2017年 東京中上級・A 第5回 (2017.9.20)

先生が心を開いて下さっているからこそ、私達は学び続け、
自分自身の変化を感じさせて頂ける
                     新潟 施設生活支援員 34歳 女性 ES

 今回、指導者は進歩変化する姿を見せることだと何度か仰っていたことが印象に残っております。
 宇城先生の場合、多くの人から期待や憧れなど、様々な想いで注目されている方です。そうした方が進歩成長する姿を見せるとはどういうことなのだろうかと想像していると、これまでも宇城先生がそうして心を開いて下さっているからこそ、私達は学び続け、自分自身の変化を感じさせて頂いているのだと改めて感じました。
 自分が心を開いているのではなく、あくまでも、宇城先生がずっとずっと歩み寄って来て下さっている。宇城先生はずっと自ら学び続けていらっしゃって、現代への憂いを心に仕舞い続けて来られ、その上で、この道塾で多くの人にご指導くださっている。
 親の愛に感謝もせず人からの評価を欲しがったり、宇城先生から学ぶ宇宙の真理、更なる愛を信じることもせず、常識にとらわれ不幸と感じていたりと、幼すぎる自分を思います。
 これでは本来の人間として大地からエネルギーをもらって力強く生きていくのは、程遠い話だと感じました。
 精進して参ります。今後とも厳しいご指導を賜りますよう、何卒お願い申し上げます。
 誠にありがとうございました。

 

身体を通してでなくてはキャッチしきれない世界   神奈川 会社員 30歳 男性 NS

 今回、帯を左右それぞれ10名で引っ張り合う状況のなか、固くて頑丈な帯が先生の「気」をかけた瞬間に伸び縮みするといった有 り得ない体験をしました。

 通常ならば互いに力と力を加えた帯はピンッと張った状態からさらに伸びることはありません。
 しかし先生が「気」を送るとそこからさらにぐわっと帯が実際に伸びることを体験したのです。

 しかも今度は何もないところ、むしろ一番力が加わっているはずの帯の中心から逆に全員が引っ張られるというとんでもない体験です。

 それは周りから見ていても実際に帯が伸びたり、縮んだりすることがはっきりわかるほどの変化でした。しかし、この体験をその場にいない誰かに話したところで信じる人はいません。むしろ信じないことが普通であり、体験せずして信じるほうがおかしいぐらいと感じました。

 なぜなら先生が私達に見せ、体験させてくださる事象の数々はすべてが従来の常識のなかには答えのない世界であり、実際にその場で見た人、体験した人でなくては到底想像すら及ばぬ世界だからです。それは言葉や頭では到底理解することができない情報量でもあり、身体を通してでなくてはキャッチしきれない世界であることを深く痛感致しました。

 先生が常に実践で示してくださる「百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず」の限りない深さを教えてくださる目には見えない世界です。

 また10人以上でがっちり組んだスクラムを先生はいとも簡単に押したり、引っ張ったりすることをやってのけてしまいます。その際、スクラム側は増々押されまい、引っ張れまいと誰もが強く意識するものの、先生はこの「意識」を取ることができると仰り 、実際に意識を取られた身体は何か拠り所を失ったかのように倒されてしまいました。

 この時、頭の命令は効 かず、為す術がありません。加えて、意識を取られた身体は完全に居ついてしまい、一番危険な状態へと陥り、自ら強く意識したことによる自業自得な結果を 招くことになりました。だからこそ意識は意味がない、人数が多ければ多い程ラクである、と先生は話されました。

 しかし私達は頭が先、意識が行動の先に働いてしまう病気を抱えてしまっています。実際に行動を起こす前に頭が介入してしまい、「心なし」の働きを起こしてしまう。

 電車でおばあさんが乗ってきたら「席を譲ろうかな」と頭で考えてしまう。頭で考えることが現代教育では大切なことであると教え込まれていますが、その前の実践先にありき、行動が先であることが抜け てしまっている。
 頭→意識→行動では無意識化になりません。
 席を譲っている自分。身体先にありき、行動が先、心が先であること。
 私達はこの病気を毎日の行動、身体を通して直していかなくてはならず、あらためて失った心を取り戻さなくてはならないと痛感 致しました。

 先生が常に教え、示してくださる「身体が先」であること。意識や頭の命令は効かないこと。 組手で先生に向かっていくときほど、それを感じることはありません。頭でいくら攻撃を仕掛けようと思っても身体が完全にびびってしまう、身体が動かない。
 幕末などの剣聖と呼ばれた達人は戦う前に事を制していた。しかし、強引な力まかせで来る相手や、頭で切り替えて、なおも斬り かかってきた相手に対しては止む終えず斬り伏せる。 宇城先生は全く同じことを再現できる。

 今回、木刀で先生におもいっきり打ち込みにいかせて頂きました。しかし、先生に当たることなく木刀を振り下ろした自分のほうが完全に制されてしまう。何度も何度もやられる度にこちらは増々気合いを入れ、本気で打ち込んでいくのにやられてしまう。後から振り返っても言葉では説明ができず、なぜ先生はあのような動きができるのか全く分かりません。

 帯が伸びたり、縮んだりするエネルギーも一体どこからきているのか?これは誰にもわかりません。 本当にわかったのであれば、「では、やってみて」と。私達は安易に「わかった」という言葉を使ってしまいますが、その「わか った」という真の意味を大きくはき違えていることを痛感しました。

