2013年 東京中級 第3回 (2013.5.15)

分かっているつもり”は本当に怖い   東京 会社員 27歳 男性 O.M

 この度も貴重なご指導、誠にありがとうございました。
今回の講義ではあらためて、分かっているつもり、というのは本当に怖いと思いました。自分は理解できていると思いこんでいるのを取り払って、虚心坦懐に、ご指導を見つめ直さなければならないと思いました。
 先生が「目の見えない人に色を教えている」とおっしゃいます。その言葉の意味することは分かりますが、当の自分が「目の見えない人である」ということを心底自覚できているかというと、そうではないと思います。自分は目が見えていると思い込んでいることを見つめ直し、実は自分は目が見えていない、ということに気づいていかなければと思いました。
 我々は身体の呼吸が止まっている、ということを、鮮やかな例で示して下さいました。隣の人から強く押され妨害された状態では、スムーズに物をとることはできません。とろうとすれば体勢が崩れ、逆に崩されまいとすれば、物を取れません。しかし先生が気を送り、我々を統一体にしてくださると、それがいとも簡単にできます。同時に複数のことができ、かつ、いずれも円満に解決できます。それが人間本来の姿であるはずなのに、我々は自分たちが気づかぬ間に、部分体に堕し、無自覚なまま毎日を過ごしています。一方で、一般社会では、人から妨害された状態で物をスムーズに扱うことなど「できない」のが常識です。先生のご指導がなければ、「常識」の世界に生きる私たちは、自分たちが部分体で毎日を過ごしているという事実を自覚することもなく人生を終えてしまっていたと思います。
いかなる筋力的な力も頼らずに、連なった5名以上の成人男性を自在に動かすことなど、常識的に不可能です。しかし、先生が気を通して下さると、自分でも理解できないまま、それができます。それは非常に神秘的で感動的な体験です。
 しかしそれでも、私は変化することを拒みます。先生はそれを勇気がないから、今を捨てきれないから、プライド、メンツを気にするから、とご指導くださいます。これも、その言葉の意味することは分かります。しかし当の自分が実際的に、こだわり、プライドやメンツを大切にし、変化を拒んで、それゆえ本来の魅力を発揮できていないことを自覚し、自らを変革することは、できていません。大きな課題です。
同じ高さから落としたボールの“重さ”の実感値が変わる、部分体だと軽く、統一体だと勢いがあり重く感じるというのは、信じられないようなことですが、それは自らの身体で否定しがたく体験する事実です。統一体でボールを握る時、もはや握る必要すらない、手とボールが密着してくっついたような状態になってしまって、引っ張っても離れない。指で触れているだけのボールが、引っ張っても取れないなんて、傍らで見ていると、混乱してしまうほどありえない光景です。しかしそれは自らで体験した事実だから、受け入れざるをえません。
 先生が講義中にお話しされることが、怖いくらいに自分の現状と一致することがあります。今回まさにそれがあり、先生がお話されたことが、完全に私が職場で悩んでいることと一致して、信じられないような気持ちでした。講義を受けている全員が、先生は自分のことを指摘してくださっていると感じていると思いますが、微に入り細に入り、あまりにも完璧に一致しているので、驚きました。
 暗澹たるニュースが溢れる日本。どんどん厳しい状況になっていくことが目に見えて分かりますが、善性への戦いを諦めず、自分を律して前進していきたいと思っております。

 

本当の意味で「~している」と言える毎日を   東京 会社員 52歳 女性 K.M

 今回の道塾では、せっかく完成形の人間として生まれながら、その潜在力に全て蓋をし、ただ食べて、眠って、仕事をして・・・と漠然と生活しているだけのような自分の姿を思い、情けなく感じるとともに、あらためて何事も「~しているつもり」の状態から脱却して、本当の意味で「~している」と言える毎日を送れるようになりたい、と思いました。
 うつ伏せになった状態で、パートナーから両こぶしで腰のあたりを押してもらう演習では、気が通っている時はこぶしが何の抵抗もなく深く身体の奥まで沈みこんでゆくような感覚だったのですが、気が通っていない時は、最初から筋肉が固い板のような状態で、パキッと音がしてこぶしを拒否していました。心だけでなく、「調和」と「対立」が身体でも起きている事実を否応なく確認できました。

