2017年 東京中上級・A 第4回 (2017.7.26)

私共健常者は一日一日と深層識の阿頼耶識が育って、心象として具現するまで変わってゆく努力をしなくてはならない               神奈川 アルバイト 67歳 男性 HY

 薬物依存そのものは治らないとは怖いことです。だからダルクのような所で二度と使用しない努力を続けていくことになるのだと思いました。
 先生は健常者も薬物依存のようなもので、表層識のたった1%の知識の所で病気になってしまっていると言われました。ということは私共健常者は一日一日と深層識の阿頼耶識が育って、心象として具現するまで変わってゆく努力をしなくてはならないのだと思いました。  

 『弓と禅』を著したオイゲン・ヘリゲルは一昔前の人ですがドイツ人なので何事も頭の理屈で考える点で現代人と同じだと思われます。そこで阿波研造師範は暗い所で的に的中した一の矢に更に二の矢を命中させることで単なる力の技ではない事を示したのでしょう。
 しかし、先生はもっとやさしく力ではないことを教えて下さっていると思います。野球のボールを軽くにぎっただけで引き抜けなくなり、更に親指を離しても2本の指がボールにくっついてしまい引き抜けませんでした。力でないことが目の前でよく分かりました。  

 12歳のドイツの女の子に気を通して足に乗ると痛がらない。しかし、気をはずしてもなお全く痛がらなかった。これはすごいことで、完全に信じ切っているからできる、正に信じる者は救われるのだというお話しでした。師を信じ、おのれの内なる力を信じることが出来ればそういう力が出るのだと思いました。
 今回、ご指導、本当に有り難うございました。

 

頭でなく身体で人間には無限の可能性があることを理屈抜きに気づかせてくださる
                                         神奈川 会社員 30歳 男性 NS

 今回の道塾では八識のお話が宇城先生からありました。人間には眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、思考(知識)のさらに深いところに末那識と阿頼耶識がある。 人間の根幹ともなる領域が末那識と阿頼耶識の部分であり、なかでも阿頼耶識が大半を占めていることを学びました。

 しかし私達はマインドコントロールという思考(知識)の部分約1%で 、引っ掛かりコントロールされている事実。 人間の計り知れない全体の能力からすればわずかな部分を全体だと思い込み、すべてわかったつもり、知っているつもりとなっている横着な現状。

 またスポーツなどに見られる自身の変化を促す際には末那識や阿頼耶識は皆無であり、目に見える世界での話(約1%の世界)で対策や解決策を見出そうとしています。なかには潜在意識に働きかけるため、言葉や観念論、イメージを使っての手法を目にしますが、どれも結局は頭からの発信となり、表面的な部分での解決や対策に過ぎないように思います。

 本来人間としてどうあるべきなのか、人間の進歩・成長。その本質であり、人間の根幹ともなる阿頼耶識の部分を宇城先生は私達に気づかせ、引き出す指導をしてくださっています。

 実際に先生の「気」により自分に眠っている力(潜在能力)をその場で引き出し、頭でなく身体で人間には無限の可能性があることを理屈抜きに気づかせてくださいます。

 今回、私の胴体に帯を巻き、左右から引っ張られ、身動きが取れない状態のなか腹を叩かれる検証をおこないました。 当然、何もない場合には呼吸も苦しく、全く余裕のない状態となってしまい、その最中、腹をおもいっきり叩かれるのだから一溜りもありません。

 しかし先生に「気」を送ってもらった瞬間、胴体を引っ張る帯には何とも思わず、腹を叩かれてもビクともしません。もちろんその状態で足や腕をおもいっきり叩かれてもビクともせず、逆に相手が痛がりました。これだけ人間は瞬時に変わり、強くもなるのかとあらためて驚かされる体験でした。

 また現在、行われている身体を鍛える意味に完全に疑問を抱かずにはいられません。
 先生に「気」を送って頂いているのですが自分のなかにこんな凄い力があるという感動。人はこんな凄いんだと心底希望をもらう体験です。