 どんな化学や理屈をこじ付けたとしても頭での「わかった」は、やはり部分体であり、八識である知識の部分約1%の世界で「わ かった」と頷いているに過ぎません。
 それはわずかな点であり、点を線に、線を面にしていく発展性や応用、活かしていくことは叶いません。帯が伸びたり縮んだりする従来の常識では考えられない事象や、振り下ろす木刀に全く動ずることなく入っていくことができる答えを持っているのは常に実証、実践で示してくださる宇城先生しかいないことは間違いありません。
 知識偏重の私達は言葉や知識でその伝えられない凄さや感動を伝えようとします。しかしその発想が物凄くインスタント的な発想であり、横着そのものであることを痛感致しました。

 今回、「指導とは、自分の変化、成長を見せていくこと。」という先生の言葉が物凄く心に残りました。 周りを行動で説得出来ていない自分は、まさに行動していないことを突き付けられた思いです。説得できないとは負けているということでもあると思います。それは自分に負けているということ。
 先生は「差別は絶対駄目だが、そういった差はいくらでもつけなさい」と仰っている。人に元気や希望を与えていくのも自分の変化、成長を見せていくこと。言葉ではなく、まず自分が行動、変化で示していく。優劣を作る現代社会の知識の約1%の世界に負けてはならないと思いました。日々、負けない自分を創っていく。ぶれない、動じない自分を創っていく。 自分に克つよう日々精進して参りたいと思います。

 

気の力の凄さを身体で感じました   埼玉 ビル管理 38歳 男性 JS

 座っている相手の背中と胸に手を置き、背中側を押すとその力に耐えようとその部分に意識が集中し、反対の胸側を押されると簡単に崩れてしまうという実技において、力で踏ん張っても崩されてしまうのに宇城先生が気を通されると力を入れていない状態でどちらから押されても力を入れていないのに崩されなくなりました。

 また多勢で腕を組み、輪を作った状態で横に動こうとするとばらばらでぎこちない動きになりますが、宇城先生に気を通していただくとものすごい力で回り出しました。改めて筋力ではなく、気の力の凄さを身体で感じました。原点に戻り、周りの事を思い、また生活していこうと思います。ありがとうございました。

 

人間の本来持っている感覚を感じさせて頂いた   神奈川 郵送業 37歳 男性 DK

 始めの帯を引っ張り合う実践の時に、帯が伸びる、縮むのをこの目で見ました。
 木刀を持った宇城先生が帯に打ち込むと下に沈みました。その時に帯を持ち上げようとすると、その人も帯を引っ張っていた人もさらに下に沈み、最後は全員が倒れました。
 人に話しても絶対に信じないと思います。それは今の科学では解明できないからと宇城先生はおっしゃいます。目に見えない世界があります。

 両腕、両脚、胴体を掴まれた状態の四つん這いになった人が宇城先生の気によって動きます。動けるようになります。変わって別の人がやる時に、始めに出来た人が前に立つと動けますが、他の人が立つと動けません。私は腕を押さえる役をやっていましたが、その時に空気が変わったのを感じることができました。その感じたことが忘れられません。人間の本来持っている感覚を感じさせて頂いたと思いました。日本人の所作、姿勢には意味があること。日常の挨拶に答えがあることを教えて頂きました。日本人である事を忘れてはいけない。自信に充ち溢れた威風堂々とした人間へと成長しないといけないと感じた道塾でした。

 

一触を通して伝えてくださる   千葉 アニメーション演出 44歳 男性 HS

 先生が見せてくださるあのエネルギーはどこから生まれて来るのか。
 言葉では未だにうまく言えません。しかし、身をもって体感したすべての感覚は間違いなく存在していると、いつまでもじわりと身体に残っています。
 最高のお手本が目の前にある。高く深い目指すべきものを先生が示してくださる。
 一触を通して伝えてくださる。

 いつからかヘラヘラ、チャラチャラと軽くなってしまうのが自分自身が我慢できなくなってしまいました。一度知ってしまうとそういう雰囲気にも居心地悪くなってしまいました。そのためにも奴隷になってはいけない。なにかに依存する、隷属しきってしまってはいけない。本当の意味で自立しなければ、と感じました。
 そのための取り組む姿勢、自分を見直す態度を作っていく。
 物事に向かっていくエネルギーを先生は一触を通して伝えて示してくださいます。
 周囲がどんな環境であっても関係ない、振り回されず自分が変わっていく。そのための姿勢を作っていく。そんな気づきをいただいてます。まわりのせい、誰かのせいではない、すべて自分なんだと。自分の中のエネルギーの問題なのだと。

 以前、先生から教えていただいた「お尻の下に紙を入れても紙が抜ける正座」は日々のバロメーターになっています。単なる太ももの筋トレになってしまっているか、身体が繋がっているか、その時の違いはなぜなのか、なにが自分の中でひっかかっているのか。エネルギーが生まれて来るような正座を型を見つけられるよう、日々の生活の中で見直していきたいと思います。改めまして、ご指導いただきありがとうございました。次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

先生の講義を継続的に受講できる環境にいれることに感謝   東京 会社員 49歳 男性 IU

 今回は、本物を身近に接する、感じることのできる環境にいることの有難さ、恩恵についての認識を新たにしました。

 自分自身、家族、周囲の人々が本物と言われるものに接する機会をより多くもって、物を見る力、本質を感じ取る下地を養っていくことは物事を見極め、判断して行くうえで非常に重要であり、このプロセス自身にHow toがある訳ではないので、これが分かる、できる師に指導を仰がねば、然るべきところに到達できないのだと思います。

 この意味でも道塾に通って、先生の講義を受講できるという機会は非常に貴重であり、継続的に受講できる環境にいれることに感謝します。また、少しでも先生に近づけるよう先ずは日常の中で自分でできること、やれることをきっちりやっていきたいと思います。