 身体面では細胞のレベルから呼吸が止まっており、必要な酸素が脳や臓器に十分に回っておらず、体が強張っていること、心の面では人と「衝突」する生命の傾向性があることに端を発した「人の好き嫌い」が激しいこと、その結果として心が閉じていること、その事実の根深さに気づかず、何事においても思考が浅く、観念的に人と「調和」を心がけていた「つもり」で毎日がカラ回りしていたことに、この演習で気づくことができました。
 先生は講義のなかで、部分体の私たちに「気」の存在を伝えるのは、盲人に色を伝えようとすることに等しい、とお話されていましたが、その気の遠くなるような作業を根気よく続けて下さることが、どれほど有難いことか、きっと今の私は十分に判っていないのだと思います。「生きる」ということの意味を、プランク時間、細胞、身 体、心の在り方、社会、人との関わり方、宇宙、不可思議なレベルまで、あらゆる角度から可能なかぎり噛み砕いて教えてくださること。言葉だけでなく、演習と気を通して身体でもそれを問答無用に体感させてくださること。何万冊の本を読んだとしても、自分では一生かかってもカケラほども覚知できない究極の真実を惜しみなく教えていただける場に集えていること。これらがどれほど恵まれていることであるのかを本当の意味で実感し、感謝するには、自分を深めてゆくしかないと思っています。根気よくサンチンを繰り返し、一生をかけて現状の先生の伝えようとされていることの殆どを理解できず聞き逃しているであろう自分の小さな心の器を拡げたいと思います。細胞のレベルから呼吸し、重力を感じ、宇宙も、目に見えない世界も含めて全てに抱かれ、全てと繋がっている生命を与えられ、生かされていることに心底感謝できる人間へと成長したいと思います。そして、何事にも潔く、正攻法、正面突破で行動できる、人間味ある心の温かい人になりたいと思います。

 

調和しているからこそ強いというのを実感   茨城 団体職員 46歳 男性 S.Y

 私は宇城先生の話で一番好きなものは科学の話なのですが、細胞の話では細胞には核があり、色々なものがあって膜がある。その膜は選択的な透過性である事を仰っていました。この細胞のモデルは身体全体にもあてはまるものだと思いました。脳や中枢があり皮膚がある。皮膚は境界となり境界内は密度が高くなっている。皮膚や細胞膜が選択するものは目に見えるものだけでなく、気のように目に見えないものもある。宇城先生に気を通されると細胞レベルの変化が身体全体にも同じ変化となって現れ、さらに別の個体へも連鎖します。身体の密度が増して個として強くなっているにも関わらず、外界と遮断されるどころか逆に調和するという一見矛盾していると思うような事があり、頭で考えると不思議な気もしますが、調和しているからこそ強いというのが実感できると大変感動します。

 重力の垂線についても、人体には垂直に立つ仕組みがあると仰っていました。私達は脳が身体を制御しバランスを取って立っていると考えてしまいますが、そうではなく重力の垂線により立たされる仕組みがある。自分の力で立っている等という考えは横着で横柄な考えである事に気づきました。立つという行為だけでも感動が芽生え、謙虚にならざるを得ません。重力により立たされている我々は、宇城先生がいつも仰る「生かされている」という事にも通じていると思いました。
 宇城先生を見て、本当の科学者というのは細分化された一分野の事だけを追求する人ではなく、全体として真理から法則を導き出せる人の事なのだと思いました。分野分野の寄せ集めは部分体の集合で、全てが帰納論の集まりとなっていると思います。宇城先生の理論は真理から導き出した演繹論であると思います。空手に関しても同じ事が言えると思います。フルコンは競技に勝ったから強い、バットを折ったから強い、と考えが帰納的で自分の考えと違った事実を見た所で「例外もある」と真実を認めようとしません。宇城先生の空手は「気」という真理からなりたっているため、そこから発生した技は演繹的で例外はありません。
 実践では、宇城先生の二天を見せていただきました。両側から竹刀をつかんだ二人の相手を同時に瞬時に倒したり、両側にいる二人の相手の首を同時に外側に切る動作で倒したり、これを刀にするとスパッと切れると仰っていました。竹刀が届かない位置に立って二刀を構え、降り下ろすと何故か簡単に届いていたり、常識を超越した剣術でした。同じ二天の構えでもカッコだけのものと気を通して構えた物では全く別物で、切られる前すでにやられているのがわかりました。打たずに勝つは上の勝ちとはこの事なのだと本当にそんな事があるのだと感動いたしました。どんなに一生懸命武術修行をしても競技中心であったり、形骸化したものの中にいるのでは一生見る事も無ければ体験する事も無いと思います。本当に貴重な時間を与えていただき感謝しております。

 呼吸が止まっているという検証では、正座して横から押されると簡単に倒されてしまい、我慢した所で目の前のペットボトルは取れません。しかし、気を通されると何の抵抗もなく取る事ができて、更に押している人を投げる事もできました。仕事も生活も横槍が入ると前に進めません。それを人のせいにしてしまいますが、自分が部分体で呼吸が止まっているのが原因でした。人のせいじゃないと実感できただけで敵意は優しさに変わり、心の接触点も消えた感じがして、スッとして勇気が沸いて来ました。 宇城先生は私の生活を見てるのかなと思う程、お話や検証がよく自分の生活に当てはまりドキッとしますが、いつも宇城先生に見られていると思って勇気を持って前に進めるようになりたいです。

 