 「自分はダメなんじゃないか」と頭で考えてしまうのは1%の知識の世界(頭、バーチャルの世界)のマインドコントロールに引っかかっているだけであり、真実は宇城先生が気づかせてくださる身体、実の世界であり人間に与えられている無限の可能性です。

 先生は言葉で希望を与えるのではなく、常に自らの行動で、生き様で示してくださり、さらには私達、誰のなかにも無限の可能性があることを理屈抜きに引き出し、気づかせ自ら実感することができるようにしてくださいます。

 宇城先生のような指導ができる人、してくれる人は世界のどこ探してもいない。
 だからこそ変われない原因は全部自分のなかにあります。

 こんなに素晴らしい力があるのに全部自分が止めてしまっている。あえて自分から知識の世界である1%に留まろうとしている。まず自分が変わること。

 私は今まで何に対しても中途半端でした。中途半端というのは卑怯な心から生まれるように思います。自分さえ良ければいい、都合の良い損得で物事を判断し行動している自分。周りの環境が良い状況であれ、悪い状況であれ常に調和し、すべて自分のエネルギーに変える、エネルギー変換を起こしていきたい。

 孤立するのではなく、心をひらき、そうした調和できる身心を創り、卑怯を恥とし、人間として恥のない生き方をしていきたいです。人に元気や希望を与えるのも決して言葉ではない。
 先生のように人に元気、希望を与えるのはその人の行動であり、生き様でしかないことをあらためて学びました。

 今置かれた状況のなかで武道の心、すなわち先生の教えを徹底して実践し、また稽古していくなかで自身に問いかけながら正々堂々生きていきたいと思います。

 

先生の世界の一部分を身を持って体験   千葉 自営業 42歳 男性 CN

 今月もご指導いただきまして、大変ありがとうございました。世の中に起きる様々な出来事というのは、一見何の繋がりも無く点のように見えてしまいますが、大局にたって全体を見渡せば線になり面になって立体的に物事が観えて くる。という事を、先生の講義を通して感じさせていただきました。
 そして実践を通して体感もさせていただきました。

 帯を腕に巻きつけられ両側から締め上げられると、想像以上の締め付けに思わず身をよじってしまったのですが、気を通していただいた直後、締め上げられた腕への意識 が消えてしまい、全く気にならないというか余裕が備わっているような感覚です。
 この状態でもう一人の方におもいっきり突いてこられたのですが、全く怖さもなく、「突いた人の手の方が痛いだろうな」と案じる余裕があるほどです。
 
 通常自分達の一般常識の中の出来事であったら、叩かれるとわかった瞬間にお腹に力を入れたり、呼吸を止めたりして固めてしまうのですが、この時は全くそのような意 識の反応は起きずに、細胞が身体が守ってくれた、という表現が正に一番しっくりくるような体感でした。だからこそ絶対に通常の「鍛える」というような発想は出て来る訳が無いという事を知りました。

 先生の世界の一部分を身を持って体験させていただき、巷に溢れる身体操作や意識などという類の物とは全くの別次元であるということを改めて痛感しました。
 これは本当に理屈でなく、自分の中の無意識が感じた事であると思いますし、何より先生の生き様、愛の深さがなければありえない現象であると感じました。

 先生が話してくださった、「蓮の華」のように泥水でも綺麗な華を咲かせ、根から切り取ってしまえば夜には枯れてしまう儚さ。自分には、師の心を映し師の世界で生きれば、この先どのように世界が変わろうとも、そこで華を咲かすことができる。そしてその華は次世代、その先へと繋ぐ希望の華となり、咲くまでの生き様全てが華となるのだから活かされている事に感謝して、どんな状況が来ようとも生ききりなさ い。と言われたように感じました。

 毎回、回を重ねるごとに先生に出会えた事の大きさを実感し続けています。
 これからもご指導を宜しくお願いいたします。