「アメリカ兵より日本兵のほうが怖い」という言葉です。この資料にもありましたが、日本兵は罪のない子供までを殺していき、とてもむごいと思いました。どうして、自分の国の人を守らなければならない日本兵が日本の罪のない人を殺すのか、と思うと腹立たしいです。これからの人生で戦争は絶対にあってはならないことだと思います。沖縄だけでなく、日本は広島や長崎に原爆を落とされたりしてたくさんの被害を受けていることをしっかり認識して、もう二度と過ちを起こさないようにしてほしいです。
 基地問題は早急に解決しないと、沖縄の人の心の傷は一生消えないと思います。

[『道』174号の感想]

[『道』174号の詳細]

15 11月

季刊『道』連載 岩井喜代仁氏「今日一日を生きる」より

季刊『道』より、薬物依存回復施設・茨城ダルク代表 岩井喜代仁氏の連載記事「今日一日を生きる」を紹介いたします。

覚せい剤や大麻だけでなく、脱法ハーブ、脱法ドラッグ、そして市販薬、処方薬……日本でも容易に薬物乱用に陥る環境になりつつあります。

さらに、薬物乱用が引き金と思われる事件が頻発するようになり、もはや薬物問題はいつ我が身に降りかかってもおかしくない身近な社会問題です。
20年にわたって薬物依存症者の回復と、彼らの社会復帰への取り組みを行なってきた岩井氏に、「薬物問題の今」を語っていただいています。


(2012年6月10日、大阪市心斎橋の路上で男女2名が通り魔に刺され死亡する事件が起きた。
 刺したのは、覚せい剤取締法違反で服役し、出所したばかりの男。
 犯行動機として出所後の生活不安をあげ、「人を殺して死刑になろうと思った」と語った。
 事件当日は覚せい剤の使用は認められなかったが、
 過去に同違反により少なくとも2回は服役したという。)


 私にしたらあれはもう合併症ですよ。完全に薬物依存症以外の病気も発症しています。おそらく刑務所内でも処方薬(向精神薬)を飲んでいたと思います。しかしそこで私たちダルクが「あの子は病気だよ」という話をすると、社会的に一般の人から見たら「薬を使ったやつが悪い」「それは自分たちの正当化じゃないですか」という話になる。

 だけど、覚せい剤を使わなくてもアルコールを飲んで、そこにフラッシュバック(過去の薬物使用による症状の再燃)が起きることもあるんです。

 心斎橋の事件の犯人も出所直後に一度は薬物支援施設につながりながら、自分の意志でそこを出て大阪で事件を起こした。私たち施設の人間には「出て行く」という人を止めることはできないんです。

 今、「刑の一部執行猶予制度」という法律が制定されようとしています。今回の事件は、この法律があったら防げたのです。それは、この法律が薬物事犯の出所者はいやでも回復施設に行かなければならないと定めるものだからです。しかしこの法案は参議院は通りましたが、まだ衆議院を通過していません。国会があんなにもたもたとしていたら当然でしょう。――

家庭・施設・刑務所を際限なくめぐる薬物依存症者を、周りにも本人にもいい状態で社会に戻そうと奮闘する、ダルクの記録です。
全文は、最新号『道』174号でお読みください。

ダルクとは
覚せい剤、有機溶剤(シンナー)、市販薬、その他の薬物から解放されるためのプログラムを持つ民間の薬物依存症リハビリ施設。

13 11月

季刊『道』連載 金澤泰子さん「あふれる真心と愛」より

現在『道』で連載していただいている、ダウン症の一人娘・翔子さんを書家に育てあげた金澤泰子さんの記事「あふれる真心と愛」からの言葉を紹介します。

一緒に死のうと思って彷徨(さまよ)っていた時期、
 翔子が小さな子犬を見て、頬を染めて微笑んだ。

 知能がないと告知されたにもかかわらず、
 翔子の体内で起きているこの「頬を染めて微笑む」という
 見事なメカニズムに、私は、これはもはや人間業ではなく、
 神の御業だと気づき、人間の神秘の重大さを感じて
 思いとどまり、深い絶望の淵から這い上がった。

 何があっても泣いたり騒いだり不満を言うことなく
 静かに微笑んでいる翔子の、
 この不思議な微笑に神の光を見ざるを得なかった。
 自分のことに涙を流すことはほとんどない。
 この世に不満のかけらも持たない。
 いつも他の人の悲しみや痛みに涙を流す。

 教えたわけではないのに顕(あらわ)れるこの不思議な感情は、
 あまりにも尊くて、私はこのことをどうしても語り継いで
 おかなければならないと思っている。

 とても大きなものを包括しているので、
 どこまでそれが伝えられるか分からないけれど、試みてみたい。

毎号、一人娘・翔子さんへのあふれる思いがつづられています。
全文は、最新号『道』174号でお読みください。

金澤泰子(かなざわ やすこ)
書家。
久が原書道教室主宰。