これからも会う度に成長している姿を   東京 38歳 男性 M.K

  今回は3月の合宿後、初めての道塾でした。合宿で先生と寝食を共にしたおかげで、今回の講義は、より先生が身近に感じられました。
 今回もいろいろなお話をしていただきました。その中でも先生のお話で印象に残ったのは、日本とフランス 柔道の取り組み方についてです。柔道は日本が発祥で、そのことを誇りに思っています。しかし、その誇りが現在の不祥事につながっているのではないかと思います。 試合に勝つための体罰指導、筋力トレーニング中心の稽古。「お家芸としての意地を守ること」を重きに置き、結果、その代償として多くの尊い人命が失われている現実を直視せず、まったく変化をしない。考え方が居着いてしまっている感じがします。そこには「愛」が感じられません。 現在の日本柔道は、先生のおっしゃる「部分体」的考え方です。 
 その点、フランスの柔道に対する取り組み方は、小さい頃から柔道に慣れ親しんでもらい、 柔道を好きになってもらうことから始まっています。それは、一人でも死亡事故が出てしまった現実をしっかり受け止めて、再発防止を防ぐことを主に置いています。そこには柔道や、柔道を行なう方々への「愛情」が感じられます。フランスの柔道に対する取り組みは「統一体」的考え方です。私は柔道のことについて先生のおっしゃられたことが、他人事ではないと思いました。

 柔道に限らず、現在の教育の現場は「愛」のある教えが少ないと感じます。子供達は、順調に成長すれば小学生→中学生と進学していきます。果たして家庭以外で「愛」ある教育をしてくれる教師がいるのだろうか? そんな不安がよぎります。先生が高校生に「福島でボランティアさせてから野球の試合をさせてみたら、必ず良くなる」とおっしゃいました。しかし、父母の反対があるかもしれない。先生は恐れずに実行し、変化させていきたい。そこには先生の「愛」と「勇気」が感じられました。このぐらいの気概を持って行動しない限り、周りは変わらない。世の中を変えることができない。こう教えて下さった感じがしました。ヒントを得て、不安を希望に変えられる気がします。私もこのように行動していきます。

 実技で呼吸が止まっている実験をしました。二人一組になり、一人が正座をして、飲み物入りペットボトルを目の前に置き、ペアの方が肩を押した状態で飲めるか?という検証を行ないました。肩を押す力が強いと正座が崩れ、ペットボトルを掴むことすらできません。今度は押す力に対抗して正座が崩れないようにすると、崩れないけどペットボトルが掴めません。
 しかし気を通すと、押す力にビクともせず、何だか正座しているけれども 地面につながっている感じがして、どっしり構えることができ、ペットボトルも飲むことができ、更に押している方の手を簡単にふりほどくことができる。普段、私たちは一つの行動で呼吸が止まってしまいます。肩を押された時に、既に呼吸が止まり、肩を押されたことだけしか対処ができない。
 しかし気が通り統一体になると、二つの出来事を同時に対処することができる。統一体になると生産性が上がると先生がおっしゃいましたが、まさしくその通りだと思います。そして、この素晴らしい能力が、人間には元々備わっていることに感動を覚えました。

 先生が、ボールを部分体で投げる場合と統一体で投げる場合を実演して下さいました。
部分体で投げた場合、目で追うことができました。しかし統一体で投げた場合、いきなりボールが現れ、まったく目で追えず、しかもビビってしまいました。ボールの重さも、部分体と統一体では全然重さが違います。ふと、これはスピードガンの意味がないのでは?、と思いました。よく高校野球でもプロでも、ピッチャーが投げるスピードボールの速さが電光掲示板に表示され球場がどよめきますが、この考え方が部分体的考え方なのだと、ようやく気がつきました。また一つ、野球の見どころを発見し、とてもうれしい気分です。

 講義終了後、先生が「ここに指を立ててごらん」とおっしゃり、 私は先生の左右の腰の柔らかい場所を人差し指でグッと押しました。そして先生が気を入れた瞬間、先生の腰が堅くなりました。先生は「普段柔らかく、鍛えることが出来ないところが堅くなるなんてあり得ないだろう?」とおっしゃいました。凄い体験でした。更に、先生の腰を私が押している時、私の腰を押している方がいました。その方も、先生が気を入れた瞬間、私の身体で先生の気を感じることが出来たのが、更に凄いことだと思いました。まるで電気が通電するかのように感じるなんて、気の凄さを感じることができ、幸せなひとときでした。
 今回は、気の凄さを身を持って体験することが出来ました。合宿など、とても緊張する場面を体験し、少しずつ成長している感じがします。そして少しずつ先生に心を開いていると思います。自ら率先して先生の実技に参加することにより、もっと深い教えを受けることが出来ると思います。これからも先生に会う度に成長している姿を見せられるよう、日常をしっかり過ごしていきたいと思います。