『合気ニュース』創刊30周年に思うこと
 スタンレー・プラニン インタビュー

(季刊『合気ニュース』 140号より転載)

 

季刊『道』の前身、『合気ニュース』が創刊30周年を記念して、140号から142号の3回にわたり掲載した記事です。

合気道開祖・植芝盛平に魅せられた当時の編集長スタンレー・プラニンが『合気ニュース』創刊30周年にいたる思い出を語っています。

 


1974年に創刊された季刊『合気ニュース』は本年で創刊30周年を迎える。
節目の年を記念して、本誌編集長スタンレー・プラニンに
「合気ニュースの誕生」「これまでお会いした師範方のこと」
「これからの抱負について」などを語ってもらった。


2004年3月3日
聞き手 『合気ニュース』編集部

 

◆ 「口惜しさ」が引き金となって

―― 編集長は合気道にかかわって42年とおうかがいしましたが、なぜ合気道だったのでしょうか?

プラニン 合気道道場がたまたまうちの近くにあって、高校で演武会をやったのです。
 高校生の私はそれを見て素晴らしいなと思った。いつか稽古をやりたいと思ったけど、その時は何もやらなかった。
 そして1962年の夏、あるパーティーで私の友達がチンピラに殴られるという事件があった。近くで見ていた私は何もできず、口惜しくてね。それで翌々日、その合気道道場に入門したのです。それがスタート。
 
 その道場は養神館系だったのだけど、少しやった頃に潰れたので、合気会系のYMCAで稽古した。そこの先生が当時合気会師範だった藤平光一先生の弟子の高橋イサオ先生でした。私は藤平先生に2段までいただいてます。

―― 編集長がライフワークの対象としている植芝盛平翁ですけど、その頃から知るわけですか?

プラニン そう。高橋先生が指導のなかで開祖のことを語るのを聞いたり、吉祥丸道主や藤平先生の著書(英文)を読んだりして興味があった。その頃高橋先生から、ある映画を見せてもらってね。それを見て感動し、いつか開祖に会いたいという気持ちでした。

―― その時の映画というのは?

プラニン ビデオ『植芝盛平と合気道』の第二巻『武産合気』の中に入ってるよ。たしか藤平先生がハワイに行く時に合気道紹介用に作った映像です。開祖が、藤平先生、吉祥丸先生、斉藤先生たちを受けに演武をされているもので、和歌山で撮影されたものです。

合気道をはじめた頃

合気道をはじめた頃
後列右から二人目がプラニン編集長 
前列中央 植芝吉祥丸二代道主
前列左 高橋イサオ氏、1963年

―― 初来日は何年ですか?

プラニン 1969年の夏。10週間の滞在だった。その時は主に合気会本部道場で稽古をした。岩間の茨城道場へも行ったし、西尾先生の巣鴨道場、小林先生の小平の道場、山口先生の会社の道場にも顔を出した。当時、私の日本語は挨拶ぐらいでしたね。

―― そうなんですか! 確か編集長はフランス語、イタリア語、スペイン語も話せるとか?

プラニン そうだけど・・・ それから茨城弁もね。

―― 茨城弁もできるんですか!?

プラニン んだ!(笑)。岩間に5年くらいいたからね。

―― 初来日の時の苦労や困ったこととかは。

プラニン 僕はカリフォルニアの人間だから、蒸し暑さがつらかった。稽古着がベタベタになって・・・ でもその夏がすごく修行になりました。
 最初の一週間は旅館に泊ったけど、本部道場に紹介されて、世界旅行に出かけたオランダ人宅の留守番の仕事を見つけたので、そこから稽古に通ってました。エアコンがあったから助かったよ(笑)。帰国後、すぐにベトナム戦争が起こって軍隊に入りました。

―― 軍隊では合気道を教えていらっしゃいましたよね?

プラニン アフリカのエチオピアに送られたのだけど、そこで合気道を教えました。18ヶ月ぐらい。帰国してモントレー(カリフォルニア)の軍の外来語の学校に転勤してからもフランス語を教えながら、近くのサンタクルーズという町の大学で合気道を教えました。
 3年後、除隊してからモントレーに住み、そこの柔術の道場で合気道を1年くらい教えた。それから自分の家のガレージで教え始めてから、専門の道場を開いたのです。小さな町だし、合気道の道場で食べていくのは大変だったよ。その1年後ぐらいに日本に引越してきました。1977年の8月です。
 それまでにも何回か日本へは来ていました。1973年には2回、1976年にも国際合気道連盟の最初の会議に参加したり、引越しする前は日本に4回来てます。
 最初は土浦に住みながら、1年後は岩間に移って、トータルで5年ぐらい斉藤守弘先生の岩間の道場で稽古しました、通いでね。その後東京に移りました。