奥村繁信先生のこと

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 合気会師範であった奥村繁信先生に最初にインタビューしたのが1983年の5月(『合気ニュース58号、59号掲載』でした。奥村先生との弊誌とのご縁は大変長く、その後、1990年(同86号、87号)、1999年(同120号)、2002年(同132号)、2007年(『道』誌151号)と数年ごとに、インタビュー取材をさせていただきました。

 そして2007年の『道』152号からは6回にわたり「失われた日本人の美徳」と題する連載の執筆をしていただきました。

 奥村先生が他界されたのは連載が終わった号(157号)のまさに2号あとのことで、159号でとても悲しい気持ちで追悼記事を掲載させていただいたのを覚えています。

 奥村先生は大変な博識で、合気道の歴史だけではなく、日本の成り立ち、日本の歴史に精通しておられ、合気道のことだけでなくたくさんのことを教えていただきました。

 インタビューでは、奥村先生は、いつもぴんと背筋を伸ばされ、姿勢を決して崩されず、事前に準備した様々な資料を手に、語るような、諭すような口調でお話をされました。スタンさんと二人、なんだか大学で講義を受けているような不思議な気持ちになったものでした。

 そんな奥村先生にスタンさんはとくに満州時代の盛平翁について質問をしていました。

 それは、奥村先生は3歳から満州に渡られ、そこで教育も受け、大学も満州の建国大学だったからです。当時の建国大学では、合気道が必須単位だったそうです。たしか奥村先生のお母様が8年先に合気道をやられていて、お母様が先輩なんだよと言っておられました。

 盛平翁に初めて会われたのも満州で、当時、盛平先生は、毎年秋になると満州にこられて演武をされていたそうです。

ということで合気道史家のスタンさんは、満州時代の盛平先生についてはこの奥村先生と、当時、建国大学で合気道を教えておられた富木謙治先生によくお話を聞きに伺っていたのでした。

 戦後の合気道ほか様々な武道の変遷もよく肌身を通してご存知で、戦後、GHQが武道は駄目だと禁止してしまった時に、柔道は、「柔道は武道ではないスポーツだ」と強調して禁止を免れたためにスポーツ化に拍車がかかった話とか、合気道の場合は、盛平翁がGHQがこないような茨城県岩間という田舎に引っ込んで、「合気苑」としてやっていたから守られたといったお話など、スタンさんが合気道の歴史の全体を理解する上でたくさんの当時の状況を教えてくださった先生のお一人でした。

 

 奥村先生は、合気道がスポーツ化を危惧されていて、合気道が、勝ったり負けたりというスポーツ化の流れにのってはならないこと、一般庶民が求めるもの、底辺で広がるものは、スポーツではないのだ、ということをいつも強調されていました。

 以下は、2007年に奥村先生にインタビューした時のお話の一部ですが、奥村先生が10年前に危惧されていたことは、今でも変わらないし、政治の世界においても、同じ状況のような気がしてなりません。

「僕は大正11年生まれで今85歳です。こういう高齢化社会になってくると、死ぬまで続けられる体育方法が要るのです。一等とか二等とか何分何秒とか、勝った負けたというのは35から40歳までなんですよ。みんな体力の限界でね。若い者に負けてしまう。負けると人間、どうですか。悔しいし、歯ぎしりしてね。いつまでも歯ぎしりしててもしようがない。ウォーキングとか武道の型とか、マイペースでできるのをやれば、70、80、90と、死ぬまでできるんです。ところが今はどうですか、スポーツ、スポーツとマスコミが騒ぐ。皆マスコミが悪いんです。

 今、為政者は何を考えているかと言うと、この世の中の貧富の差や政治に対する不平は行きつくところ、革命になるから、その勢力を分散させるために、スポーツに気をそらせている。若者がスポーツに熱中したり、テレビゲームに凝ったりしてると、社会は安泰なんです。だからそういう意味で利用されているんだと思う。

 江戸時代の大名はどうですか? 百姓一揆が怖いでしょ。何をしたかといったら阿波踊りやお御輿かつぎとか、みんなあれは軍事政策ですよ。『わっしょいわっしょい』やってるうちは、百姓一揆は起こらない。」

 このインタビュー記事は、オンライン記事配信のnoteで読むことができます。また1983年から1999年にかけてのインタビュー記事は、会見集『植芝盛平と合気道』第2巻に収録されています。この本の電子版もあります。
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オンライン記事 note [『奥村繁信 合気会 合気道九段に聞く』季刊『道』151号(2007冬)]
          [『現代と合気道』季刊『合気ニュース』120号(1999春)]

[『合気ニュース』編集長 スタンレー・プラニンとの取材の思い出]